眠りに就かなくてもいいのは何故? いつでもその背がぴんと伸びて、一度も曲がらないのは何故? その疑問への答えを持ち合わせるのに、彼は人間ではないではないものだからというのが正しいのかもしれない。ハル・キングの一片の隙も感じられない背筋を斜めに眺めながら、カワダ・イサオは月光の中を歩く。甲板の上に出ると、やわらかい潮風が頬を撫でた。何の目印もない平坦な海、その波をかきわける穏やかな音である。
 その音を耳にしながら、カワダは前にいる背に話しかけた。
 「人払いは苦労しますよ」
 「そうだな。無理な事は出来ぬだろうから」
 「貴方のそういう所に好感が持てるんですよ」
 カワダは素直にそう褒めた。人生とは、日本人では最大で80年から100年ほどになっている。80でも100でも折り返しを迎えている年齢のカワダは、口に出す言葉はストレートに琴線に触れることを考えずに言う事にしている。愛情表現を出し渋ると、いつ伝えられぬようになるか分からぬ身である。キングはその言葉にありがとうと熱のこもった声で返した。若い時は恥ずかしくて出来なかったような熱のやり取りである。だがまだ羞恥心が僅かにあって、それは自分に照れているせいか、カワダはふっと顔を俯かせた。潮風が顔を舐めてくる。カワダは立ち止まった。甲板からの落水を防ぐために、命綱なしで近付くのは避けたのだ。キングは、そんなカワダを置いて行ってすたすたと甲板の端にまで歩いていく。穏やかな海である。落水防止策がある場所ではない。まるで暗い海に吸い込まれるように、キングはすたすたと何でもないように船の端まで歩いていく。落水するかもしれない。むしろこれは自殺であろうか。あまりにも、あまりにも暗い海にキングは近付いていく。夜の闇でキングの艶がある肌がたまに月光で光る向こうに、黒い海がぽっかりと口を開けているようだった。黒というのは多彩である。この世はあらゆる色に満ちていて、その色を感知できる喜びが、目を通して美しく脳に叩き込まれる。キングは裸になった。その衣服を預かっているカワダは、ほのかに香って来るキングのにおいを吸い込んだ。そのうちに、ばしゃんという音が立つ。落ちたのだ。
 カワダは焦らなかった。落水者あり、と叫ぶはずの彼だがカワダは平然としていた。キングを見捨てたのではない。カワダは衣服を抱えながら甲板の端にゆっくりと近付くのだった。
 キングの奇行と思える行動に焦らなかったのは、過去に理由があった。ハワイにバーンビッグブレイバーンの為に集結した時である。キングに、打ち明けたいことがあると言われ、カワダは小首を傾げながらついていった。彼らの間で、心が通じ合うということは起きていた。何度も何度も起きていた。だからこの美しい海の前で、まるでプロポーズを待つかのように妙に心が躍るのだった。
 そこでキングに言われたのが、海辺に来て欲しいと言うものだった。余計に心が躍る。年甲斐もなく浮かれた。そこで人気のない浜辺にて落ち合ったカワダの前で、キングは唐突に衣服を脱いだのだった。
 「え」
 「すまない。君には、ちゃんと見て欲しい」
 「え、え、でも」
 「どうか落ち着いて欲しい。待っていてくれ」
 そのまま海へ身を翻す。これも奇行であった。カワダは置いてけぼりのまま、ただ何が起きるのかとおろおろと海を見つめるのだった。沖まで歩いた巨体が、ばしゃんと海に沈む音がする。一体何を見せると言うのか、一体何を伝えたいのかがカワダには分からなかった。だがそのうちに、キングらしき人影が海から上がって来る。まさか魚でも取って来るのかと常識的に考えているうちに、ずる、ずるっとした音が浜辺に向かってきた。それは人間の足音では無かった。
 「ハル…?」
 「……」
 砂浜を蹴るように、何かが向かってくる。星明りの下、まばゆいまでの夜の灯りの下、見えているはずなのにキングの変わり果てた姿に、カワダは目を見張るのだった。
 「ハル、ですか?」
 「ああ」
 人間の声帯だったので、カワダはひとまず安堵した。顔もキングである。上半身は人間のからだである。下半身は魚のようであった。蛇のようにも見えるが、魚である。魚の尾が、下半身についている。人間の足はそこにない。逞しい上半身に見合うような巨大な尾が、ついている。カワダはかつて子供の頃に見た絵本の人魚を思い出した。
 「人魚…ですか…?」
 「君は聡明だな。大抵の者はきっと逃げ出す」
 「ハルのことで逃げ出したりしませんよ」
 力強いカワダの声は動揺に紛れた本音か、その声にキングはふっと笑った。
 「君で良かった。私は、見ての通りだ。人間ではない」
 「ハル」
 「君を愛している。だが、君を幸せに出来るかは怪しい所だ。海に暮らす私と、陸に住む君と…きっと互いに傷付く事もあるだろう」
 「しかし、ハル。私の気持ちは変わりませんよ」
 動揺しているであろうに、カワダの言葉はひたすらに力強い。キングはふっと笑った。諦観の笑みである。ここに彼を呼び出したのは、諦めてもらう為であった。ただ逃げ出して、悲鳴を上げられるというのがセオリーであるはずだった。だがカワダの思いも、捨て鉢でもなさそうな思いの強さを見誤ったか、キングは諦観の笑みをもう一度浮かべる。
 「抱き締められるだろうか?」
 「ええ、もちろん」
 海にまみれているものの、抱擁はあまりにもカワダが待ち望んだものだった。慣れ親しんだ肌は上半身にしかないが、ざらりとした鱗の感触が嫌ではない。カワダは思ってもいない感覚に、強く強くキングを抱きしめた。それは意外な出来事の反動であるかのように思えたが、かえってそれがカワダの思いを増幅させ、障害があるからこそ燃え上がったのだろう。強く強く、抱擁は長い時間になった。
 「おかえりなさい、ハル」
 キングが甲板までよじのぼってきたのを受け止め、カワダは手に持っていたタオルを差し出す。人魚の腕の力だけで数メートルをよじのぼってきたのだ。だがそれは容易い事だとキングが言っていた。海の覇者である人魚の力をもってすれば楽だそうだ。だがその目撃者を増やすわけにもいかず、カワダは人気のない時間帯を探り、万全を期して愛する者の入水を手伝っている。もう陸に暮らす方が長くなったが、彼の本来の生き方は海なのだ。戻って来たキングを抱き締め、人の体温を移してカワダはキングの背を撫でる。人ではないことに不便はある。だが、それでも愛している。キングの手は人間のものにしては、爪が鋭くあまりにも恐ろしいが、その見た目に囚われはしなかった。
 眠らないのは何故? 一筋も背を曲げないのは何故? その疑問を晴らす正体だが、今のキングはただ恋人に甘えるただの生き物であるのだった。
 
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