赤子であるからといって、人間だからといって意味ばかり持ったように泣くばかりではない。意味もなく、大人には分かるまい理由で火がついたように泣く時もある。
イペリット退治の際に、まるで異音であるかのように赤子は泣き喚いた。当初は赤子の声に過敏に反応し、気が散っていたハントレスも次第にその騒音に眉を顰めるか、気にしなくなっていた。六人の中でもよみは最も眉を顰めていて、いつもの通り指示を出すデルウハと、まだ泣き叫ぶ赤子を抱える所長に鋭い眼差しを向けている。
「あのさ、五月蝿いんだけど」
「すまない。どうも機嫌が悪くて…」
所長は手を尽くしきったのか、どうにも顔色が悪い。その事情を汲み取れぬほど子供ではないが、よみはふんと鼻を鳴らした。デルウハが腕を組む。
「そんなもん、砲撃より気にならんだろ。集中しろ」
「デルウハ殿。女性の方が赤子の声をより聞き分けられると研究結果もあります。彼女らを責めるのは…」
所長はそう言いながら赤子を必死にあやしていた。15分前にオムツを替え、30分前にミルクを飲んだ。して泣き始めたので、所長はどちらも提示したものの、赤子はどちらをも拒絶してわあわあと泣いている。こればかりは理由を喋れぬ赤子に聞かねばならない。火が付いたように泣き始めて40分は経つか。その間に数体のイペリットは倒されたが、この場に残ったのは幾分か面倒くさそうな、あるいは迷惑そうなハントレスの冷たい視線ばかりである。それでも泣き止まぬ赤子を貸せ、とデルウハが少々乱暴に取り上げた。その手付きにハントレス達から非難の声が出る。
「危ないじゃん!」
「落とすわけねぇだろ」
それだけ言うとデルウハは、赤子の脇を両手で掴むと倒れているイペリットに向かっていった。唐突に現れた闖入者は、無惨な姿で倒されている。体がちぎれ、体液が零れて地を汚していた。デルウハに連れられてその遺体を見ると、赤子は唐突に泣き止むのだった。横たわるのは巨大で、赤子からすればほとんど黒く凹凸のある何かにしか見えない筈である。大変グロテスクな地球に馴染みのない死体である。それなのに赤子は、高い高いをされたからか、あるいはイペリットを見たからか。翠の瞳は、その遺体に釘付けになって泣き止んだ。
「おら、泣き止んだ」
「あー…なる…ほど…」
「いや、たまたまじゃない?」
納得しかけた所長に、にこが異論を挟む。子育てがそこまで簡単な方程式では出来ていないだろう。だが現実はデルウハに軍配が上がっている。赤子に隅々までイペリットの体を見せていると、笑い声さえ聞こえた。だが、高い高いの効果でもあるかもしれない。どちらかは結論付けるのには早いが、ハントレス達は思った。
「あれは、デルウハの子供だわ…」
デルウハの子供であるから泣き止むのか、あるいは出動に欠かさずイペリットとハントレスの戦いを見せている効果なのか、どちらが先の卵か鶏であるかは議論が難しい部分であろう。だがイペリットの遺体は当然赤子の目の前にあるものとして、あるいはそれ自体が娯楽として組み込まれているようだ。その英才教育を済ませた子供は、デルウハから所長に手渡されて機嫌良く笑っていた。デルウハは言う。
「帰るぞ」
「りょ、了解しました」
いちこがそう言い、デルウハの後を追う。にこやみちは赤子の傍にいながら、よみといつかとむつはそれぞれの歩幅で研究所へと戻り始めた。ああ可愛いね、とみちが赤子の頬をつつく。すると、みちの指を赤子が掴んだ。
「あら」
みちが嬉しそうな声を上げる。所長はその際に何故かぎょっとした。だがみちは気にも留めないようににこにこと笑い、赤子に指を自由にさせている。
「あらら~ゆびつかんでくれるの」
「みち、あんたね気持ち悪いわよ」
「うるさいな。可愛いからいいの」
よみのからかいにも、みちは指を自由にさせてやっている。むつは、所長が不安げな顔をしているのに気付いたが、あえて口には出さなかった。だが所長も、みちの指を注視していたが、赤子が唐突に手を離したのでほっと安堵する。むつは疑問に思うが、そこは聞かなかった。
「みち、指は…」
「指? 大丈夫」
「そうか、良かった。ならいいんだ、ありがとう」
あやしてくれた礼だろうか、所長はそう言うと赤子を連れて居住区と別の研究棟に向かう。ばいばい、とみちが手を振るが赤子は座り切らない首でただどこかを見つめるだけだ。だが、みちに言わせればそれでも可愛いから良いらしい。別れても機嫌が良かった。ぴょんぴょんとその場で柔らかな手の感触を思い出して跳ねる。
「うー可愛い!」
よみが呆れて言う。
「あんた、デルウハの子供によくそんな愛想振りまけるわね…」
「いいでしょ、赤ちゃんは等しく可愛いの」
「…確かに、可愛いね。…あんまり似てなくて」
むつが言う。よみも似ていないことには賛同したのか頷いた。
「つーか、似てたら困るわよ。あんな赤ん坊の時点で」
「おい、人を何だと思ってやがるんだ」
「わ! まだいたんだ隊長…」
いちこが驚く。そこでいつ誰が産んだのかと質問責めにあうが、その全てを交わして追跡しないように釘を刺し、デルウハは所長室のある研究棟に向かってしまった。
「あー分かった分かった。付いてくるなよ」
「なあんで!」
「お前らに答える義務も責任もない。以上だ」
不満が垂れる声が聞こえるが、デルウハはにべもなく背を向けてさっさと行ってしまった。残された彼女らは、それぞれ暇をつぶす為か自室に散らばっていく。むつはふと、いちこの表情が沈んでいることにその時気付いたが、それを聞く前に彼女は自室に戻ってしまった。遅かった、もう少し早く踏み出せたのならと自責するも、追い掛けて尋ねるほどの事ではないかもしれない。むつはその疑問に蓋をすることにした。
いちこは自室に戻ると、あの赤子の事を思い出す。純粋無垢な顔。だがハンターとしての調整を受けていると聞いた。あんな無垢な子が、と思う反面、先程みちが掴まれた指のことが続いて思い出される。あの小さなにくにくしく、やわらかでふっくらとした指。だがその小さな指に捕まれて、指がちぎれたのをいちこは目撃している。
二日前の襲撃だったので、記憶はまだ新しい。いつも通りいちこは砲撃、他の五人はイペリットに回り込みそれぞれの役割を果たしていた。あと数体という時である。襲撃とまったく関係もない悲鳴が上がったのだ。
「…痛い…!」
いちこは思わず振り返り、近くにいたデルウハも急いで振り返った。
「なんだ、五月蠅いぞ所長」
「い…ッ…」
ぽたり、と雪原に人間の指が一本落ちているのが見えた。いちこは咄嗟に悲鳴を上げそうになる。イペリットと対峙していても、ハントレスが不死身であっても、それとこれとは別である。人間の切断を見慣れている訳では無いし、好んでいる訳でもない。ましてや戦闘と無関係の、所長の、再生しない肉体がちぎれたことに唖然としていた。それはデルウハも同様であったらしい。口を開け、青ざめる。
「おい待て、どうしたその指」
「ち、ちぎれました。この子の力が、強くて…」
所長が抱えているのは無垢な赤子だけだ。ちぎれるのなら原因は赤子しかない。いちこが唖然としている向こうでは、ハントレス達がわいわいと敵を倒している。どこかのんびりとした空気とはは違い、いちこ達は血の気が引いていた。デルウハが急いでスプレーを所長の指に掛ける。そして所長は自分の指を持って研究所に戻るようだが、痛みで幾分か歩みがのろい。何か手伝うべきかと少女は悩んでいたが、デルウハが戻ると言うので代わりに最後まで頼むと言づけられた。いちこも了承する。というよりも、他に手伝えることなどいちこには無さそうだった。
指、戻るのかな。でもちぎったってことは、やっぱりあの子もハンターになるんだ。もう改造は終わっているためあとは調整だと聞いていたが、いざ目の前の赤子が怪力を発揮したことに、それがまさかいちこと深からず縁のある所長を傷付けたことに、少々のショックを受けていた。怪力は誰かをいとも簡単に傷付けるのだ。あのくらいの子供の頃、自分も同じように誰かを傷付けたのだろうか? 所長の事だから、それは黙っていて今も…。
「ねえ、ねえいちこってば!」
「あ、ご、ごめん」
いつの間にかハントレス達が戻ってきていた。デルウハと所長がいない事を尋ねられ、所長の指がちぎれたことを言うべきか悩んでいるうちに、デルウハが戻ってくる。いちこは安堵した。だがデルウハは、赤子がどうとは言わなかった。ただ体調不良だと伝え、だから戻ったと言った。目撃者であるいちこに、特に口止めは無かった。
「あの、所長大丈夫?」
だからいちこは所長に会いに行くことにした。このままではなんだか気が収まらなかったからだ。所長室の机の傍らで、ベビーベッドで眠る赤子を見つけ、それが唐突に、見た事も無い過去の自分を見ているかのような錯覚に陥って、改めて自分が怪物なのだと再確認させられた気になった。所長は手に包帯を巻きつけていたが、いちこににこりと笑ってくれた。
「ああ、ありがとう。指は戻るそうだ、ちょっとリハビリが必要かもしれないけど」
「そ、そうなんだ。よかった…」
「いちこ、何か用があったのかい?」
用は無かった。ただ、未来の自分と同じように過去の自分がどのような成長と、どのように人と関わりを持っていたか知りたかったのだ。だがこの赤子の様子を見て、なんだか気が引けて来た。誰彼構わず傷付けていたら、自然と足が遠のくに決まっているからだ。その悲しい実情を、所長の口から聞くのには勇気が必要だった。そしていちこは、その疑問を引っ込めることにした。
「い、いえ。ただ所長のけがは、誰も他のハントレスは知らないから…ちょっと気になって」
「デルウハ殿は説明しなかったのか。まあ大した怪我じゃないさ。いちこは優しいね、ありがとう」
もしかして私も同じような事で人を傷付けた? その疑問を、いちこは最後まで口に出せずにいた。それが事実であった時に、悲しいからである。あえて臆病風に吹かれることにしたのだ。己の心を守るために当然の事であった。
「それだけだったの。それじゃ」
「ああ、ありがとう」
最後まで、所長はただいちこが心配してくれたという事実に留まったのだろう。彼女のわずかに見え隠れした葛藤など、汲み取る前にいちこが退出した途端に赤子が泣き始めたことで吹っ飛んだはずである。赤子の泣き声を聞きながら、聞けなかったことに、それでも世話をしてもらえていることに何故かほっとして、いちこは部屋に戻るのだった。
デルウハがその後所長室を訪れると、ミルクの時間で、赤子が哺乳瓶を片手で押さえながら飲んでいるのが見えた。デルウハは口の端だけを釣り上げて笑う。
「バケモノだな」
「デルウハ殿。そのような事はやめてください。覚えていなくても、この子には聞こえています」
「そうであっても、哺乳瓶片手で持てるのは化け物だけだ。…あのガキ共も似たような感じだったんだろ」
「いちこ達ですか…確かに、世話人は大変でしたよ。骨が折れたとも聞いています。子供は己で力が制御できませんからね」
「うあ、あー」
飲み切ったらしく、哺乳瓶をぶんぶんと振りまわして赤子は言う。デルウハに興奮しているのか、手足をばたつかせた。
「ほら、喜んでいます」
「どうだかな。聞こえてるのなら、抗議かもしれん」
「…デルウハ殿」
じとりと所長はデルウハに目を細める。哺乳瓶を受け取って、赤子を抱き上げるとデルウハに手渡した。
「おい」
「私は瓶の消毒を行ってきますので、しばらく抱っこしててください。…貴方の子なんですから」
「あんたが勝手に産んだんだろ」
「作ったのはデルウハ殿です。では、よろしくお願いしますね」
所長はそれだけ言うと、所長室に備え付けの水回りに向かった。熱湯を沸かす音に、注ぐような音。湯気の立つような熱気がある。デルウハは赤子を抱えながら、服を掴んでくる小さな手に少なからず警戒していた。気を張らずに所長に話しかける。
「名前、決めたのか」
「ええ。九重(くのえ)です」
「くのえか。分かった」
他人事のように言うデルウハだが、くのえと呼び掛ける。だー、と子供が何か応答するような声を出した。やめろ、とデルウハが言い出したのでもしかしたら髪でも掴んだのかもしれない。困るデルウハを想像し、少しだけ笑ってしまうと所長は簡易な台所から顔を出した。案の定、デルウハの髪を赤子が掴んでいる。だが怪力故か、デルウハが赤子に無条件に力を奮えないからか…赤子が立ち上がってデルウハの髪を掴んでいて、それをデルウハが下から手で支えなければならない状態だ。デルウハが手を離せば赤子は落ちて髪だけを掴むことになるし、それ以上動けぬと言う状態になっているのが見て取れた。デルウハの背が、怒りに満ちながら笑っている所長に話しかける。
「…おい所長、見てないで助けろ」
「ふふ、すみません。それでは向かいますから」
所長に抱き着かせて、ようやくデルウハの髪は解放されるのだった。