異変はデルウハが目覚めた時から始まっていた。研究所の中に甘い香りが漂っていたのだ。濃く甘い香りである。食物から来るものではない。花を煮詰めたかのような、それでいて人工的なものはない香り。本能を刺激する香りである。デルウハは、それをうっとりと嗅いでいる暇はなかった。正体が何なのか分かっているからである。
研究所は地下にある密閉された空間だ。ダクトなどで換気はされている為、香りが充満しているという訳ではない。だが、それでも靄が空中を漂うようにそこらの壁に貼りついている気がした。基本的に臭素の分子は非常に細かいのだ。熱で飛ぶと聞いたことがあるが、まさか熱風を研究所内に送る訳にもいかない。デルウハは朝食もそこそこに、着替えて即座に研究所の様子を見に行った。食を重んじる彼からすればかなりの異常事態である。
研究所はおおむね平静であったが、見回っているうちに居住区でうろうろとしているハントレス達に出会った。彼女らもこの甘い香りが気になって自然と集まっているようだ。その為デルウハを見つけると、六人とも怪訝な顔をしてみせる。
「おはよう。…ねえ、デルウハはなんかこの匂い分かる?」
「お前ら、分かるのか」
「ええ。朝起きたらずっとこんな調子で。でも研究員の人は分からない…っていうんです」
いちこは神妙そうに言った。ああそれはそうだろうとデルウハは考える。この香りの正体は、Ω性のヒートだからだ。β性が大半を占める研究員には分からなくて当然である。だが見回っていて、α性であろう研究員が赤い顔をして便所に駆け込んだのを目撃したし、混乱が出始めるのは遅くない。
「お前ら、飯は」
「まだです。なんだか、甘い香りが気になって」
ハントレスがα性であることが確定し、それを確認できたことはいい。だがデルウハは気がかりがある。Ω性のヒートに、αが暴走する懸念だ。
「ちょっと確認してくる。お前らは待機していろ」
そう言づけてから、すぐにデルウハはガスマスクを付け、彼女らの人数分も持ってきた。
「特殊なガスが漏れ出してるそうだ。害はそこまでだが、影響がある。お前ら、食事持って外に行け」
「ええ!? 寒いのに!」
いつかが文句を言う。
「今ガスの発生源を特定してるところだ。外で訓練しとけ。終わったら俺が呼びに行く」
「ええー!」
「…あの、いたらダメなの?」
ハントレスの不満たらたらの中で、むつがおずおずと提案してきた。害が無いと言うのが引っかかっているらしい。
「害が無いなら、ここにいても…」
「いやダメだ。影響の詳細は俺も聞いてないがが、大人より子供に負担が掛かるそうだ」
「え、優しいじゃん。デルウハ、にこ達を気遣ってるんだ?」
にこがそう言って笑う。彼女が素直にガスマスクをつけ始めたので、いちこやみちもガスマスクをつけ始めた。いつかも続く。
「あ、息しやすい! なんかいいかも!」
にこがそう言ったので、半信半疑だったよみもむつもつけ始める。それはそうである。ヒートはフリーのαを誘い出し、番にするための発情フェロモンだ。子供のαにはまだ刺激が強いであろうし、性交渉に発展した際にΩが一人の場合…争いに発展する。αとΩの最大の難点である。αであるハントレスが争い合う未来を避けるのには、Ωを特定し、その発情を終わらせなくてはならない。デルウハはα性であるので、その出所は確認できる自信はあった。あとはハントレスを研究所の外に出し、終わったら呼びに行くだけだ。ハントレス達がサンドイッチ片手に素直に外に出たので、デルウハは息を吐く。あとは、Ωの特定だけである。
ほとんどがβ性であろうこの研究所において、Ωの心当たりはデルウハにはなかった。だが、甘い香りの先を歩いて行けば問題は無い。デルウハはガスマスクを外した。むせ返るような甘い濃い香りが、むっと鼻の周りを漂って、消えそうにない。見えない桃色の靄が、デルウハの性感を引き出そうとまずは嗅覚から責め立てている。くそ、とデルウハは悪態づいた。
「誰だ、こんなところでヒートかましてる奴は…」
文句を言いながら歩き出す。香りを無心に嗅いで、このまま自慰に耽ったらさぞ気持ちが良いだろう。そうさせる為のにおいなのだ。脳天がしびれ、性的欲求以外は何も考えられなくなる。その誘惑に耐え、辿り着いたのは所長室だった。あの野郎。
デルウハが怒り心頭で所長室のドアを開けると、より濃いあまあい香りが漂った。その向こうで、所長がデルウハに気付くといつものように笑う。
「おはようございます、デルウハ殿」
「おはようじゃねぇ…」
「へっ?」
所長は心当たりがないようだ。だがその顔のころころとした変化、驚いて見開く瞳の輝きが、デルウハの目に色濃く映る。まずいとデルウハは思った。Ωのヒートに当てられ、魅力的に見えるのだ。その場で足が止まる。濃厚な香りが所長が動く度にうねり、デルウハにまとわりつく。動くなと言いたいところだが、口がうまく動かなかった。息をする度、肺に甘い匂いが満ちていく。息が切れて動悸が激しくなる。それが不快では無いから困るのだ、甘くて甘くて甘くて、体に染み込んでぽかぽかと血流を良くする。くそ、ああくそくそくそ。身体が勝手にその場で曲がろうとする。
「デルウハ殿…?」
心配そうに眉を下げて覗き込む所長の顔が、魅力的に見える。目が勝手にぎらつき、今にも襲い掛かってしまいそうだ。デルウハは彼の肩を掴むと、必死に本能に抵抗する為に手に力を込めた。握りつぶせるまでの力である。痛みに所長が呻くが、デルウハは怖いまでに真剣な顔で尋ねた。
「あんた、Ωだな?」
「えっ」
「ヒートだな?!」
「え、え…そんな…そんな」
所長は見るからに狼狽えた。その顔すら魅力的に見えるから、フェロモンの効果は覿面である。だが今はその魅力に見惚れている場合では無いのだ。ヒートであるなら、止めさせるしかない。そうでなければハントレスにも影響が出て、ひいては研究所が崩壊しかねない。それほどフェロモンの影響は甚大だ。もしこの発情が所長ではなかったら、このまま殺して外に放り出している。だが所長という立場で、現状代わりがきかない。またハントレスに説明が上手く思い付かぬ今、脳細胞がこのΩを求めて紙のような理性で必死に耐えている。襲うな、今はその時ではない。聞き出せ、現状の回避策を。そう言い聞かせている傍らで、所長は青ざめた顔でおろおろし出した。
「よ、抑制剤は打ってありますのに…」
「あんたの年齢から考えろ、効かないんじゃないのか?!」
「そ、そんな事例は…確かに、多少効きが悪い事は報告されていましたが…」
「そんなもんはどうでもいい。Ωだな!?」
「で、デルウハ殿。怖い声を出さないでください。そうです…私は、Ωです」
認めたからか、所長はしおらしく頷く。デルウハは額に青筋を立てながら、怒りとも性欲ともつかぬ衝動に耐えていた。
「あんたのヒートの影響が出てる。現に、ハントレスが反応していた」
「で、でもこの研究所の換気は完璧なはずで…」
「じゃあ何か? 俺が嘘をついているとでも?」
ふーっ、ふーっと獣のような息切れを起こし、ぎらぎらとした目で所長を見ている。デルウハの豹変ぶりに、所長は認めざるを得ないのか項垂れた。
「すみません…抑制剤を今、追加で」
「遅い」
そう言うと、デルウハは所長の腕を掴むと併設されている仮眠室に放り投げた。数脚の医療用なのか簡易なベッドがある。そこに放り投げられ、所長はベッドに背から倒れ込んだ。う、と声が漏れる。痛みというよりも衝撃が声を出させたのだ。起き上がろうとして周囲を見渡すと、デルウハが上着を脱いでいた。逞しいからだに、汗をかいた服が貼りついて浮き上がっている。息を切らし、目をぎらつかせた男に、所長は嫌な予感がしてベッドから降りようとした。だがその前にデルウハに腕を掴まれて逃げられなくなる。
「どこ行く?」
普段の合理的なデルウハの声ではなかった。地の底を這うような声だ。アウターを引き剥がすように脱がされ、そこら辺に放り投げられる。所長の馬乗りになり、シャツを引き裂くように力任せに破かれた音がした。その音に何故か現実味がなく、所長は、まるで自分が主人公である映画を安全地帯から眺めているような気分であった。ただこのまま犯されるのだと悟った時、体から魂を抜いてしまったようである。しかしデルウハの手がズボンに掛かった時、切迫した状況に魂が戻ってしまう。思わずデルウハに向かって叫んでいた。
「で、デルウハ殿…! 抑制剤はまだあります。作ります! ですからご勘弁を…」
「遅いんだよ。もうヒートの影響受けたガキどもがいる。俺も受けてる。待てないんだよ」
「い、嫌です。お願いします、ご勘弁を…!」
「元はと言えばあんたのせいだ。首出せ」
ズボンも脱がされた挙句、くるりと反転させられて無防備に首をさらした瞬間である。デルウハが噛み付いた。
「痛い…っ…!」
甘噛みで愛情を示すと言うものではなかった。所有物を示すように、野生下で雄が雌を誰にも取られまいと跡を付けるかのように激しく痛みが伴う嚙み方であった。皮膚に歯の跡がくっきりと残り、おそらく出血はしないが内出血でどす黒くなるだろう。αがΩを番にする時の常とう手段である。これでΩはフリーではなく、噛まれたαの番となるべくフェロモンが変質するのだ。
「うう」
所長はたまたま当たった枕に顔を埋めて、少しの涙を流した。想い人がいたという訳ではない。淡い恋心はあったものの、成就には至らずに仕事に集中してきた人生であった。だからこその抑制剤である。だが今、おそらく死ぬまで純潔であろうΩ性は、デルウハの番という形へと了承も無しに変貌させられた。Ωからαの変更は不可能である。己の性を恨んでも仕方が無いが、自由の利かぬ事に涙が湧くのだ。だが、それだけにはとどまらなかった。
「え」
番はもう決まったはずである。所長のヒートもじきに収まる。だがデルウハの手が下着を脱がしたところで、所長は慌てて上体を起こすと振り返った。
「も、もうよろしいのでは?!」
「あ?」
「も、もう番になったはずです…ヒートも収まります。もう、何もしなくとも」
「これでもか?」
くるりと体を回転させられて、所長の目に飛び込んだのは勃起した性器である。先程のヒートの甘いにおいに完全に屈服した本能のかたまりだ。
「これでガキ共に会いに行けと?」
「あ…でも…それは…」
「いいから抱かせろ。あいつらが外で待ってる」
「…う、ぅう…」
本格的に所長は泣き出したが、デルウハが止まる筈もなかった。べろ、と分厚い舌で涙を舐めとるだけだ。ひ、と所長が肩を竦めている間に、そのまま暗転。全てが終わったのは数十分ほど後だったかもしれない。正確な時間は分からぬが、ようやくデルウハは腹が鳴った。性欲が食欲より下回った証拠であった。
「呼びに行くか」
身支度を整えるデルウハの一方で、所長はベッドに体を横たえている。完全なる不同意だが、拒否権がある訳もない。Ωはαと番にならなければヒートの期間、発情と繁殖に専念することになる。それを抑制剤で押さえ、本人は日常生活を送れていると自負があったのだろう。だがそれは無惨にも砕け散り、自負も矜持も何もかも本能に呑まれてしまった。それが無性に悲しいのである。また泣き出した所長に、いつもの格好のデルウハが近付く。
「ああ、服にも匂いがしみ込んでるな。念のため着替えて行くか」
自分の服に沁み込んだヒートの香りは、もう部屋に漂っていなかった。残り香だけである。これ以上ハントレスや研究所に何か無ければいいのだ。食事が食いっぱぐれないで済む。その為に、所長にはもう少し働いてもらわねばならぬのだ。再びべろりと涙を舐め取られ、大型犬のような動作に所長の涙が引いた。デルウハを見やると、怒りはもう無いようで所長が何故泣いているのか分からぬという顔だ。所長が呟く。
「デルウハ殿…」
「ん?」
「今後は、避妊をお願いします…」
「あんたの年齢なら、もう産めんだろ」
「そうかもしれませんが、後始末がありますので…」
その言葉に納得したのか、分かったとだけデルウハは返して踵を返すと、さっさと部屋を出て行く。着替えをしなければならないのだろうから早足だ。食事もしたいのだろう。所長は深い溜息を吐くと、ベッドにもう一度横たわった。体内に残る先程の感触が煩わしい。仕事はあるのだが、体調不良で休んでしまおうか。そう考えたが、このままベッドに横たわっているとみじめな思いが蘇るので、のろのろと体を起こすのだった。
ハントレスにはヒートの事は伝えていない。結局外で遊んでいるうちに、健康的に発散されたのかデルウハが着替えたことにも気付かず、わいわいと無邪気にはしゃぐだけだった。その報告を受け、所長は頷く。無垢な子供を不死身にしただけに飽き足らず、人の道を踏み外させるところだった。だから良かったのだと納得し、番となったことはデルウハとの秘密であった。それ以降無闇なヒートは無くなったし、良いことづくめのはずである。だがどうにもまだ落ち着かない。所長がそう思っていると、デルウハが肩をぽんぽんと叩いた。
「まだ納得してねえのか?」
「…いえ」
「フリーのαとフリーのΩが番になった。ただそれだけだ」
「…デルウハ殿はお嫌じゃないのですか…? こんな老いぼれに」
「嫌だったら殺してる」
冗談か分からぬ言葉に、所長は背を寒くさせる。だがその言葉はある意味で、あまりにも救いになった。妙な形の救いであった。
「…子供か。……出来たらどうしよう」
所長が一人になると決まって呻く。恐らく大丈夫だと思うその過信が、何故か科学者とはかけ離れた本能が、勘が悪い物を連れてきている。出来てもまだ七週になるまではエコー検査でも引っかからない。他に検査のしようはあるが…ひとまず所長はそのことを考えないことにするのだった。