「はぁ、ハァッ…は……」
所長は肺に篭っていた熱を、口からなんとか吐き出した。ひどく籠った匂いがする。頭がしびれる。快感は体から速やかに過ぎ去って、負担の掛かった痛みに近い感覚だけを残した。それなのに頭の頂点はしびれて、まだ先程の事を必死に思い出そうとする。背中につうとデルウハの指が這った。頭が指令を出してしびれが背中に移る。つうとした指の動きが緩やかな弧を描くと、なぞられた箇所がぞくぞくとしびれた。所長は声を漏らした。
「ひぃん…」
「年相応に、とか言ってなかったか」
「言いました…若者に任せるか、何か作りましょうかと言ったのに…」
「あんたがいいんだ」
デルウハの言葉は言いきりで、所長の肩甲骨あたりに噛み付いた。盛り上がりの少ない平坦な部分に、歯形が残る。先程までの甘い刺激は一気に失われ、痛いと所長は漏らした。
「共犯者はとことん足並みを揃えないとな。共犯者を増やしたところで、足並みが崩れれば綻びが出る」
人数が多くなればなるほど、そのうち数割の人間は働く意欲を失う。異性を一人紛れ込ませればパフォーマンスが上がる。士気を高める手段は幾らでもあるが、綻びが出る方法も幾らでもある。ハントレスを率いてのイペリット退治に従事するデルウハの共犯者は、この研究所に一人で十分だ。それが所長である。性欲の処理も含まれるからと嬲られるのは日常茶飯事であった。所長は少々枯れてきているものの、まだ現役で、デルウハは脂が乗っている年代だ。必然的にデルウハのペースに巻き込まれると、所長は息を切らして受け入れる他無い。それが今である。
いつもは乗り捨てされるように、デルウハは満足したらさっさと自室に戻っていくのだが、何故か今日は離れない。背にかじりついた後、汗を拭うように舌が背をなぞる。汗に感染症の恐れは無いが、舌に表皮が削れたものが乗るので決して綺麗だとは言えない。人間を舐めるとはそういう清潔感と不潔との行ったり来たりである。所長は背をしならせると、何故かデルウハがまだこの場にいる事に不思議そうに振り返った。
「あの、デルウハ殿」
「なんだ」
「…いつもはもうお帰りでは?」
所長の目に、デルウハの逞しいからだが視界に入る。鍛え抜かれた肉体が若くて張りがあり、存在感がある。そのがっしりとした腕が所長の体を掴むと、そこには軽度の痣が出来る。体格の差が生み出す力とはそういうものだ。所長は物理的な力でもデルウハには逆らえない。だからデルウハを払いのけて、何をしているのだとは聞けないのだ。デルウハの舌が飽きたのか、引っ込んだ。所長はほっとする。だがその代わり、肩に小さく口づけを落とされた。それも何度でもある。吸い付く音が幾たびに聞こえて来て、肌がむずがゆいのか所長は慌てて振り返った。
「あのあのあの…!」
「なんだ」
「いつもはもうお帰りですよね…!?」
ここは所長室の奥にある仮眠室である。入るのには所長以外の指紋認証が必要であり、誰も訪れることは無い。逢瀬まがいには適切な場所であった。内部からは幾らでも帰れるのだが、一向にデルウハが帰らないので所長は痺れを切らしたようだ。
「あの、デルウハ殿? どうして本日は」
「今日はあんたと、話でもしてやろうかと思ってな」
「なんでですか…?」
所長はかなり失礼な物言いであると気が付いたが、デルウハは気にしていないようだった。
「サービスデーだよ」
「サービス…ですか」
「言いたいことがあるなら聞いてやる」
「し、進捗とかなら」
所長から咄嗟に出て来る会話は、そういったものだった。デルウハに頼まれている脳細胞を集中して破壊する薬、あるいはガスの中和薬。そういったものであれば幾らでも語れるのだが、デルウハはどこか不満げである。
「そういう話題以外に、なんかないのか?」
「な、無いです。私は、そう言った話題は苦手で…」
「へえ。あんたらしいな」
デルウハは興味があるのか無いのか、所長の上に馬乗りになる。一方の所長はうつ伏せだ。無闇やたらに動けないのだろう。デルウハを刺激せぬようにと心がけているのだろうか。デルウハがのしかかって来たのを感じ、所長はますます身を固くした。デルウハはそのまま所長の首筋に噛み付いた。
「あの、食べられそうなんですが」
「人肉は要らん。あと、あんたはもう肉は固いだろ」
「そうですね…でも噛み付かれると、本能的に怖くなります」
「スキンシップだろ」
そうかなあと所長は思う。少々乱雑で獣っぽいやり取りがスキンシップとするなら、若者の考えは難しい。
「…こういう時ってどんな会話をするんでしょうか…?」
自身の年齢の半分であろう若造に聞くのは少々気恥ずかしいが、所長の引き出しに経験という黄金則が無いので仕方がない。研究職に従事して気の利いた言葉などを言うのは難しかった。若い時には異性と食事をしたり、上司の顔色を窺ったりと心をすり減らしてコミュニケーションに勤しんだものだ。だが、心がすり減ると、段々と自分の時間を取る事に躍起になった。すり減ればすり減るほどに、誰かとのかかわりを望まなくなった。酒を飲んで煙草をふかして、大きなため息を一つ吐ければそれで良かったと思う時がある。その孤独の魅力に取りつかれ、気が付いた時には誰かと愛し合い心を通わすのを諦めた。その中で唐突に訪れた悪魔の来訪に、所長は何の気を遣えばいいか分からない。若者である。年齢は半分以下であろう、生きて来た環境も従事する職業も違えば、一致するのは利害だけだ。デルウハの顔は見えないが、怪訝な顔をしているのに違いない。
「俺に聞くか?」
「…こうした行為に、興味すら持たなかったものですから…」
「あんたはそれなりに頭も回る。気も利くだろ。出来ないと思わんが」
「今の年齢で出来る事と、若い頃に出来る事は違うのですよ…」
「なるほどな」
「…つまらないでしょう? 早く自室に戻られた方が有意義かと」
所長は自嘲する。デルウハに飽きられてしまえば、きっとこの時間は短くなるかと思ったのだ。サービスデーと聞いていても、退屈なら切り上げる。デルウハがどこまで己の決め、その自律に忠実かは分からないものの、所長は既にいたたまれない。だがデルウハはかえってのんびりした声で呟く。
「無理に会話したくないなら、いい。眠るだけだ」
所長はほっとする。だが予想と違い、デルウハは所長を抱え上げると、もう一脚の隣のベッドに移動した。何故二つあるのかは先代所長の時代からあるので分からない。ただ汗がしみ込んでいないベッドは肌寒く、ぶるりと震えているとデルウハの腕が背に回って来た。
「で…!?」
「寝るぞ」
これは何だ、起きたままの悪夢か。白昼夢であれ。所長がそう願いながらデルウハを白黒したまま見つめていると、悪魔は本当に眠った。悪魔がここまで優しく…いや、ここまで所長の体をいたわる事も無い。違うのだ、デルウハはあくまで好きに振舞っているだけだ。ならば優しさではなく気ままということか。それならば、悪魔の行動は所長にとって許される気がした。誰も愛さず情もなく、それがデルウハである。その像が崩れ去る時、デルウハに託した全幅の信頼も壊れていく。頼むから一人の男に落ちぶれないでくれ、ずっとモンテローザの悪魔でいてくれ。そんな勝手な願いを、デルウハの寝顔に乗せた。そこにいるのは、ただの人間に見えてしまった。所長は頭を抱える。