「何を寝ぼけたこと言ってるんですか。この子の父親は貴方しかいないんですよ。大佐いいですか、軍の事は私がある程度助ける事が出来ますがこの子に愛情を注ぐことは貴方にしか出来ないんですよ。もう少し自覚を持ってください。」
私はそう言い、鯉登大佐殿にお嬢様を抱かせる。
最初は困惑していた鯉登大佐殿だったが笑顔で話すお嬢様を見るうちにいつもの子煩悩な父親に戻っていた。
これで一安心だと思い、私はそっとお部屋から立ち去ろうとする。
しかし立ち上がろうとしたときお嬢様が私の服を掴む。
「だめ!つきちまも一緒にいるの!」
「お嬢様…そろそろ私も戻らないと…」
「だめ!おとうしゃまとつきちまと一緒にいるの!」
そう言いながら駄々をこねるお嬢様に少尉として着任したばかりの鯉登大佐殿を思い出す。
こんなところまでそっくりなんだな…
「…だそうだ。月島。」
「外泊届は出してないんですけど…本当に仕方ない親子ですね。」
そういいながらその日は鯉登大佐殿とお嬢様と三人で川の字になって眠り、起床のラッパが鳴る前に兵舎に戻ったのだった。
そんな日々から数年、お嬢様はすっかり大きくなり今年から尋常小学校に通うことになった。
成績も優秀でその上可愛い、と毎日のように鯉登大佐が自慢されている。
きっと今日もその決まり文句のような自慢を聞かされるのだろうなと思いながら鯉登大佐殿の邸宅に向かう。
すると目の前には学校から帰ってきたばかりなのだろうか風呂敷を持ったお嬢様がいた。
お嬢様は私に気づくと一目散に寄ってくる。
「月島!」
「お嬢様、おかえりなさい。」
「ただいま!あのね、今日ね…」
お嬢様は私に会うといつも私にその日あったことを教えてくださる。
それは、三歳の頃から変わっていない私の楽しみになっていた。
しばらくお嬢様の話を聞いていると邸宅から大佐が顔を出す。
「月島、遅かったではないか。」
「はあ、申し訳ありません。」
「お父様、聞いてください!あのね…」
そう言うとお嬢様はまた同じ話を鯉登大佐にも始める。
まずはただいまが先だろう、と小言を呟く大佐だったが文句を言いながらもお嬢様の話を楽しそうに聞いている。
私はその姿を見守る。
そしてひとしきりお嬢様の話を聞いた後何でお前を呼んだんだっただったか、なんてとぼけ始めるのだ。
そんな大佐殿に若干腹が立つがきっと大佐殿は自分の愛娘を自慢したいだけなのだろう。
それでも私はそんな日々が幸せだった。
そんな日々がずっと続けばいいと思っていた。
しかし、幸せな日々もそう長くは続かないのが世の常だ。
お嬢様の夏休みが終わった頃に中央からの通達で関東軍が起こした事件がきっかけとなった戦争に第七師団の派遣が決まり、私と鯉登大佐殿はお嬢様を一人置いて満州の地に向かわねばならなくなったのだ。
中央から満州への派遣を指示されてから2週間。
私達第七師団歩兵二七聯隊は満州に向かう船に乗るために小樽の港まで来ていた。
正直ここまで大規模な行軍は結婚してからは初めてで娘を一人旭川の自宅に置いていくのは心苦しい。
だが正直私以上に月島の方が気が気ではないようでずっと娘の事を考えて隈を作っているのを見た時はいい加減にしろ、と喝を入れて喧嘩になったものだ。
しかし、そうは言っても月島ほどではないにしても娘を案じているのは私も同じだ。
妻を探して東京に行った時は月島が居たから娘は心身ともに健康を損なわずに居れた。
しかし、今回は月島も私と共に満州へ赴かなければならない。
その事実を知った娘に何度も泣かれたものだ。
その姿を見た月島がしばらく胃を悪くしていたような気がするがそんな事言っても中央の決定に背くことは許されない。
それに当然ではあるが大切な愛娘を戦場に連れて行くわけにはいかない。
だから「必ず月島と共に帰って来る」と約束して本人に納得してもらった。
そして本来なら娘も見送りに来る予定だったが、今朝になって「顔を見たら淋しくなるから行かない」と部屋を出てこなかった。
そんなわけで少し淋しくはあるが私の傍らにいるのは月島だけだ。
チラっと月島の方を見ると不意に目が合うもすぐに私から目を逸らしてしまった。
愛想のない奴め…
そんな事を考えながら周囲を見渡す。
部下達はこれから戦地へ赴く緊張感からなのかピリついた空気が流れていた。
「月島。」
「はい。」
「出発の時間は?」
「もうまもなくかと。」
「そうか。」
私は部下たちに号令と叱咤激励の声をかけて部下達と共に船に乗り込んだ。
そして船に乗り込むと三〇分とかからぬ間に船が出港する。
その後月島や副隊長や中隊長たちに今後の流れを伝える。
それを終えると私は満州に辿り着くまでしばらく休息を取るために用意された自分の部屋へ向かう。がちゃりと扉を閉めるとふう、とひと呼吸つく。
旭川を出てからこの瞬間までピン、と張り詰めていた糸が少し緩んだような気がした。
まだ満州にもたどり着いて居ないのにこんな事では聯隊長なんて務まらないという気持ちと戦争の前ぐらい緊張を解いても良いだろうか、という気持ちが交錯する。
そんな悶々とした気持ちのままベッドの上に座っているとコンコン、と扉をノックする音が聞こえる。
その音にビク、と肩が震えて背筋が伸びる。
「鯉登大佐殿、月島です。」
「…入れ。」
ノックしてきた相手は月島だった。
最悪だ。
月島の前では頼りがいのある上官で居たいのにこんな腑抜けた顔を見せるわけにはいかない。
俺は表情筋にグ…と力を込めた。
月島部屋に入ってくる。
「何かあったか。」
「いえ、特に問題はありません。波も安定していますし、予定通り3日後の正午には釜山の港に到着出来そうとのことです。」
「わかった。ありがとう、月島。」
「…大佐殿、ただの下士官が出すぎた真似をしているのは分かっているのですが…」
「なんだ。言ってみろ。」
「無理されてませんか。」
月島の言葉に言葉を詰まらせる。
やはりどれだけ気丈に振る舞っていてもこの男にはお見通しなのだ。
「月島には敵わんな。」
「何年貴方の部下をやっていると思うんです上官の変化ぐらいすぐ気づきます。」
「そうか。月島、こっちに来い。」
「はい。」
私は月島を近くに呼び寄せる。
しかし、近寄るも姿勢を崩さない月島に失笑し、ベッドをぽんぽん、と叩く。
月島は少し困ったような表情をして私の横に座った。
私は月島をそっと抱きしめる。
「大佐殿!もし誰かに見られたりしたら…」
「やっぱり月島を抱きしめていると落ち着くな…」
「話を聞いて下さい!」
「ここは他の部屋と離れている。誰も来たりせん。」
私がそう言うとはあ…と呆れたようなため息を漏らして私の背中に優しく腕を回す。
文句を言いながらも私には甘いのだ。
「月島ぁん…」
「はい。」
「私は聯隊長だからしっかりせんといかんのに…情けなか。」
私がそう感情を吐露すると月島は私の頭を優しく撫でる。
大きくも無ければ小さくもないその手が私の心の中にあるしこりを解してくれるような感覚がした。
「大佐殿はよくやっています。聯隊長としても父親としても。貴方のもつ責任の重さは私には想像もつきません。ですが、貴方が部下からも上官からも慕われているのは誰よりも承知しています。でも、たまには休んでもいいんですよ。」
「月島、あいがと。」
私は少し月島の身体を離すと頬に優しく接吻をする。
月島は最初は驚いた様子だったが困ったように笑った。
「全く、大佐殿といいお嬢様といい困った親子だ。」
そう言うと月島は私を引き剥がして扉の方へ向かう。
必要以上に私を甘やかしたりしない。
なんとも月島らしい。
「それでは私は失礼します。何かあったら仰ってください。あと…」
「あと?なんだ…」
「…そうやって甘えるのは私だけにしてくださいね。」
「へ?」
私が呆気に取られていると月島は軍帽を深く被り直し、急いで部屋を出ていった。
月島はいつも冷静な男だから(私の娘に関してはその限りではないが)今まで私に甘えるとか独占欲を見せるとかそのようなことは無かった。
しかしその月島が小さくはあるが私への独占欲を見せてくれたのが嬉しかった。
「ウフフフフ…」
私はニヤける口を抑えながら扉を見つめていた。
そしてそんな事があってから3日。
予定通りあと数時間ほどで釜山の港に入港できるとの通達が入った。
しかし今の私はそれどころではなかった。
「…気持ち悪い。」
今まで我慢してきたが船酔いが限界に達していた。
昔ほど酷くはないが私は船酔いしやすいタチで船に乗る時はいつも船酔いと格闘していた。
今までは持ってきた酔い止めでしのいでいたが生憎持ってきた酔い止めを使い切ってしまったのだ。
船医の元に行こうか考えていると扉をノックする音がする。
「鯉登大佐殿、月島です。」
「…入れ。」
私がそう言うと失礼します、と声をかけて月島が部屋に入ってくる。
手には白い粉と水があった。
「朝食の時、体調が優れないようでしたので酔い止めをお持ちしました。どうせいつもの船酔いだと思いまして…」
「お前は本当に気が利くな。」
「長い付き合いですから。」
そう言って月島は酔い止めと水を差し出す。
私はそれらを受取り、一気に喉に流し込む。
「三十分もすれば薬が効いてくると思いますのでそれまで横になっていてください。」
「何を言っている。後数時間で港に着くというのに…」
「だからですよ。貴方はこれから部下を指揮する立場なんです。そんな方が体調不良だなんて部下に示しがつきません。」
そう言い月島は私を無理矢理ベッドに寝かせた。
甲斐甲斐しく私の世話をしているその姿にかつて先遣隊として樺太に行った時の事を思い出す。
「フフ…」
「何ですか。突然笑って…」
「樺太に行った時もお前甲斐甲斐しく世話をしてくれたな、と思って。」
「…そんな事もありましたね。」
それから私達は樺太での日々の話を色々した。
私がクズリに襲われた時のこと。
月島がキロランケの投げた爆弾で瀕死の重症を負った事。
当時は任務を遂行する事で必死だったが、今となれば良い思い出だ。
「あの頃から随分変わったな。」
「ええ。大佐殿もご立派になられました。」
「うん。月島。」
「はい。」
「これから私達は規模はともあれ身を投じる事になる。生きて帰ってこれる保証はない。」
「ええ。ですから何があっても大佐殿をお守り致しますよ。」
「駄目だ。」
「え?」
「お前だけでは駄目なのだ。お前はずっと私の側にいてくれると約束してくれただろう。」
妻を失った私に確かにこの男は言った。
決して私を一人にしないと。
その言葉がどんなに私の救いになったかお前は知らないだろう。
「お前が死んでしまっては娘も悲しむ。それに私の右腕が務まる人間はお前意外に存在ない。だから月島曹長、絶対に死ぬな。これは上官命令だ。」
その言葉を聞くと月島の頬が緩む。
「そんなことで上官命令を使わんでください。わかりました。必ず生きて帰りましょう。貴方は私がいないと何も出来ないんですからそんな方を一人にするわけにはいきません。」
そう言い月島が私の手を握りしめると汽笛が鳴った。
どうやらもう港に入港するらしい。
「行くぞ、月島。」
「お身体はもう大丈夫ですか?」
「心配するな。お前の酔い止めで楽になった。それに私達はここで立ち止まるわけにはいかないだろう。」
「そうですね。行きましょう鯉登大佐殿。」
そうして私達は釜山の地に降り立った。
それから私達歩兵二七聯隊を含む第十四旅団は体制と整えて 列車で安東駅を出た。
まずは匪賊討伐のために奉天を目指す。
奉天の匪賊討伐は特段大きな被害を出さずに討伐する事が出来たが、奉天に色濃く残る日露戦争の跡が私に衝撃を与えた。
奉天は日露戦争の陸上戦において激戦地になった。
その戦争の跡が残っていても当然といえば当然だが、三十年ほど経った今も戦争の跡が残っている事に驚いた。
満州は日清日露で父祖が尊い血を流して獲得した土地だ。
しかし、その前に私の横にいる月島が生き抜いた地でもある。
恐らく多くの戦友を失っただろう。
そしてその時共に生き抜いた鶴見中尉殿も失っている。
再びこの地を踏みしめる月島は何を思うのだろうか。
初めて奉天の地を踏んだ時特にこれといった感情が湧いてくるわけでもなくただ命令に従って行進しているだけだった。
しかし、鯉登大佐殿がチラチラとこちらを覗いて来る様子を見てここが日露戦争で自分が命を賭して戦った地だということを思い出した。
部下たちが「ここは日清日露で父祖が尊い血を流して獲得した土地なのだ」と声を掛け合っているのを聞いて私も年を取ったんだな、と苦笑する。
私は周囲を見渡す。
そう、ここはかつての戦友たちが血を流して勝ち取った土地だ。
よく考えたらまたこの地を踏みしめる日が来るとは思っていなかった。
日露戦争でこの地では色々な事があったが一番頭にこびりついて離れないのは砲弾が鶴見中尉殿の頭を吹き飛ばした時のことだ。
あの時の俺は戦争で疲弊していた事と同じ佐渡出身の人間から”あの子”の死という情報で自分が何なのか分からなくなっていた。
”あの子”が死んでしまったという深い悲しみと鶴見中尉殿に”あの子”を盾に騙されたという事実で頭は混乱して少し頭がおかしくなっていたのだと思う。
だから階級の上下を誰よりも重んじている(と自負している)俺が上官である鶴見中尉殿を殴りつけるという暴挙に出てしまったのだと思う。
あの時の俺には”あの子”しかなかったから。
しかしそんな私が殴りつけても私を赦してくれたかつての上官も函館の海に消えて居なくなってしまった。
しかし、失ったものもあれば新しく得たものもある。
”あの子”との思い出は今も色褪せない思い出として心に残り続けているが、今の私には鯉登大佐殿やお嬢様がいる。
二人とも私にとっては大切で例え自分の命が朽ちても守りたいし彼らのために死ねと言われたら喜んで命を差し出すだろう。
そしてこれらは全て鯉登大佐殿が私に与えてくれたものだ。
大佐殿はいつも私の人生を救ってくれる。
だから私はその恩を返すために何がなんでもこの二人をお守りしないといけないのだ。
私は戦友の血が染み込んだ大地を踏みしめる。
「戦友達は今も満州の冷たい土の中だ」
かつての上官の声が耳にこだまする。
そう、この地には多くの戦友の遺体が眠っている。
だからこそ私達はこの地を死守しなければいけないのだ。
それが生き残ってしまった私が死んでしまった者達に出来るせめてもの恩返しなのだから。
「月島。」
鯉登大佐殿の声ではっとする。
そろそろ匪賊の報告があった土地に到着する。
鯉登大佐殿は各々配置に着くように指示を出して私達も岩かげに隠れる。
私は双眼鏡を取り出し匪賊のいるであろう方向を覗く。
「月島、分かるか?」
「はい。おおよそ三百ほどの集団が五つほど。大隊で叩けば問題ないかと。」
「そうか」
鯉登大佐殿は大隊の隊長に指示を出す。
そして大隊長の指示で部下達が匪賊のいる方向へ突撃を開始した。
そして私達も例に漏れずに匪賊たちの元へ走る。
鯉登大佐が刀で切りつけ、私がその背中を守るように銃を放つ。
戦局はこちらの有利に進んでいる。
もうまもなく制圧できるだろう。
そんな時だった。
銃弾がこちらに飛んでくる。
鯉登大佐は気づいていない。
私はとっさに鯉登大佐の腕を掴んだ。
「月島!?」
「大佐!伏せてください!」
私は大佐を突き飛ばす。
しかし、私は逃げ切れずに銃弾が背中に命中する。
私は立つことすらままならなくなり地面に膝をついた。
血管の多い部位の被弾は避けられたが背中から地がドクドクと流れ出す感覚がする。
「月島!お前はどうして…」
「どうしてもこうしてもないですよ…私の役目は貴方をお守りする事なんですから…」
鯉登大佐殿は唇を噛み締めると何か周囲の人間に指示をする。
薩摩弁でまくしたてるように指示をするものだから私は頭を抱えたくなる。
私ならともかく他の部下に言っても分からないだろうに。
何度も部下にちゃんと指示が入るようにと注意したのにまったくこの人は世話が焼ける。
後で小言のひとつでも言ってやらないと…
そんな事を考えていると私の周囲にバタバタと人が集まってきた。
恐らく衛生班の者たちが到着しているのだろう。
「月島!死ぬな!月島!」
鯉登大佐殿は私の名前を呼ぶ。
この人は聯隊をまとめる役割のある人なのだから私なんかにかまけている暇なんてないのに。
でも、不謹慎ではあるがそんな時でも私を見てくれるのが少しだけ嬉しかった。
私を乗せた担架が走り出し、鯉登大佐殿の声が遠ざかる。
あの人は俺が居なくても大丈夫なのだろうか。
そんな事を考えながら私は眼の前の曇天の空を見上げていた。
結果論ではあるが、私の怪我は軽症だった。
いや、衛生班の人間からすれば軽症ではなかったらしいが私の回復能力が凄まじいとかで軽症で済んだのだ。
私野戦病院に運ばれた後私達第二十七聯隊は無事制圧に成功し、あと3日もすれば東辺道へと行進を開始するようだった。
その情報が私の耳に届いた頃、鯉登大佐殿がすごい形相で野戦病院まで飛んできた。
私が死にかけているとでも思ったのだろう。
しかし包帯は巻かれているも胡座をかいている私を見て鯉登大佐殿は唖然としていた。
「月島、お前…」
「軽症で済みました。大佐は心配しすぎです。」
「だってお前、自分の部下が目の前で撃たれたら誰だって動揺する。」
「聯隊長ともあろう人がそんな事でどうするんです。大体貴方ね、俺が撃たれてから部下に指示を出す時に薩摩弁が出ていたでしょ。私はともかく他の部下には薩摩弁が分からない人間も居ます。部下に分かるように指示しなさいって何度も言ってますよね。」
「だ、だからあの時は動揺してて…」
「それがいけないって言ってるんです。貴方の判断ひとつで聯隊が壊滅する恐れがあるんですよ。それを自覚してください。」
「…すんもはん。」
私の前で正座して小さくなっている鯉登大佐殿を見て衛生班の人間達があの聯隊長殿が…と声を漏らす。
少し言い過ぎただろうか、とも思ったがこれからこの戦争はもっと激しいものになるだろう。
そんな時、彼に誤った選択をして欲しくないのだ。
「でも、この戦禍のなかあそこまで俺を気にかけてくれたのはありがたく思っています。」
「月島…!」
鯉登大佐殿が私を抱きしめようとするので私は急いで鯉登大佐を引き剥がす。
「規律が乱れるといつも言っているでしょう!まったく…」
「すんもはん…月島、本当に大丈夫なんだよな?」
「ええ。こんな怪我より夕張で毒ガスの発生した炭鉱に閉じ込められた時よりマシです」
なんて言うと鯉登大佐はやや顔を引き攣らせて乾いた笑いを零したのだった。
本部からの第二次東辺道作戦参加の指示を受けて数日。
行進を続けていると雪が降ってきた。
今の時期は十月の半ば。
北海道よりも二ヶ月ほど早い積雪だ。
私は体制を立て直すためにその日は行進を取りやめ、部下たちに武器や被服の整備を怠らないように指示をする。
それらの業務が一段落して部下たちが談笑してひとときの娯楽を享受している中、私は野営施設から外に出て空を見上げる。
そう言えば先遣隊として樺太に行った時も雪が降っていたな。
そんな事を思いながら物思いに耽っているとひとつの足音が近づいてくる。
「大佐、そんな格好で外に出て風邪を引きます。」
声の方を見るとそこには毛布を手にした月島がそこに立っていた。
気が利くというか過保護というか、そんなところはあの頃から変わらない。
私はそんな月島に苦笑しながら再び空を見上げる。
「雪を見ていたんだ。」
「ええ。見れば分かります。」
「樺太に着いたときもこんなふううに雪が降っていたなと思ってな。」
「そうでしたかね?忘れてしまいましたよ。そんな二十年前の事なんて。」
そう言い月島は遠くを見て目を細めた。
なんだ、覚えているではないか。
「二十年…もうそんなになるか。」
「ええ。」
「あれは私が軍人になってから最初の海外遠征だ。今も昨日のことのように思い出す。」
私がそう言うと月島はそっと私の冷えた手を包み込む。
そのカサついた手は暖かかった。
「あれから色々なものが変わったな。」
「ええ。大変ご立派になられました。」
「本当にそう思うか?」
「貴方、私の事を何だと思ってるんですか。」
「別に茶化してるわけではない。お前はそう言うが、奉天で分かっただろう。私は月島が居ないと正気を失ってしまう。時代は変わっていくのに…」
私は今まで思っていた感情を月島に吐露する。
奉天で月島が被弾してから自分の中で渦巻いていたものだった。
誰かにこんな事を話したのは初めてだった。
月島は少し顔を顰めると閉じていた口を開く。
「鯉登大佐殿。貴方はあの頃に比べたらたくさんの責任を背負っている。それは誰もができることではありません。私は貴方を上官として一人の人間として誇りに思います。それに…」
「それに?なんだ、言ってみろ。」
「貴方が私がいないと暴走してしまうのだったら、私が側でお守りすれば良いでしょう…?」
月島はそう言いまっすぐと私の瞳を見つめる。
この男が私の右腕でよかった。
そう思った。私はそっと月島を抱きしめる。
いつものように抵抗する月島だったが私が抱きしめる力を強めると大人しくなった。
「月島、あいがと。わいが右腕でほんのこて良かった…あたん言葉であたいがどれだけ救われたか…」
私がそう呟くと月島は私の背中を撫でる。
うっかり出てしまった薩摩弁も咎める事なく私の背中を撫でるその手は無骨で暖かくて優しい私の大好きな手だ。
「月島、すきだ。」
「私もです。お慕いしております。」
「月島、」
私は少しだけ身体を離すと月島の唇に自分の唇を寄せる。
月島は私に何をされるのかに検討がついたのかぎゅ、と瞳を閉じる。
普段は冷静な鬼軍曹が私の前では必死に自分の情欲を隠し通そうとしながらも私に身を任せている。
そんな姿が愛おしくて意地悪したくなった私は唇ではなく月島の低い鼻に軽く接吻をする。
接吻後にゆっくりと身体を離していくと月島は驚いたように目を開けた。
「大佐、あの…」
「そろそろ戻るか。本当に風邪を引いてしまう。」
「あ、大佐…」
「ん?どうした。」
「……いえ、なんでもありません。」
そう言い月島はぎゅ、と唇を噛み締める。
顔を見ると明らかに欲求不満です、と顔に書いてある。
私はふう、とため息をひとつつくと今度は触れるだけの接吻をする。
月島は一瞬驚いたような顔をしてから満足したのか少しだけ口角を上げた。
「月島、戻るか。」
「はい。鯉登大佐殿。」
月島の言葉に私は月島の腕を掴み歩き出す。
部下がいる中で指を絡める事は出来ないが、これくらいは許されるだろう。
いつもは風紀がどうだと煩い月島だがこの時ばかりは何も言わなかった。
その日の夜。
中央部隊から工兵が合流し、彼らからの報告を受けた後に今後の動きについて確認する。
その後、少し時間が出来たため私はその時間に夕飯を食っていた。
今日は食事の時間が随分遅くなってしまったな。
そんな事を思いながら周囲を見渡す。
歯間が遅くなっていたということもあり、半分以上の兵士は食事を終えていた。
早く私も食べてしまわなければ、と思いながら米をかきこんでいると視界の端にいた月島が目に留まった。
月島の様子がなんだかおかしい。
普段は十分もあれば食事を終える月島がこんな時間まで食事を摂っている。
それに心なしか食事のペースが遅い気がする。
顔色が悪いわけではないがもしかしたら私がしばらく外に連れ出してしまったから風邪でも引いてしまったのではないだろうか。
月島に限ってそんな事はないだろうという気持ちとあいつも人間なんだから風邪くらい引くだろうという気持ちがせめぎ合う。
もし、後者だとしたら私は彼に申し訳が立たない。
不安に思った私は急いで夕飯をかきこみ、食事を終えた月島の後を追う。
「月島!」
「鯉登大佐殿、そんなに慌ててどうされましたか。」
「お前、もしかして体調が優れないのではないか?」
「…は?」
「だってお前、いつもはもっと早いペースで飯を食っているだろう。もしかしたら長い間外に居させてしまったから風邪でも…」
そう言うと月島はあー、と気まずそうに私から視線を逸らす。
もしかして私に体調が優れないのを我慢しているのかもしれない。
私がそんな心配をしていると月島が口を開いた。
「工兵から聞いたんです。中央部隊では食糧難が深刻化していて米を食べる事が出来ずに粟飯を食べていると。」
「?それがお前の体調とどう関係があるというのだ。」
「大佐殿、別に私は体調を崩してなどいません。ただ、米が食べられる喜びを噛み締めていただけで…」
「…は?」
月島の言葉に力が抜ける。
確かに工兵がそんな事言っていたような気がするがそんな事気にしている人間がいるとは思わなかった。
私が風邪なんて引くわけないでしょう、と呆れる月島を見てそう言えば無類の米好きだったという事を思い出す。
そうだ、戦争から戻ったら娘と一緒に好きなだけ米を食わせてやろう、とこの戦争が終わった時の未来について考えていた。
このまま何もないように私と月島が娘の元に帰還できるようにと祈りながら。
第二次東辺道討伐作戦を全うした我々は休む事なくホロバイルへと向かう事になった。
東辺道での初雪から数ヶ月ほど経過していたからあたりはすっかり雪景色で満州に上陸した頃に比べるとペースは落ちたものの、特に滞りなく我々第二十七聯隊は行進を続けていた。
そんなときだった。
あたりが暗くなり、野営地を検討していると、比較的に広いロシア家屋を見つけた。
その家屋には家主がいない割には比較的綺麗で隊の人間を全て収容できるほどの人数が居たため本日の夜間はここで休ませてもらうことになった。
手早く飯を食い、身体を休めるために身体を横たえる。
横にいる私の上官殿は疲れが出たのか既に夢の中だ。
私は眠る前に周囲を見渡す。
そこには眼の前にはペチカがあった。
樺太での出来事を思い出す。
確かあれは杉本たちが吹雪の中遭難した時だったろうか。
私達が居た建物に住んでいた灯台守の老夫婦が部屋を提供してくれたときにこのようなペチカがあったのだった。
「懐かしいな。」
俺は小声で呟く。
あれから二十年。
あの老夫婦は…あの夫婦の娘・スヴェトラーナはどうしているだろうか。
柄ではないがそんな事を考えていた。
鯉登大佐殿は全く覚えていないだろうが私はあの家族の事を鮮明に覚えている。
突然自分の娘をロシア兵に連れて行かれ、行方知れずになっていた娘。
それをずっと待ち続ける夫婦。
そんなあの親子の姿がかつての自分と重なった。
死んだと聞いた”あの子”を探している自分と。
生きているか死んでいるか分からない大切な想い人を探す自分と。
あの時の私は多分現実を受け止め切れなかったのだろう。
”あの子”が死んだのかもしれないと分かっていても彼女の遺体はどこにもない。
だか彼女の遺体を見るまでは”あの子”は死んでいないと信じたかったのだと思う。
だから最後までもしかしたら生きているかもしれないという希望を捨てずに佐渡を探し回ったのだろう。
あの夫婦はあの時の私と同じだ。
生きているか死んでいるか分からない娘が死んでしまったという可能性を信じたくなくてずっとあそこで娘の帰りを待っている。
死んでしまったと思うことができればいく分か楽であろうに…
そんな夫婦に自分を重ねていたからこそ、私はスヴェトラーナが家族の元に帰らないと言った時にあそこまで彼女に起こる事が出来るし爆弾に被弾した後もあんな事を言ったのだと思う。
「生きている事が解れば暗闇から抜け出せる」なんて言葉を。
私は横ですやすや眠っている鯉登大佐殿を見る。
大佐殿に”あの子”の事を話したことはない。
大佐殿はあの日、「私が抱えているもの全て一緒に背負わせほしい」と私に言った。
でもこんな事絶対彼の前では言えない。
鯉登大佐殿は俺に優しい。
どんな時も私の事を大切に考えてくれていて、俺も多くの寵愛を受けているという自覚がある。
ただそれと同時に私への強い執着心があるのも確かだ。
きっと彼は私がいないと生きていけない。
そんな彼がこの事を知ったらどうなる事か。
成長したとはいえ。まだ子どもらしい部分が残っている彼は嫉妬で周囲に悪影響を与えるに違いない。
そしてなによりこの人を不安にさせたくない。
私は軍人として一人の男として鯉登大佐に尽くすと決めている。
しかし”あの子”の事で私のその覚悟が揺らいでると勘違いしたとしたら。
そんなの遺憾だしまっぴらごめんだ。
だからあの人はこんな事知らなくてもいい。
この事は墓場まで持っていこう、そう思うのだ。
私は大佐の頭を優しく撫でる。
大佐はまるで猫のように私の手にすり寄ってくる。
そんな彼が愛おしかった。
周囲を見渡すと起きている人間は誰もいない。
今なら少しだけ素直になっても良いだろうか。
私は大佐殿の額にそっと唇を寄せる。
「愛しています。今までもこれからもずっと。」
私は小さく音之進さん、と普段呼ばない下の名前を呼ぶ。
私の本音はこの静寂だけが知っている。
そんな日しばらく経った頃。
私達歩兵二十七聯隊はホロンバイル作戦を遂行し、次の熱河作戦を遂行するための熱河へと行進していた。
熱河へ行くには長城を越えていかなければならない。
さらに現在は2月冬真っ只中だ。
雪は北海道よりも固く歩きづらい。
そういった理由も相まって進行には予定よりも時間を要していた。
だんだん部下達の顔にも疲れが見え始める。
そして大佐殿の顔のも疲れが見え始める。
気丈に振る舞っていても私には分かるのだ。
しかし、聯隊長が疲労や体調不良を理由に職務を離れる訳にはいかない。
責任感の強い彼はそう思っていたのだろう。
その気持が痛いほど伝わってきたので私は側で彼を見守ることしか出来なかった。
そんな中、私達一行はようやく熱河付近の長城までやってきた。
この雪道で山を超えるのは正直容易な事ではない。
しかし私の上官が越えると言っているのだ。
例え他の人間が断念したとしてもこの人が進む道に私はついていく。
それ意外私に残された道はないのだ。
熱河をどんどん進んでいく。
長城の山道は苦しいものであったが私は金塊のために北海道中を駆け回った人間だ。
そんな事で根を上げたりしない。
そしてこの斜面にも慣れてきた。
そんな時、私達は敵軍の襲撃に遭った。
正直この不意打ちには面を食らった。
しかし、こんなことで冷静さを欠く私ではない。
そして鯉登大佐殿も。
鯉登大佐殿は部下たちに適切の指示を出していく。
現在の戦局は互角といったところだがこのまま行けばこちらが有利に進められるだろう。
そんな時だった。
鯉登大佐殿が私から離れて前方へ走り出す。
「鯉登大佐殿!戻りなさい!」
私が声をかけても彼はこちらに見向きもせずに走っていく。
そう言えばこの人は一度走り出したら聞かない人だったという事を思い出す。
この戦いが終わったら注意しなければ。
そう思っていた時だった。
私に一瞬の気の緩みが出てきたのか近くにいる敵兵に近づかなかった。
そしてその敵兵の存在に気づいたときにはもう遅かった。
私はその敵兵に銃剣で刺されていた。
前回銃に撃たれたときは背面だったからなんとかなったが、今回は心臓の近くを刺された。
流石にこれはマズいかもしれない。
そんな事を考えながら私は冷たい大地に倒れ込んだ。
視界は霞んでよく見えないが、周囲から部下の声が聞こえて来る。そして私は部下に運ばれて山の麓に停めていた自動車に乗せられた。
恐らく野戦病院に連れて行かれるのだろう。
私が車に乗るまで一度も鯉登大佐殿の声は聞こえて来なかった。
大佐殿は大丈夫だろうか。
あの人は俺がいないとすぐ自分を見失ってしまう。
俺が彼の手綱を握っていないと駄目なのに。
そんな時俺の頭の奥から声が聞こえた。
「月島!生きてるか!」
最初は誰の声だったか分からなかったがあれはきっとかつての上官だ。
まったく、こんな時に何をしに来たというんだ。
俺を迎えに来たとでも言うんですか。
鯉登大佐殿といい鶴見中尉殿といいどれだけ俺を困らせれば気が済むんだ。
私は死なない。
あんな私がいないと何も出来ない鯉登大佐を置いて死ねるわけがない。
しかし、そんな私の決意とは裏腹に私の意識は遠のいていく。
こんなところで死ぬわけにはいかないのに。
「…大佐。」
そう呟くと私の意識は闇の奥深くまで堕ちていった。
目が覚めると目の前には白い天井が広がっていた。
自分はもう死んだと思っていたがどうやら生き残ってしまったらしい。
私は周囲を見回す。
そこは野戦病院というには清潔すぎるような空間だった。
ここは多分野戦病院ではない。
ではここは一体…
「月島!」
大きな声で私の名前を呼ぶ声がする。
私の事を月島と呼ぶ人間は一人しかいない。
「大佐、ここは…」
「病院だ。旭川のな。」
「は…」
私は大佐殿の言葉に目を丸くする。
私が刺されたのは長城の中腹だったはずだ。
それが何故旭川の病院にいるんだ。
そしてここが旭川の病院だとしたら何故鯉登大佐殿はここにいるのだ。
「大佐殿、あの、えっと…俺は……」
「少し混乱しているようだな。まあ無理もない。お前は数か月眠っていたのだからな。」
「さん、かげつ…」
私は病室にある暦を確認する。
そこには六月十七日と文字が書いてあった。
私が刺されたのが二月の中旬だったから私はちょうど三か月経過していたという事になる。
「それで、俺が眠っている間どうなったんです。」
「そうだな。日本は今回の事を受けて国際連盟を脱退、その後停戦協定を結び、我々第七師団も切り上げてきた。停戦協定が結ばれたのはおよそ半月前、お前を奉天の病院からこっちに移送してきたのが一週間前だ。」
「そう、ですか…」
大佐殿の話を聞いて私は何が何だか分からなかった。
先ほどまで私たち歩兵二十七聯隊は長城で戦っていたのに目を覚ますと戦争が終わっていたのだから。
「大佐殿はお怪我はありませんでしたか。」
「ん?あぁ…一度肩に砲弾を受けたが病院に運ばれるほどのものではない。お前に比べれば軽症だ。」
私は鯉登大佐殿の腕を見る。
腕には包帯が巻かれている。
軽症だなんてきっと私を不安にさせないための嘘だ。
私の責任だ。
私が側に居ながら大佐殿を守り切ることが出来なかった。
「すみません。」
「それは何に対しての謝罪だ?」
「俺が貴方を守り切れなかった事に対する謝罪です。貴方を守り切る事が出来なかったのに俺はのうのうと生きている…」
私がそう言うと鯉登大佐殿はハア、と溜息をつく。
「お前はまた不健康なこと考えおって…あのな、月島。私はお前を自分の盾にしたくてお前を連れているのではない。お前を側に置いておきたくて連れているのだ。戦争で怪我をしない人間などおらん。そしてお前も私もあの戦場を生き抜いて生きている。それだけで十分だろう。そう簡単に自分の命を投げ出そうとするな。」
そうまっすぐな瞳で私の事を見ると鯉登大佐殿は私をゆっくりと抱きしめた。
「傷、痛くないか?」
「ええ。痛くないです。」
「本当はな、不安だったんだ。お前がいなくなってしまうのではないかと。」
「大佐殿…」
「お前が居なくなったらおいはどうやって生きていけばいいかわからん…だからのうのうと生きているなんて言うな。お前は私のために生きていてもらわなければ困る。」
大佐殿は俺の病衣を強く握りしめる。
きっとこの三か月どれだけ彼を不安にさせてしまったのだろうか。
そう思うと心苦しくなった。
「大佐殿、申し訳ありません。あなたを置いて行ったりしません。貴方、俺が居なかったら何もできないでしょう。」
「うん。お前が居ないと困る。」
鯉登大佐殿はそういうと私に口づけようとする。
ああ、このまま接吻されるんだと思ったとき遠くからバタバタと誰かの足跡が近づいてくる。
私と大佐殿は驚いて身体を離すと病室のドアがガラリと開いた。
「月島!」
目の前には息を切らせたお嬢様がそこにいた。
学校の帰りだったのだろう、お嬢様は持っていた風呂敷を投げ出すと私に抱き着いてくる。
その衝撃で腹の傷が少し痛むが、腹に力を入れてぐっと堪える。
「お嬢様?」
「月島、元気で帰ってくるって言った。」
「すみません。」
「月島きらい。」
そう言い頭をぐりぐりと私の身体にこすり付けるのがあまりにも鯉登大佐殿に酷似していて少しだけ口角が上がる。
「困りましたね。どうしたら許してくださいますか?」
「…絵本読んでくれたら許してあげる。」
「大きくなったから絵本は卒業したんじゃなかったんですか?」
「いいの!」
そう我儘を言うお嬢様はまるで少尉に着任されたばかりの鯉登大佐殿にそっくりだった。
私は鯉登大佐殿の方を見る。
大佐殿は私たちを見ながら幸せそうな笑みを浮かべていた。
「月島、分かっただろう。お前が死んで困るのは私だけではない。」
「そうみたいですね。本当に手の焼ける親子ですよ、貴方たちは…」
そう言いながら私はお嬢様の頭を撫でる。
この時間が永遠に続けばいいのに、と私は柄にもない事を考えていた。
この時は鯉登大佐殿の権限によってあと数年後備役が残っているのにも関わらず退役させられることになるのを私はまだ知らない。
満州事変で旭川に戻ってきてから十年。
鯉登大佐は中将へと昇進して現在は第七師団の師団長として第七師団を導く存在へとなっている。
既に退役してしまった私は彼の立派な姿を間近で見ることは出来ないがきっと師団長としての職務を全うしているのだろう。
そんな私は今鯉登家で過ごしている。
最初はそのような予定などなかったが鯉登閣下に一緒に住む事を提案された。
もちろん私はその提案を一度断った。
退役して戦えない私はもう彼を側で支えられない。
そんな人間に鯉登閣下にとって価値ある人間だったとは到底思えなかったからだ。
しかしその事を伝えると鯉登閣下は私の手を握ってこう言った。
「私がお前を必要としたのは軍務を支えて欲しいだけじゃなくて私と人生を歩んでほしいからだ。行く場所があってそれがお前の決めたことなら私は口出ししない。だが、行く場所がないのなら私と共に生きてほしい。」
そんなのまるで求婚じゃないか。
そう思った私は顔を赤くししまったがやはり退役後も何から何まで世話になる事に抵抗がある。
その事を鯉登閣下に伝えるとそれであればお嬢様を守るために家にいて欲しい、と言われてしまった。
閣下にそんな頼み方をされたら断る訳にはいかない。
私は仕方なく了承して鯉登閣下の邸宅に住まわせてもらう事にした。
正直に言うと、最初はとても居心地が悪かった。
今まで自分でやってきた身の回りの事は女中がやってくれるから俺のやることはない。
なにもやることがないということが私にとって苦痛だった。
やることがあるとしたら学校から帰ってきたお嬢様の相手をする事だろうか。
でもその役目があっただけマシだ。
いや、寧ろそれが良かったのかもしれない。
お嬢様の相手をする度、昔―鯉登閣下が長い間家を空けられていた時の記憶が蘇る。
あの頃のお嬢様はまだ歩き出すようになったばかりだった頃だったが今は元気に学校に通っている。
大変烏滸がましい話ではあるが、彼女を娘のようにかわいがっている私としてはとても喜ばしいことだった。
「月島、何してるの?」
「本を読んでいるんですよ。」
「私も読む。」
「お嬢様には難しいかもしれませんね。」
「む…月島の意地悪!」
そんなやりとりが毎日繰り返される。
すぐ機嫌を損ねてしまう所あたり閣下にそっくりだ。
閣下も最初の頃は全然言う事聞かなかったな…
そんな事を考えながらお嬢様を膝に乗せる。
そんな日々がとても心地よく私は次第のこの家に慣れていった。
そんなお嬢様も今は十五歳になり、尋常高等小学校を卒業して、今は女学校に通われており、私はロシア語の翻訳家として鯉登閣下の邸宅で仕事をしている。
朝起きて茶の間に行くと「基叔父様おはようございます。」と弁当におかずを詰めているお嬢様が挨拶をしてくれる。
昔は私の事を「月島、月島」と呼んでいたお嬢様は成長するにつれて「基叔父様」と呼ぶようになった。
彼女の成長を感じると同時にそれが寂しくもある。
私は彼女に挨拶をすると食卓に座り、新聞を読む。
しばらくすると鯉登閣下が大きな欠伸をして起きてくる。
「ふあ~おはよう、桜、基」
「閣下、おはようございます。」
「基ぇ…なんで起こしてくれんやったと?」
そう言って鯉登閣下は私にぎゅう、と抱きつく。
閣下は私がここに来てから私のことを「月島」ではなく「基」と呼ぶようになった。
ここは軍ではないからもういいだろうと思ったのだろう。
でも娘がいる前でそれはどうなのだろうか、とも思ったがお嬢様は全く気にしていないらしい。
「閣下、何度も起こしましたよ。」
「基、釣れないこと言わんでくれ…あとお前の閣下呼びはいつになったら治るのだ。」
そう言われて私は言葉を詰まらせる。
確かに鯉登閣下は私の事を下の名前で呼んでくれる。
恥ずかしげもなく…
しかし私にはそんな勇気はない。
二人っきりの時はともかくお嬢様の前で下の名前を呼ぶなんて無理だ。
上官の下の名前を呼ぶなんて…と思う自分ももちろんいるのだが何より羞恥心が勝つのだ。
今までそういう関係はあったものの、今までは上官と部下の関係だったのに退役した瞬間閣下は私を付き合いたての恋人のような扱いをするそんな環境の変化に私はまだ順応出来ずにいるのだ。
「もうお父様、いい加減にしてください!基叔父様困ってるでしょう?」
「別に困ってなどおらんではないか。なあ、基?」
そう言い閣下は私を抱きしめる力を強めた。
いつもこんな状態なのだから思わずため息が出る。
お嬢様も何を言っても無駄だと思ったのかお弁当を風呂敷の中に詰めて玄関へ向かっていった。
「お嬢様、いってらっしゃいませ。」
私がそう言うと「お嬢様はやめて、っていつも言っているでしょう?」と少し困ったような顔をして家を出ていかれた。
私は横にいる甘ったれにチラリと視線を向ける。
お嬢様はこんなにしっかりしているのになんでこの人はこんなに甘ったれなのだろうか。
彼が持つ人懐っこさが彼の良さではあるのだが、それとこれとは話が別だ。
「閣下、お時間を考えてください。もうすぐ家を出る時間ですよ。」
「キエ…基、もう少しだけ……」
「駄目なものは駄目です。ほら、さっさと着替えて!」
私は駄々をこねる閣下に着替えをさせてから食事を食べさせてから仕事に送り出す。
そしてその後ゆっくりと自分の朝食を食べる。
これが我が家の一日だ。
その後本来であれば私は翻訳の仕事にかかるのだが、昨日書き上げた原稿を入稿してこなければいけなかったため、私は原稿の入った封筒を持って郵便局へ向かった。
郵便局の帰り道和菓子屋を見つけた。
そう言えばお嬢様は団子が好きだった事を思い出し、帰ってきてからのおやつになればと思い和菓子屋の中に入っていった。
店内は戦争の話でもちきりだった。
先日まで日本優勢と言われていた日本軍であったが、先日アッツ島での玉砕が発表された。
国民が不安を露わにするのは仕方ないだろう。
それにこれは私の勘だが、事態はもっと深刻なような気がする。
何故なら最近の鯉登閣下の様子が少しおかしいのだ。
朝にベタベタしてくるのは私が鯉登家にきてから変わりないが、最近やや顔色がよくない気がする。
お嬢様の前では気丈に振る舞っているが、私の目は誤魔化せない。
彼が士官学校を卒業して第七師団に着任した頃からの付き合いなのだ。
些細な仕草や様子の変化を私が見落とすわけがない。
それに閣下の帰りが最近遅い事も少し気がかりだ。以前は部下からの接待を受けて何度か帰りが遅くなる事はあったが、今はあの時のように酒の匂いを漂わせてくる事はない。
つまり定時で終わりきらないほどの軍務があるということだ。
それはつまりこの国が危ないということではないのだろうか。
考えれば考えるほど閣下の事が心配になってきた。
あの人は責任感が強い方だ。
この有事の最中潰れてしまわないだろうか。
それが私の懸念点だった。
今晩帰ってきたら閣下に聞いてみよう。
そう思い私は買った団子を手に鯉登邸に戻っていった。
その夜、やはり鯉登閣下が定時に帰って来る事はなかった。
普段の私ならすぐに寝てしまうが、今日はどうしても閣下と話がしたかっため仕事をしていた。
正直急ぐ仕事では無かったがこれは長い時間起きているための口実だった。
そんな仕事もある程度区切りがついてきてどうしようかと考えていたとき遠くで扉が開く音がした。
恐らく閣下が帰ってきたのだ。私は仕事道具を片付けていると部屋に灯りが灯っている事を不思議に思ったのか閣下が私の部屋の障子をそっと開ける。
「基、まだ起きちょったんか?」
「おかえりなさいませ。少し片付けたい仕事があったので。」
私はそう言うと閣下はふふ、と頬を緩ませる。
何がそんなに楽しいのか分からなかった。
「ウフフ…基は嘘をつっとが下手やねえ…あたいんこっを待っちょったんやろう?」
私は閣下の言葉を聞いて少しムッとしてしまった。
その通りではあるのだが閣下に自分の心の中を見透かされてしまったみたいで少し居心地が悪かった。
だから「理由なんてなんでもいいでしょ」と可愛いくない返しをしてしまう。
鯉登閣下はそんな私を見て嬉しそうに私を抱きしめた。
「基を抱きしめちょっと心が落ち着っね」
「閣下、お疲れですか?」
俺がそう言うと「今は閣下じゃなか…」と不貞腐れたような声で私の肩にぐりぐりと顔を押し付ける。
出会ってから恋人になってから二十年以上経つがそれは変わらない。
私は閣下の方へ視線を向ける。
閣下はチラチラとこちらを見ている。
「音、之進さん…」
私がか細い声でそう呼ぶと閣下はにっこりと笑う。
私はこの笑顔が好きだった。
この笑顔が毎日見れればいいのにと思う反面、そんなこと恥ずかしくて出来たもんじゃないと思う自分もいる。
今ですらこんな状態なのにお嬢様の前でなんて絶対無理だ。
「なぁ~基ェ…」
「はいはい。それで大丈夫なんですか?」
「?何が?」
「貴方の体調ですよ。最近なかなかゆっくり休めていないでしょう?」
私がそう言うと閣下はぴくりとも動かなかった。
どうやら図星らしい。
「音之進さん、私は…俺は心配してるんです。貴方にはなにかあったら俺は…」
「心配すっな基と桜んためならないでん出来っ。」
閣下はそう言うが私はやっぱり不安だった。
閣下だって一人の人間なのだからいつか身体を悪くしてしまわないか…
それを考えると夜も眠れない。
「音之進さん、今はここにお嬢様はいません。貴方の隣にいるにはこの月島だけです。話してくださいませんか。」
私はそう閣下に聞いてみたが、閣下は首を縦に振って暮れなかった。
痺れを切らせた俺は閣下から距離を取り、正座をする。
「閣下、あなたね…いい加減に……」
私が彼に説教を始めた時彼は私の腕を掴み私に唇を重ねる。
彼の魂胆は分かっている。
こうやって接吻で誤魔化して今の話を有耶無耶にしようとしているのだ。
そうはいくか、と彼の身体を強く押してみたが現役時代に比べたら身体が鈍ってきたのだろう、現役軍人の彼に勝てるはず無かった。
寧ろ私が抵抗する度に口づけは深いものになっていく。
なんとかしないとこのまま流されてしまう。
なんとか策を考えねばと思案を巡らせていると閣下の舌が私の口内に侵入してきて私の舌を吸い上げる。
「…ぅあ……」
私はそこで考える事を放棄した。
そしてそんな私をみた閣下はクスクス笑い私を布団の上に押し倒した。
このまま流されちゃいそうになって覚悟を決めた時閣下が私の上に倒れ込んできた。
「え…?」
私はしばらく動けずにいた。
しばらくすると閣下の寝息が聞こえてくる。
「嘘だろ…」
私は大きなため息を吐く。
きっと閣下は相当疲れていたのだろう。
このままいても仕方ないので私は閣下の下から抜け出すと枕を整えて閣下に布団をかける。
本当に手の掛かる人だと思いながら自分の布団に戻ろうとすると手首を掴まれた。
掴んだ相手はもちろん鯉登閣下だ。
閣下の方をみるとムニャムニャと私の名前を呼ぶので仕方なく閣下の布団に入る。
閣下もこの国の未来も本当に大丈夫なのだろうか。
そんな事を考えながら私は眠りについた。
第七師団の師団長になってから数年、第二次世界大戦という時代の波に揉まれながらも私はなんとか師団長としての責務は真っ当していた。
基が退役してからかなりの時が経った。
勿論私にも副官と呼べる人物はいるが、基に叶うものはいない。
基が退役してから軍務の量が膨大に増えた事から推測するにきっと私の軍務の多くを基がやってくれていたのだろう。
よく考えれば私が娘を置いて東京に行った時も私が戻った時私の執務室の机の上には私が確認しなかればいけない最低限度の書類しか残っていなかった。
きっとそれらも全部処理してくれていたのだと思うと本当に頭が上がらない。
だからこそ基が退役した後の最初の一年はすごく苦労した。
私のために根回ししてくれる人間はこの軍の中には誰もいないのだから。
しかし、兵舎にいても私の月島曹長は確かにここにいる。
最初の頃うっかり基の名前を呼んでしまうのもそうだが重要な判断をしないといけないときはいつも心の奥には基がいる。
基ならどう考えるだろうか。
基ならなんと助言してくれるだろうか。
そんな事ばかり考えている。
そして今回もそんな局面を迎えていた。
今まで北鎮を担ってきた第七師団が今度札幌にできる北部軍司令部の管理下に入れというものだった。
中央は恐らく形式上承認の判を押せという事なのだろう。
私は最初こんな新しく出来たばかりの何も知らないような奴に北鎮を任せて良いのか不安に感じ、悩みはしたが結局判を押す事にした。
きっと月島なら波風を立て混乱を招くことで国民を危険に晒す事を良しとしないだろうという判断をすると思ったからだ。
この決断が私達の未来にどう反映されるかは分からない。
しかし今まで私が知っていた第七師団が崩壊した瞬間でもあった。
基が知ったら何て言うんだろうな。
そんな事を考えながら私は軍務に励む。
そんなときだった。
第七師団が北部軍司令部の管理化に置かれてから数年たった頃に第七師団は北鎮の観点からここ本部を含め道東に配置される事になった。
今後アメリカがこの北海道の地に進行してくる際には釧路、もしくは苫小牧だと中央が判断したのだ。
苫小牧へ上陸した場合北部軍司令部の軍隊が対応出来るが、釧路から侵入された場合本部が旭川にあると第七師団本部はすぐ駆けつける事ができないという事なのだろう。
至極真っ当な意見だ。
だから私はその条件を呑むことにした。―もともと私達に承認の意見以外残されてはいないのだが。
しかし、気になるのは娘と月島のことだ。
娘は今年女学校に入ってやっと環境に慣れてきた所だろうにまた新しく環境を変えるのは可哀想だ。
それに基もこのまま振り回してよいのか個人的には胸の奥に引っかかる。
私には基が必要だ。それは動かし用のない事実だ。
しかし、基はどうだろうか。
よく考えれば一緒に住もうと言った時、私が娘の名前を出してくるまではかなり消極的だったし夜も向こうから誘ってきた事はない。
このまま私のもとに縛り付けておくのは果たして正解なのだろうか。
それに、私と共に来るという事はそれだけ彼を危険な目に遭わせてしまう。
それでもし彼に何かあったら?
満州事変で基が目を覚まさなかった時は本当に生きている気がしなかった。
あんな思いはもう御免だ。
昔の若い時の私なら「何も心配しないで着いてこい」と言えたかもしれない。
でも一度死にかけた月島を見てからそんなこと怖くて言えなくなってしまった。
これが老いというものなのだろうか。
私は頭を抱える。
しかし、娘にしろ基にしろ私が決めることではない。
基は勿論だが娘も自分の意思決定できる年齢なのだから本人達に決めさせればいい。
その夜私は二人に第七師団が道東に配置される事になったこと、無理に着いてこようとしなくてもいいからどうするかは自分で決めてほしいこと。
娘は深刻そうな顔をして頷いたが基は表情ひとつ変えずに「わかりました。」と返事するだけだった。
その後手早く風呂に入ると私は自分の部屋で悶々としていた。
そんな事を考えていると部屋の扉がガラリと空いた。
「わ!びっくりした…灯りもつけないでどうしたんです?」
「あ、基…ちょっと考え事をしてて…」
「今日帰って来られてから思い詰められていらっしゃるようですが大丈夫ですか?」
「あ…ウン。基、少し話があって。」
「はい、なんです?」
「……ここに残って欲しい。」
「は?」
私がそう言うと機械が壊れたように基の動きが止まった。
もしかしたらこんなこと言われるなんて思っていなかったのかもしれない。
「……一応理由を伺っても?」
「それは…戦争の間ここであの子を守って…」
「本当は?」
基の鋭い瞳が私を捉える。
その瞳を見て私は固まってしまった。
やっぱりこの男に嘘はつけない。
私は観念してふう、とため息をついた。
「私はお前に死んでほしくないんだ。」
「こんな時に冗談はやめてください。」
「冗談じゃなか!昔の私なら心配することなく私に着いてこい、と言えたかもしれない。でも満州で死にかけるお前を見てから怖くなったのだ。お前が私の側からいなくなることが…だから……」
「では、閣下は私がいなくても何の問題もないと?」
「そんなわけあるか!ただ私は…」
私がそう口ごもると基は呆れたようにため息をついた。
人がこんなに悩んでいるのになんだその反応は、と思わなくはないが今の私はそれどころではなかった。
「いつもの威勢がいい貴方はどこに行ったんですか。貴方はいつだって私をどんな場所にだって連れ回してくれる人でしょう?」
「でも怖いんだ。お前を失うのは。お前は私の大切な家族なんだから。」
「…閣下、そのように私の事を想っていただいて大変嬉しく思います。でも、私は退役しても貴方の右腕で居たいんです。だから貴方を一人にするわけにはいきません。例え貴方の行き着く先が地獄だとしても私はついていきます。」
そう言い、基は私の手を取る。
男らしくて暖かい私の大好きな手だ。
「貴方は私が死ぬのが怖いと言いましたが、私は死にませんよ。満州で死にかけた時も最終的には貴方の元に戻ってきたでしょう?」
そう微笑む基は頼もしくて、私の進む道にはやっぱりこの男がいないと駄目なんだと確信する。
私はそっと基を抱きしめる。
基は優しく私を抱きしめ返してくれる。
その優しい手に触れられる度に自分の心の奥が溶けていくような感覚がした。
「基、側にいてくれる人間が基でよかった。」
「もう、いつからそんな泣き虫になったんです?」
「…ないちょらん。」
「本当に仕方ない人ですね。」
そう言うと基はそっと私の頬に口づけをする。
基からそんな事をするのは初めてだったから私は驚いて固まってしまった。
「あの、そんなにジロジロ見られると恥ずかしいのですが…」
「え、あ…すまん。基から接吻してくれるなんて初めてだったから…」
「た、たまにはいいでしょう…それとも…」
はしたないと幻滅されましたか?と心配そうに問いかける基に私はブンブンと首を振る。
「そんなわけなか!寧ろ嬉しい。お前から接吻して来たことないからてっきり私に付き合ってくれているだけかと…」
「は?あ、いや…それは……私からするのははしたないと思われるかと…」
すみません、と恥ずかしそうに謝る基に私は固まる。
この男は私の前だと極端に恥ずかしがる。
今までその理由が分からなかったが今回初めてその理由が分かった気がした。
そんな基が可愛いくて愛おしい。
「なあ、基。接吻してもよか?」
「わざわざ聞かなくてもいいですよ、音之進さん。」
基が顔を赤らめる。
私は布団に押し倒すと優しく接吻をする。
唇を離し瞳を開くと基は幸せそうに笑っていた。
そんな様子を見て私の頭の中は沸騰しそうだった。
「なあ、基。…よか?」
私がそう言うと基は恥ずかしそうに視線を逸らすとゆっくりと頷く。
私は再び基に口付けた。
この後の愛し合った私達の姿は私達を優しく照らす月しか知らない。
音之進さんと共にここ帯広の地に来てから一年ほどが経った。
私は旭川にいた時のように翻訳家の仕事をしながら音之進さんと共に暮らしている。
結局お嬢様は旭川に残った。
学校には御学友もいらっしゃることだろうし、中央の想定通りアメリカ兵の上陸が釧路や苫小牧の海から上陸してくるのだとしたら、内陸である旭川はしばらくの間危険に晒される事はないだろう。
だからこれで良かったのだろうと思う。
帯広という慣れない土地で環境が大きく変わって大変なこともたくさんあるが今回の変化で良かったと思える事がひとつ。
お嬢様がいないこの環境だからか音之進さんは帰ってくると私に今起こっている事について話してくれるようになった。
今までより私に心を開いてくれたようでそれが嬉しい。
しかし、喜んでばかりも居られないほど帝国陸軍は変わってしまっていた。
北部軍司令部なんて組織なんて聞いたことないし、そんなよく分からない組織の下に第七師団がついているのも初めて知った。
あと、樺太防衛のために歩兵第二十五聯隊が第七師団から離れて樺太の警備を行っていることも。
そしてこれも帯広に来てから知ったことだが、音之進さんは北部軍司令部の管理化に入るように迫られた時、大変悩んだらしい。
今までずっと北方の防衛を担ってきたのは私達第七師団なのに突然出来たこの土地の事を何も知らない人間にこの地を任せていいものかと。
「この有事の際にさらに陸軍に混乱を招く訳にはいかないだろう?」
そういう音之進さんはとても苦しそうだった。
私が現役軍人で音之進さんのお側にいられたら閣下はここまで苦しむことはなかったのかもしれない。
そう思うと胸が痛んだ。
そして音之進さんがその話をした時に私に一言「覚悟をきめておいてほしい」とそう言った。
音之進さんはあえて何をとは言わなかったが東京がそうであるようにきっとこの北海道の大地も戦場になりうるという事なのだろう。
しかし、そんな事言われなくても私の心はもう決まっている。
死ぬまでこの人に仕える、そう決めたのだから私はこの人の進む道についていくだけだ。
そこまではあえて口にしなかったがきっと音之進さんは俺の気持ちに気づいている筈だ。
私達は死ぬまで一蓮托生なのだから。
音之進さんがその話をしてから数日、音之進さんは殆ど家に帰ってこなかった。
師団長の彼が家に帰る暇なく働いているということはそれだけ今のこの国は逼迫している状況なのだろう。
しかし、音之進さんも人間だ。
不眠不休で働いていたらきっとどこか身体を悪くしてしまうだろう。
それが気がかりだった。
しかし、私はもう軍人ではないから彼の元で軍務を手伝う事は出来ない。
では他に出来る事はないだろうか。
考えた結果私が出した答えは彼に握り飯を持っていく事だった。
正直もっと何か出来ることはあっただろうし一般人の届けたものなんて受け取ってもらえない事は分かっている。
でもなにもせずにはいられなかった。
私は急ごしらえで作った握り飯を風呂敷に詰めて第七師団の本部へ向かう。
持っていった握り飯は案の定突き返されてしまった。
でもこれは想定していたことだったので特に落ち込むこともない。
多分私が現役の軍人で一般人が突然鯉登閣下に何か渡したいなんて言われたら絶対突き返す。
仕方ないから帰ってから自分で食うか、なんて思っいながら帰路に着く。
矢先だった。
街中にけたたましい音が鳴り響く。
空襲警報だ。
音之進さんに覚悟を決めろとは言われていたが、こんなに早く北海道が戦場になるとは思っていなかった。
しかし、驚いている暇はない。
私は「死ぬまで閣下のお側に」と約束したのだからこんなとこで死ぬわけにはいかない。
私は急いで防空壕に逃げ込む。
しばらくして警報のサイレンが消えた。
私が軍人だった時は殆ど航空機は実用化されていなかったから戦闘機の勝手は分からないが、この後すぐに戻って来るという事はないだろう。
私は足早に家に戻った。
家はとりあえず焼け落ちて居なかったみたいだ。
わたしはほっと胸を撫で下ろし、自分の持っていた荷物を風呂敷から出す。
傷む前に握り飯は食べてしまわないとな、と思いながら荷物の整理をしていると家の扉がガラリと開いた。
この混乱に乗じた泥棒だろうか。
私は音を立てずに音のする方へ近づいていく。
犯人の顔を見ようと物陰からこっそりと覗くとそこには真っ青な顔をした音之進さんがいた。
「音之進さん、一体どうしたんです?」
私が声を掛けると音之進さんはハッとしたようにこちらを見て私を抱きしめる。
「基…!」
「ちょっと!離してください…くるし……」
「お前が本部に来たという知らせがあった直後に空襲警報が鳴ったから…私は……」
音之進さんはさらに私をぎゅ、と抱きしめる。
音之進さんの手は少し震えていた。
「心配かけてすみません。私は大丈夫ですよ。」
「うん、よかった。」
私が頭を撫でると音之進さんは私の肩にグリグリと頭を擦り付ける。
全くいつまで経ってもこの人は俺の前では甘えん坊だ。
しかし、そんな事言っていられない。
彼は師団長という立場なんだからこれからやることが山積みのはずだ。
こんな所で油を売っている訳にはいかない。
「ほら、私はもう大丈夫ですから貴方はさっさと本部に戻る!貴方のことを必要にしている部下はたくさんいるんですよ。」
「じゃっどん、久々に会えたのに…」
「そう思って頂けるのは嬉しいですが、軍務優先です。ほら行った行った!」
私がそう言いぽん、と背中を叩くと音之進さんは本部に戻る準備をする。
その姿は哀愁が漂っていてそれがあまりにも可哀想だったので私は風呂敷の中に入っていた握り飯を手渡す。
「基?」
「実はこれを渡したくて本部まで行ったんです。忙しいことは重々承知なのですが、小腹が空いたときにでも…」
私がそこまで言うと音之進さんは握り飯を掴み取ると「あいがと!行ってくる!」と元気に家を出ていった。
本当に単純な人だな、と思いながら遠くなっていく音之進さんを見つめる。
本当に単純というか真っ直ぐというか…
そんなところがすきではあるのだが。
どうかこの人がこの戦争を生き抜けますように。
神や仏を信じるような質ではないがそう祈らずには居られなかった。
最初の帯広の空襲からちょうど1ヶ月後、玉音放送にて日本が降伏して終戦した事を知った。
私達は幸運にも双方生き残る事が出来た。
旭川に居るお嬢様も特に怪我等することなく過ごしているらしい。
これはかなり不謹慎な事であるのは重々承知ではあるが、私はこの終戦の知らせにほっとしていた。
三人とも生き残る事が出来たということももちろんそうだが、これで戦争が終われば音之進さんも少しは肩の荷が降りるだろう。
少しの間でも彼が休む事ができれば…
そう思っていた。
しかし、国民の戦争は終わっても軍人の戦争はそう簡単に終わらない。
戦争の後処理が残っている。
音之進さんは終戦後も一週間ほど家には帰って来なかった。
おかしい。
戦争の後処理が残っているにしてもこんな一週間も帰って来れないものだろうか。
そう心配していた頃だった。
音之進さんが久しぶりに家に戻ってきた。
顔には酷い隈ができている。
「おかえりなさい。今食事の準備をしますね。あと風呂は…」
私がそう言うと彼はいや、いい。と私の提案を断った。
そして私に向かって疲れたような声でこう言った。
「樺太に行かないか、月島軍曹。」
基と私を乗せた船は樺太へ向かっていく。
「こんな戦争が終わったばかりの状況で行って大丈夫なんですか?」
「…行くなら今しかないんだ。」
私がそう言うと基は黙ってそれ以上口を開くことは無かった。
終戦後に起きた樺太の陸上戦があり、ソ連豊原が占領されることで終幕を迎えた。
南樺太はもうじきソ連の領土になるだろう。
そうなったら簡単にここには来れなくなる。
だからここの現状を見に来るとしたら講和条約が結ばれる前の今しかないと思った。
まさかこんな形で再び樺太の地を踏むことになるとはな…
そんな事思いながら眺めていると豊原の街が見えてきた。
豊原の地を踏んで私は愕然とした。
そこは私達がかつて先遣隊として立ち寄った時とは比べ物にならないような町並みが広がっていた。
街は焼け野原と化していてあたりには民間人の死体がゴロゴロと転がっている。
「ウッ…」
基は思わず鼻を覆う。
当たり前だ。
あたりに転がっている死体は腐卵臭が漂い、ハエやウジが湧いていたのだから。
私はそんな死体から目を逸らすように豊原の街を進んでいく。
「基、覚えているか?この酒場でフレップワインを飲んだ。」
「ええ。覚えてますよ。確か杉元と喧嘩になっていましたね。」
「アシリパを奪還した帰りにここの宿に泊った。」
「そんな事もありましたね。」
「基、私は…私は……」
「閣下、ひとまず宿に戻りましょう。宿でゆっくり話を聞きます。」
そう言うと基は私の手を掴み歩き出す。
少しでもこの異臭漂うこの場所から逃れたかったのか私を気遣ってなのかそれは分からない。
でもその気遣いがありがたかった。
宿に戻ると私は服を着替えるとその場に座り込んだ。
基も私の横に座る。
「基、聞いてくれるか?」
「私で良ければ…」
私は頷くと私は基にいままで心に溜まっていた事をすべて吐き出すことにした。
北部軍司令部は最初から気に食わなかった。
作戦の方針も全て私の考えと違っていてこんな所の管理化に入っていいのだろうかと何度も悩んだ。
しかしこの有事に揉めてさらに軍の混乱を起こすことになるのは避けたかった。
それらの対応で今度は戦争への判断が遅れてしまうとそれはきっとこの地に住んでいる国民にも被害を与える。
そんな事私には出来ない。
だから中央の指示に従って北部軍司令部の管理下に入る事にした。
でもそれが間違いだった。
頭の硬い北部軍司令部は対アメリカ戦のことばかりでソ連のことなんて考えてもいない。
きっと日本とソ連が結んだ条約があったからソ連が攻めてくるはずなんてないとでも思っていたのだろう。
でも、ソ連が樺太の国境付近で基地を建設し始めた時点でソ連に警戒すべきだ。
しかし、そんな第八十八師団の提案を北部軍司令部は一切取り合おうとしなかった。
しかし、ただでさえ劣勢の日本がそんな状況では必ず日本は負ける。
そしてなにより樺太の民を犠牲にすることなど私には出来なかった。
あそこには多少なりとも思い入れはあるし、樺太にはチカパシやエノノカもいる。
そうだろう、基。
だから私は北部軍司令部に掛け合った。
今ソ連に対して手を打たないと日本は取り返しのつかないことになると何度も言った。
でも結局北部軍司令部の人間が重い腰を上げたのは8月に入ってからだった。
これで一息つけると思ったが現実はそんなに甘いものではなかった。
第七師団ですぐ対応するために対策を講じようとするも北海道本土に人員を割いていて思うように樺太に人員を派遣出来なかったというのが現状だ。
その結果、本来第七師団が来るまでの足止め程度の役割しか持っていなかった歩兵第二十五聯隊の救難信号に私は何も出来なかったのだ。
そこまで私が話すと襖の外から声が聞こえた。
どうやら宿の人間が食事を運んできた。
「閣下、ひとまず食事にしましょう。」
基はそう言うが、私は食事が喉を通らなかった。
私のせいで死んでいった者の事を考えるととてもじゃないがそんな気分にはなれない。
「閣下、食事くらいちゃんと摂ってください。」
「いい。基が食ってくれても構わん。」
「あなた、またそんな子どもみたいなこと言って…もしかしてロクの食事摂ってないんじゃないんですか?どうり痩せているわけだ…」
私は基の言葉に押し黙っていると基は私の食事の椀を取り、無理矢理口に飯を突っ込む。
本当に仕方ない人ですね、と困った顔をする。
別にそんな顔をさせたかったわけではないのに。
基に顔を見ているのが苦しくなって私は基から視線を逸らした。
「覚えてますか。貴方が樺太で杉元に刺された後、小樽の病院で貴方が動けない間こうやって飯を食わせていたのを…」
「うん、基、私は……」
自分でも手が震えているのが分かった。
師団長が情けない。
基はあの時私は人を先導する器のある人間だと言ったがきっと私にそんなものが無かったのかもしれない。
だからこうやって道を間違えた。
多くの民を殺してしまった。
そんな事を考えて居ると基が優しく私を抱きしめる。
久々に感じた基の感触は優しくて暖かかった。
「基ぇ…おいはどうすりゃよかったんじゃ?」
「あなたはよくやりました。樺太はこんな結果になってしまいましたが、北海道本土の人たちは守られたでしょう?閣下が居たからですよ。」
そこからはあまり記憶がない。
基の前で泣いたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
でも基の温もりだけは確かに身体が覚えていた。
「閣下、もう休みましょう。貴方を待っている人が居るんですから。」
「…今は閣下じゃなか。」