栄養とは、人間の活動に必要なエネルギーである。経口摂取が主になる。歯で砕き、すり潰し、呑み込み消化する。ようやく訪れた飽食の時代に、人間の体は脂肪を蓄えすぎてしまったり、美を求めて摂取を拒んだりなど様々な問題が出ている。ここにも、飽食に時代に体を引き絞りたい人間が一人いる。カワダ・イサオである。
現役の自衛官である。栄養管理などは頭に叩きこまれている。酒はやらない。ビール腹になることなく、海上ではトレーニングに勤しみ、栄養管理は食堂で管理されていて殆ど問題は無いかと思われた。だがカワダは無類の甘党で、船を降りればついつい緊張感の反動か多量に摂取してしまうことがある。せっかくの休暇は、食事の楽しみで終わる事が多い。トレーニングはするものの、基本的休暇は体を休める期間である。己を甘やかすタイミングである。だが船の上のカワダは、次の休暇について考えると、少々げんなりとしていた。まだ任務中である。緊張感は強く、背筋をしゃんと伸ばして海洋を見つめている。
カワダは、次の次の休暇に、キングに会うのだ。ATFが解散して久しい。残務処理は殆ど終わったものの、ブレイバーンの唐突な登場によって世界は混乱期を迎えたもののなんとか、なんとかした。それはもう数々の根回しや数々の非難囂々を浴び、一つずつ鎮火していくような気の遠くなる作業を国家は強いられた。結果、なんとかなった。大きな暴動は起きずに世界の救世主であるブレイバーンの処遇は、国際法に準じて淡々と決まっていった。国を超えた特異な救世主は、今は好きなように世界を飛び回って勇気の啓もう活動を行っている。ようやく諸々が落ち着いて、任務に安心して取り組めるようになった頃、キングから連絡があった。ブレイバーンの件で針の筵にされていた彼は、心身耗弱しているのか長文ながら愚痴を連ねていた。弱音を吐かない彼のSOSだと受け取り、カワダは電話やメールに応じながら一生懸命キングを励ました。
君が恋しい。そうメールで言われ、顔がにやけるのを押さえる方が大変だった。カワダとキングは恋仲というのには、少々軽いものだった。その手前のような形でATFは解散してしまったのだ。だからこの応酬の中で、カワダはキングと少なからず心を寄せ合ったことを確認して、嬉しかったのだ。次に会った時は君を抱きしめたい。いいだろうか。そんな実直な文章に、自分の部屋で顔から火が出るほどに赤くなったものだ。
さて、そして休暇である。キングに会うのは次の次の休暇で、今は次の休暇。つまり次の休みでキングにようやく会えるのだ。うきうきとして久しいはずなのに、カワダはげんなりとしていた。身体を引き絞る為である。キングにみっともない体を見せたくないのだ。そもそも鍛え上げているとはいえ、より絞らなければならない。カワダはまず、コンビニに寄る事を諦めた。
手軽な食事やスナック菓子などが常備されている。サラダやヘルシーなおかずもあるが、自分で買って作った方が量を確保しやすい。だからまず、コンビニを諦める。つまりはそこにあるアイスや、菓子パンや、お菓子と出会うのを諦めることになるのだ。それはかなりの痛手だった。コンビニでいつも休暇の時に買う菓子パンがある。お菓子がある。新商品のスイーツだって試したい。アイスも好きな銘柄があって、それを買いたい。だが諦める。少しでも脂肪ばかりを蓄えたくないからだ。キングは笑って流してくれるかもしれないが、少々やわらかくなった腹を見せたくない。今はシックスパックに割れているが、そこに少しでもぜい肉を付けたくないのだ。
「ふぇえ」
コンビニに行けないので、スーパーに向かう。24時間稼働している為非常に助かる分、誘惑が多い。努めて買うものだけのコーナーを見やって、豆腐や卵、野菜、肉などを買っているとお菓子コーナーが目に入った。入らざるを得なかった訳ではない。目が勝手に追ったのだ。
この年齢になって何を必死になる事がある? もう知命を超えた体が、食べたいものを食べて何になる? 食べたいものは人間の体が欲しているからで、不要な栄養素ではないと聞いたことがある。それじゃあ、このお菓子は、食べてもいいものではないか?
何を言っているのだとカワダは饒舌な悪魔を追いやった。目的があるからの体作りだ、それにお菓子は精神的なストレッサーや場の雰囲気で流されて食べてしまうものである! 心の栄養だというが、真にこころが必要としているのは糖質や脂質ではなく睡眠!
カワダは誘惑に打ち勝った。だが早足でレジに向かう。手早くセルフレジをこなして、それでもまだ頭の中にお菓子やアイスの誘惑が残るので、軽く頭を振ってどこかへ飛ばすと、愛車に帰っていく。ばたんと扉を閉めた時、ようやく誘惑を振り切った事でカワダは大きなため息を吐いた。
唐揚げが食べたい。ホットスナックでもいい。ポテトチップスはどうだ、ファストフードを食べたい。人参と玉ねぎが入ったうどんを啜りながら、そんな考えが浮かぶ。出汁を取り、うす味である。塩分は大敵だ。むくみの原因になる。だが、塩分を取らなければ人間は体調を崩す、難しいバランスを保たなければならない。唐揚げが食べたい。かき揚げを乗せたい。ずるずるとうどんを啜りながら、食べ物を食べながら食べ物への誘惑が次々と浮かぶ。大分トレーニングで体を絞り、摂取カロリーと常ににらめっこで消費カロリーをわずかに上回る程度に留めている。カロリーを取りすぎなければ、筋肉を分解してエネルギーとしてしてしまうからだ。せっかくのトレーニングがふいになる。それだけは避けるため、プロテインと栄養バランスと摂取カロリーの上限を…と考えて似たようなメニューに飽きぬようにうどんである。小麦粉を控えるべきかもしれぬが、油気のないチキンのお供に温かいうどんは心を癒した。出汁を取り、なるべく塩分を控えた優しい味が、噛み締めた野菜の甘味と共に胃袋に流し込まれる。それで満足すれば良かった。だが、心の栄養が脂分を求めている。くそくらえである。オリーブオイルが掛かったチキンを口に運んで、これで満足しろと頭に言い聞かせる。一度飽食の箍が外れた頭は、こころの栄養の為に幾らでも糖質と脂質を摂取せしめんとささやきかけて来るのだ。そこに対抗できるのは、ただキングへの愛情である。
カワダは辛くなると、キングとのやり取りを見直した。メールを見直し、画面の向こうから伝わる愛情にぽかぽかと体を温めて、絞る事への意欲を高めるのだ。
「ふえぇ」
しかし誘惑は迫って来る。24時間スーパー。コンビニ。カワダの住居を取り囲むようにその店たちはあった。普段は便利な土地だからと選んだのがあだになったのだ。誘惑が煌々とした明りを携えて、いつでも待っていると口を開けている。それは肌寒い深夜に目が覚めた時に、必ず誘惑が起きた。何故深夜に目が覚めるのか? こころが満たされていないからであろう。だから飢餓状態にも似た誘惑は、必ずカワダを苦しめた。そして誘惑をする彼らは、24時間開いているのである。待ち構えているのである。いつでも買いにきて良いのだ、とあの灯りが囁いている。カワダは布団を被った。寝てしまおうと思ったのだ。明日になれば朝はランニングをしなければならない。とにかく目をつぶってしまおう。あまりにも原始的な方法だが、彼は耐える方法を選んだ。海自として様々な経験をしてきたのだ、この程度の誘惑は耐えられる。
だが生命に近しい所の誘惑は思ったよりも根深く、しばらくは落ち着いて眠ることが出来なかった。一睡も出来ないことは無い。睡眠時間も体格を作るのに必須条件である。予定をずらすことにした。睡眠時間確保のためである。そうしてようやく眠りに就いて、予定から一時間ほど遅れてランニングをするのだった。
そんな戦いを経て、いよいよキングに会う日は訪れた。長い戦いであった。空港にカワダが迎えに行くと、キングがにこやかに手を振ってくれている。カワダは心臓が飛び跳ねて、年甲斐もなく駆け足になった。メールではなく間近で見るキングは、少々痩せているようだった。
「ハル、どうしたんです。お痩せになって…」
「ああ、心労かな」
冗談めいた言葉に、カワダの手が思わずキングの頬に触れる。頬骨を確かめるようになぞり、心配そうに見上げるカワダにキングは微笑んだ。
「冗談だ。…君は溌溂として、美しいな」
努力が報われた気がして、カワダははにかんだ。貴方の為ですよ、と告げてカワダはキングに抱き着く。彼も抱き締めてくれた。カワダの体や脳がずっと求めていた栄養が、ここにあった。