手折れど折れぬ枝を折る|岩及
→タイトル:手折れど折れぬ枝(=及川さんの強さ)、と思わせておいて、手折れど折れぬ枝(=大事な時期に怪我をしたことへの隠しようのない不安)を、折る(=払拭してくれる、というよりへし折ってくれる岩ちゃん)
ラストシーンの木漏れ日は尊敬している書き手さんのオマージュです…失礼しました…。
高3の及川さんが怪我をしたという原作if軸です
その一瞬を何度恨んだか知れない。
*
タン、タン、と体育館の床に叩きつけられるボールの音は、及川の耳に残ることなく通り過ぎる。もう何年も聞いている、もはやそこにあるのが当然の音だ。意識しようとしてもできないほどに耳に馴染んだ音。体育館の外から聞こえてくる蝉の声のほうがよっぽど耳につく。
タンッ。タン。……ダンッ。
ひときわ強く弾んだボールが、大きな放物線を描いて壁のほうへ飛んだ。その先にいるのは及川だ。体育館の壁に背中を預けて、両足を伸ばして座っている。その視線はどこを向いているとも読めない。
スパイク練をしていた一年生の誰かが、あ、と口を開けた。あぶない、の「あ」だったかもしれない。けれどそれが音になることはなかった。心のどこかに正常性バイアスがあったのだ。飛んでいった先にいるのが及川さんだから。余所見をしていたとしても、ひょいとボールをキャッチして、何事もなかったかのように返球してくれると、疑いもしなかったから。
「おい」
ブルーグリーンの風が吹いた。及川の頭めがけて飛んでいったボールは、その直前でぴたりと動きを止めた。
「ボーッとすんな、クソ川」
「……岩ちゃん」
ボールの勢いを一瞬で殺してみせた男は、目を丸くする幼馴染の姿など一切視界に入れず、床に軽くボールを打ちつけてから返球した。あざーっす、と声が飛ぶ。しばらく動きを止めていたコートの中がまた機械的に動きだす。
「ありがとね」
へにゃりと眉を下げた笑みは弱々しい。元より日には焼けていない男だけど、今はさらに顔色が悪く見える。夏の暑さのせいではない。ユニフォームの白さのせいでもない。……強いて言えば、その右手の薬指に巻かれた包帯のせいか。
「危ねえから出てろ」
「ゴメン。ちょっと考え事しちゃった」
「いいから外出てろ」
噛み合わない会話に焦れて、岩泉は立てた親指を体育館の壁に向けた。出ろ、ともう一度ジェスチャーする。
「大丈夫」
「おまえが大丈夫でも他の奴らが大丈夫じゃねえんだ」
いつもなら体育館に響いているはずの張りのある声が無い。それだけじゃない。及川自身も感じているはずだ、チラチラと刺さる視線を。チームメイトから向けられるなんともいえない空気を。
包帯に包まれた指が蒸れてむず痒くて、及川は怪我に障らないようにしながら薬指の根元をぎゅっと握った。むず痒さは少しだけ治まった。けれど鳴き止んだ蝉がまたすぐ鳴き始めるのと同じように、痒みは一分も保たずにぶり返した。
薬指にヒビが入っていると診断されて二日経った。まだ二日だ。けれどこの二日間、及川の頭によみがけるのは怪我をした瞬間のことばかりだった。誰が悪いわけでもない、けれど何かを恨んででもいないと正気を保てないほどの、どうしようもない怪我だった。
医者にはとにかく安静にと言われた。そんなことわざわざ言われなくたって安静にするつもりでいた。治りが遅くなったら困る。いやもうすでに困っている。こんな時期に怪我をして。三年生の夏がどれほど大切なものかなんて考えるまでもない。
それでも練習に顔を出してしまうのは、ここに居ないと神様から別の何かまで取り上げられてしまうのではないかと、おさなくも恐れているからだ。
迷惑も、心配も、気遣いも、かけてしまっていることには重々気づいているのだけれど。
「……ゴメン」
及川は左手を床について立ち上がった。練習が始まってからずっと座っていたためか、急に角度の変わった坐骨がじんと痺れた。よろけた拍子にシューズの紐を踏んで、白い紐の先がぱらりと床に散らばった。
「あ」
再びしゃがんだ及川が紐を手に取る。けれど包帯を巻かれた薬指を庇いながらでは上手く結べないようで、緩慢な動きで何度も何度も輪っかを作っては取り落とした。
見かねた岩泉が、貸してみろ、と隣にしゃがみ込んだ。無骨な指が紐をちょうちょの形に整えていく。ぎゅ、と左右に引っ張られた蝶の翅は反対の足のそれより大きく立派だった。
「岩ちゃんに結んでもらうの、初めてじゃない? 昔は俺がやったげてたじゃん。岩ちゃん何回やっても縦結びになるから」
茶化した調子で昔話をする男を置いて、岩泉は颯爽と立ち上がった。ここで何か返せば話が長くなると悟ったのかもしれない。つれないなあ、と独りごちて、及川は結ばれたばかりの紐を見下ろした。これを引っ張ったらまた解ける。そしたら彼はまた結んでくれるだろうか。何やってんだ、って冷たい視線を送られて終わりだろうか。
「何やってんだ」
行くべ、と手が差し伸べられた。その手のひらの真ん中に、現国のノート、とサインペンで書かれてある。現国のノート、持ってくんの忘れたのかな、それとも使い切ったから新しいのを下ろすのを忘れないようにと思ってメモしたのかな。
急に膝の力が抜けて、及川は立てなくなった。仕方なしに岩泉の手を取った。腕に力が入ると同時に力いっぱい引っ張られた。身体がぐんと起き上がって、勢い余ってたたらを踏む。キュ、とシューズの裏が高く鳴った。
「行くべ」
それが「行ってこい」じゃないことに及川は安堵をおぼえた。安堵している場合じゃないことは自分が一番よくわかっている。安堵して、立ち止まっている暇なんてない。わかっている。痛いほどにわかっている。苦しいほどにわかっている。けれど、安堵したのだ。心が緩んだ。
「岩ちゃん」
体育館の出口に向かう背中に声をかける。一度目は聞こえなかったようで、もう一度呼んだらやっと振り返った。
「治るよね」
タン、タン、とコートからは軽快なボールの音が聞こえてくる。体育館のすぐそばの木からは耳に痛いほどの蝉時雨が降っている。
「治るべ」
岩泉は振り返らず言った。堂々とした声だった。彼はいつもそうだ。数学の授業で当てられたときも、間違いの答えを堂々と発表する。わからなくても、自信がなくても、潔いほどに堂々としている。
だからきっと、その答えは、間違いだったとしても正答なのだ。
「そっか」
それだけ返して及川は岩泉の背中を追った。岩ちゃんが治ると言ったからには治るのだ。俺はバレーボールを失わない。安静にしていればあのコートに戻れる。頂上を目指して、挑戦し続けられる。
体育館を出れば、コンクリートの床に木漏れ日がさざなみのような模様を作っていた。シューズの先がきらきらと光る。及川は力強く、一歩を踏み出した。