函館駅に列車が猛進し、海に堕ち、鶴見中尉が水底に沈んでしまった事により、長かった金塊争奪戦は終わりを迎えた。
全てが終わり私が病院で意識を取り戻したとき、金塊も権利書もどこにもなかった。
鶴見中尉殿と共に海の底に沈んだのか杉元たちが持ち去ってしまったのかは定かではない。
「この戦で何も得られなければ我々は軍の裏切り者として裁かれる。」
私が鶴見中尉殿に言った言葉は現実になってしまった。
しかし、落胆している場合ではない。
我々はまもなく中央に裁かれる。
これからどのように生きていくべきか己の身の振り方を考えなければならない。
罰を甘んじて受けるのかそれとも抗うのか。
…鶴見中尉殿ならどのような決断をしていただろうか。
私は考えを巡らせる。
私が初めて彼と出会った時、私は何も知らない子供だった。
その時は彼が眩しくて彼のような軍人になりたくて海軍ではなく陸軍を志望した。
それくらい私の中で鶴見中尉殿は大きな存在だったのだ。
しかし、樺太で月島から鶴見中尉殿の目的を聞いてから色々と考えるようになった。
私たち親子を利用しようとしていたこと。
軍事政権を樹立して国家転覆を目論んでいること。
当時の私が一度に受け止めるにはあまりにも大きすぎる野望だった。
鶴見中尉殿への忠誠心は変わらない。
ただ自分がついて行こうとしている未来は本当に正しいのか。
私は彼に心酔しているだけの彼の部下でいることを辞めた。
鶴見中尉殿の目的が本当にあるなら私はそれを見定める。
それが私の出した結論だった。
もっとも今思えば彼にもし正義がなかったとしてもそれを受け入れられるかどうかは微妙ではあるが…
そして彼についていっていて気付いた。
私はきっと鶴見中尉殿には必要とされていない。
鶴見中尉殿は一回も私に「私の力になってほしい」と言ってくれたことはなかった。
きっと父上の戦艦を利用するための駒としか思っていなかったのだろう。
彼がそう言ってくれたら私は彼の甘い嘘をまっすぐ信じていられたかもしれない。
しかし、私は彼に背を向けた。
だからといって私は彼を見限ったわけではない。
鶴見中尉殿は私が最も尊敬している軍人だ。
それは生涯変わる事はない。
この戦いでは多くのものを失った。
しかし残ったものもたくさんある。
私は彼らが遺してくれたそれらを守っていく義務がある。
そう思うことにしたのだ。
彼の部下を守ろうと決心して色々行動に移そうとする私だったが私はまず大きな壁にぶち当たることになる。
私だけでは何も出来ないのだ。
士官学校を出たての若い少尉。
鯉登少将の息子。
私にはその程度のものしかない。
さらに父上が戦死してしまった今、私に残るものは何があるだろうか。
軍人としての経験は浅く戦場での戦い方も中央への立ち向かい方も私は心得て居ないのだ。
鶴見中尉殿が遺してくれたものを護るのに私だけでは力不足だ。
私に助言をくれる有能な部下が必要だ。
そしてそんな大役が務まる人間は一人しかいない。
「月島」
私はその男の名を呼ぶ。
そう。私の背中を預けられるのはこの男しかいない。
有能というだけならそんな人間はたくさんいる。
でも月島でないと駄目なのだ。
中央と戦うとなれば相手を信頼できないといけない。
月島以外の人間に背中を預けて戦えるのだろうか。
なんどか考えたがそんな未来私には想像できない。
私はそう思い月島を探し始めた。
月島は意識が戻り身体が動くようになるとすぐに病院から抜け出し、行方を眩ませていた。
何をしているかは大方予想がつく。
月島は私以上に鶴見中尉殿を慕っていた。
心酔していたという方が正しいだろうか。
私が月島と出会う前に何があったかは知る由もないが、月島の鶴見中尉殿への忠誠心は相当なものだったと思う。
だから鶴見中尉殿の死を受け入れる事が出来ないのも容易に想像が出来た。
恐らく鶴見中尉殿を探している。
だとすればこの函館からは出ていないはずだ。
旭川に配属される前は函館に住んでいたからそれなりにこの街のことは知っている。
月島を探す事など造作もない。
そう思っていたが探し始めて数ヶ月。
月島は見つからなかった。
自分の中にだんだんと焦りが滲む。
私には月島が必要だ。
大きなことを成すにはやはり私には月島が必要なのだ。
しかし、どんなに探せど月島は見つからなかった。
もう函館から出てしまったのかそれともー
最悪な可能性が頭を過る。
月島はこんな傷で死ぬはずはない。
そう私は思っていた。
しかし、私は月島の心の傷を見落としていた。
信念の強い男だと思っていたが鶴見中尉殿を失ったことに絶望して自ら命を絶とうとしていたら…
考えただけで鳥肌が立った。
もっと私が早く月島を探しに行けばこんなことにならなかったのだろうか。
そんな時だった。
ある噂が私の耳に飛び込んできた。
”坊主頭の男が函館湾で何かを探している。”
月島だ。
私は本能的に確信した。
奴はまだ生きている。
私は急いで函館湾へ向かった。
そこにはずいぶんとみすぼらしい格好で海の中で何かを探す月島がいた。
「月島ぁ!!」
私がそう呼ぶと何食わぬ表情でこちらを見る。
なんだか私のことなんて忘れてしまったようでそれが少し怖かった。
「骨一本でもなんでもいいんです。。あの{額当て}でも見つけられたら…」
「権利書も金塊も鶴見中尉殿が使うから何かが起こると信じていました。どうやってこれから生きていけばいいのか。」
こんな弱っている初めて見た。
月島はもともと精神的に不健康な部分はあったがこんな弱音を吐くような人間ではなかった。
その所以足らしめるのはおそらく鶴見中尉殿への忠誠心だ。
そしてその指針を失ってしまい月島の中にあった基盤はぐらついているのだ。
今の月島には指針が必要だ。
その月島の道標に私がなれるとしたら。
「優秀な右腕となる人間が必要だ。月島軍曹、私の力になってくれ。」
私には月島が必要なのだ。
鶴見中尉殿の亡霊に取り憑かれている月島基ではなく、私の今後を支える能力のある月島軍曹が。
月島は一度驚いた表情をすると、覚悟を決めたのか、わずかに頷く。
私が早く来い、というと月島は「はい」と私の元へ来る。
その表情は僅かにではあるが明るかった。
きっとこの男は大丈夫だ。
何しろこれからはこの私があいつを導いてやるのだから。
気がついた時はそこは病院だった。
俺は確か列車に乗っていたはずだ。
そこで鶴見中尉殿にこちらに来い、と言われてそこから記憶が朧げだ。
この男を解放してやってください
そんな上司の言葉が頭に反響する。
そうか、俺は鯉登少尉殿に助けられたのか。
初めて見た時は戦争も知らない子供と思っていたが俺はその子供に助けられたらしい。
ずいぶん立派になられた、なんてことを思いながら再び目を閉じた。
再び目を覚ました時そこには先ほどと同じ天井があった。
身体を動かそうとするも動かすたびに傷が痛む。
そういえば鶴見中尉殿や鯉登少尉殿はどうしただろうか。
そう思い、身体を動かそうとすると遠くから声が聞こえてきた。
おおかた、看護婦が世間話をしているのだろう。
さほど気にすることでもないか、と思っていた時、私は自分の耳を疑った。
鶴見中尉殿は海に落ちて死んでしまったと言うのだ。
私は目の前が真っ暗になった。
あの人は、鶴見中尉殿は何かを成し遂げる人だ。
あの人の本来の目的は測りかねるがきっと何かを成し遂げる人なのだ。
そんな人がこんなところで死ぬわけがない。
そう信じたかった。
だから私は夜に病院を抜け出して探し回った。
今考えれば頭のどこかではもうわかっていたのだろう。
でもそれを認めたくなかった。
死んだというのは誰かが流したデマできっと鶴見中尉殿はどこかで潜伏しているのだろう。
そう信じたかったのだ。
だから函館の街を探し回った。
しかしどれだけ探しても鶴見中尉殿の痕跡は見当たらない。
どれだけ探してもあの人の情報はつかめなかった。
いや本当はもうこの世に彼がいないと分かっていたのかもしれない。
まただ。
”彼女”を失ってから十数年。
また大切な人がこの世から消えて決まった。
鶴見中尉殿は私の中心にいて私にとっての光だった。
道標だった。
だからその道標を失った私はこれからどう生きていけばいいのか分からなくなった。
本当に彼は死んでしまったのだろうか。
もしそうだとしたら彼の亡骸はどこにあるのだろうか。
もし彼の亡骸―彼がこの世界に存在した証がほしい。
強欲な私はそう思ってしまった。
そう思い私はあの時の事を調べた。
私たちを乗せた列車は機関室のみ切り離されて暴走。
その後函館湾に突っ込み終焉を迎えたらしい。
何故機関室を切り離したのか、機関室に誰がのっていたかは定かではない。
しかし、鶴見中尉殿の死体がどこにもないのを見る限りきっと海の底に沈んでしまったのだろう。
彼の遺物を見つけるにはそこしかないだろう。
そう思い、私は函館湾を捜し始めた。
しかし、私が鶴見中尉殿を探し始めてから既に数ヶ月が経過しており、それらは既に一つ残らずに海の底に沈んでしまったのか彼の遺体どころか彼が愛用していた額当て1つすら見つからなかった。
彼は本当に死んでしまったのかと心が折れそうになった時ふと`あの子`の髪を脳内が過ぎった。
俺が佐渡に戻ったらいなくなってしまったあの子。
たらい舟で探し回った時は本当に生きた心地がしなかった。
よく考えたらあの時の状況と今の状況は似ているかもしれない。
突然いなくなった大切な人。
海の底をさらって探す自分。
そのどれもが重なって俺は自嘲の笑みが溢れた。
俺の人生はいつもそうだ。
掴んだはずの大切なものはいつも掴んだ指の隙間からすり抜けていく。
俺はまた自分の感情に蓋をして生きていかなければならない。
正直俺はそんな自分に嫌気が差していた。
このまま俺も鶴見中尉殿と一緒にこの海の底に身を沈めてしまおうか。
そう思っていた時聞き覚えのある声が俺の名を呼んだ。
「我々反乱分子は政府から賊軍として裁かれる。
私には鶴見中尉殿についてきた部下たちを中央からどんな手を使ってでも守るという大仕事がある。」
そういう彼は昔私が誘拐したボンボンとは違い、逞しい1人の軍人として成長を遂げていた。
そして同時に私の役目も終わったのだと思った。
もうこの人は1人の軍人として1人で立って1人で歩んでいける。
そう思ったのだ。
鯉登少尉殿が言うようにどのみち私は軍に追われる身となる。
それなら捕まる前にこの海に身を投げるのも悪くない。
この人が一人前の軍人として成長を遂げたのなら尚更だ。
私は彼に背中を向けようと海へと視線を向けた。
「月島軍曹、私のちからになってくれ。」
彼の言葉に驚き視線を鯉登少尉殿に視線を戻す。
彼の真剣で真っ直ぐな表情に私は言葉を失ってしまった。
「鯉登少尉殿、私はもう軍から離れた人間です。それにあなたはもう1人の軍人としてやっていける。なにより私にあなたのそばにいる価値は…」
「馬鹿すったれ!そんな話をしているのではない!」
鯉登少尉殿が声を荒げた。
分かってくれ。
俺には軍に戻るような価値もあなたのそばに立つような価値もないのだ。
それに俺はもうこれ以上何も失いたくない。
俺がそばにいてはきっとこの人は不幸になってしまう。
あの子や鶴見中尉殿のように。
「月島、私はお前の人生は知らないし、お前の価値なんてものは測ることはできない。ただ中央から皆を守るにはお前の経験が必要なのだ。少なくとも私にとってはお前には価値があって私にはお前が必要なのだ。だから―」
彼の表情は真剣そのもので私は再び言葉を失ってしまった。
そしてそのまっすぐな視線が私には眩しすぎた。
列車の中で聞こえた言葉が頭の中に響く。
この男を開放してやってください
あの時何故鯉登少尉殿はなんで私を引き留めたのだろうか。
私はただの彼の補佐役だったに過ぎない。
そんな男捨て置けばよかったはずだ。
しかし鯉登少尉殿は私を引き留めてくれた。
それは彼にとって私には利用価値があると思っていてくれたのだろうか。
もし彼が私を必要としてくれているのだとしたら私は…
私は観念して彼に視線を向ける。
鯉登少尉殿は私の意図を理解してくれたのかふっと笑う。
そしていつものように私の名を呼ぶ。
「月島ぁ!早く来い!!」
「はい」
私は短くそう返事をすると差し出された彼の手を掴む。
もし、この人が俺を必要としてくれているのだとしたらこの人のために命を捧げよう。
今度こそはこの大切な宝がこぼれ落ちていかないようにどんな事があっても守り抜くと誓おう。
そう心に決めて差し出された手を強く掴んだ。
これは新米少尉とその補佐官が戦友になっていく物語である。
月島が軍に戻ってきてから数ヶ月。
私たちは体勢を立て直すために旭川に戻ってきていた。
今後の中央の動きを探るためには小樽や函館にいるより軍部の情報が多く飛び交う旭川の方がこちらにとって都合が良いと判断したのだ。
復帰してからの月島の働きは目を見張るものがあった。
その経験の豊富さから多くの情報を仕入れてきて立て直すたねぶ必要な提言を必要な時にしてくれる。
やはりこの男を連れてきたのは正解だった。
このままうまくいけば中央とうまく渡っていけるだろう。。そう思った矢先だった。
もう少しで中央と戦う準備が整うといった時に事態は悪い方向へ進む。
私たちの予想よりも遥かに早く中央の調査団が旭川まで来たのである。
旭川に我々が旭川に入ってから四日後の出来事だった。
おそらく私達をよく思わない上官の誰かが密告したのだろう。
私はそいつの事を心底憎らしく思ったが、今はそれどころではない。
この場をどうにか切り抜けて皆を守らねばならない。
中央の狙いは勿論私と月島だ。
生きている人間の中で1番近い距離にいたのが私と月島なのだから当然だ。
それから私と月島は毎日のように尋問に引っ張り出された。
私たちが鶴見中尉殿の目的を知っていて、それを知っていて尚私達の部下も同様に鶴見中尉殿について行った。
それが中央が思い描いた筋書きだろう。
しかし、中央の思い通りになるわけにはいかない。
幸いにも月島とどのように口裏を合わせるかの算段はついていたため事は円滑に進んで行ったように思える。
私たち以外に他の部下たちにまで聴取を始めたのは想定外であったが、中央の人間が兵卒に行ったのは私たちに行っている尋問ではなく状況の確認であったため、部下たちも話を合わせてくれたのだろう。
少なくとも彼らが私たちより酷い罰を受ける事はなかった。
しかし、私たちの取り調べがかなり長引いた。
長引けば長引くほど月島は頻繁に私の心配をするが、私は心配ない、と笑い飛ばした。
正直かなり疲弊していたが、月島も同じ、いやそれ以上の事をされているはずなのに顔色一つ変えずに尋問に耐えている。
上官の私が弱音を吐くわけにはいかないだろう。
そんな時だった。
私が尋問を受けているときに調査員の気が昂ったのか私を殴った時があった。
すこし口の中は切れたが、幸い頬が腫れるだけで済んだ。
腫れた頬を押さえながら執務室に戻ってくると先に戻ってきた月島が血相を変えて飛んでくる。
「鯉登少尉殿!その傷どうしたんですか!」
そう言いながら私の頬を冷やす月島に今日はいつもよりキツかったな、と笑うと月島は暗い表情で俯く。
その表情はいつだったかアイヌのコタンで谷垣を追いつめたときの表情を彷彿とさせた。
本当に大切だったものを諦めて…捨ててきました。
私は自分の仕事をやるしかない。
あの時月島はそう言った。
あの時の月島の顔は覚悟を決めたというにはあまりにも苦しそうだった。
きっと自分が手を汚せばいい、なんて思っているのだろう。
「こんな汚れ仕事あなたではなく私がすべきなのに」
月島がぼそり、と呟く。
やはり不健康な事を考えていた。
最初は鶴見中尉殿への忠誠心故のものだと思っていたがどうやら本来の気質らしい。
「何を言っている。これも部下たちを守るのに必要なことだろう」
「ですが…」
月島は口ごもる。
きっと月島の中では私はまだ士官学校を出たばかりの”戦争を知らない子供”だと思っているのだろう。
心のどこかで分かっていたがやはりいざ直面すると苦しくなる。
結局のところ月島は私の事をこれから共に戦っていくパートナーとして信用していないのだ。
「月島、お前は私をどう思っている?」
私は気づくとそう問いかけていた。
自分で悶々としているのは私の性に合わない。
だからはっきりさせたいと思った。
「突然どうしたんですか。私はあなたにのお役に立てればそれで…」
「そうやってはぐらかして…お前は私の事を何も知らない子供だと思っているのだろう」
「は?」
「お前は自分の事を私の保護者か何かだと思っているのではないのか?私はお前の事を……」
大切な相棒だと思っているのに、という言葉は喉の奥から出てくることはなかった。
月島はポカンとした様子で私を見ていた。
私からこのような事言われる事を想定していなかったのかそれとも無自覚だったのかそれかその両方か。
「月島?」
「え、あ……すみません。鯉登少尉殿。あなたを子供扱いしているわけでは決して無いのです。ただ…」
「ただ?」
「あなたはこんな事しなくていいんです。今あなたは私達の”顔”なんです。そんな方の顔に傷をつけるわけにはいきません。こんな汚れ仕事は私が……あなたの駒である俺がやるべきなんです。」
月島は苦しそうに言葉を絞り出す。
きっと月島にとってこのような汚れ仕事を上官の代わりにするのはこの男の日常だったのだろう。
この男は自分が利用されているということを理解していたしきっと自分はこの局面を切り抜けるための駒だと思っているのだろう。
今まで鶴見中尉殿にそう扱われてきたように。
しかし、私は月島を”利用している”とはこれっぽっちも思ったことはない。
そう伝えたらこの男はどんな顔をするだろうか。
「鯉登少尉殿?」
「月島。お前は色々と勘違いしているみたいだから先に言っておく。私は一度もお前を駒だと思ったことはない。」
「は…」
「月島、私はお前に汚れ仕事をさせたいからお前に一緒についてきてほしいと言ったのではない。それではまるでお前を駒のように思っているみたいじゃないか。私は自分の駒が欲しいのではない。私はお前を駒だとは思っていない。私はお前の事を信用している。私の大切な部下として、月島基という人間としてお前を必要としているのだ。」
私がそう言うと月島は俯き視線を泳がせていた。
私が覗き込もうとすると月島はふい、と私から視線を逸らしてしまった。
「月島?」
「申し訳ありません。そのような事を言われたのは初めてでなんと言っていいのか…」
そう言う月島はひどく戸惑っているようだった。
ただ自分についてきて欲しいと言っただけなのに何をそんなに戸惑うのだろうか。
「ともかく私はお前の事を一人の人間として尊敬しているし、お前の苦しみは一緒に背負わせてほしい。いいな?」
私がそう言うと、月島は少し悩んでから声を絞り出すようにはい、と呟いた。
その返事の自信のなさは自分にはまだ迷いが或るが私に返事を強要されたから無理に肯定したように聞こえてしまった。
この男が私に心を開く日は来るのだろうか。
函館湾で鯉登少尉殿に人生を救われてから数ヶ月、私たちは鶴見中尉殿の部下を守るために奔走していた。
状況確認を終える間もなく中央の調査団が到着したことや尋問が長引いているなど想定外の事が続き現場はバタバタだったが、鯉登少尉殿が奔走してくれた甲斐もあり事態は少しづつ良い方向へ向かっていた。
そして今日も中央からの尋問は続いている。
尋問される事は初めてじゃないから尋問に対しそんなに理性を欠くことはなかった。
そんなことより私は鯉登少尉殿が心配で仕方なかった。
私は鶴見中尉殿の元についていた頃もよくこのような汚れ仕事をしていたからなんてことはない。
しかし鯉登少尉殿はどうだろうか。
今までご両親に大切に育てられてきた士官学校出たての青年。
そんな彼にこんな役目荷が重すぎる。
本来であればこんな仕事私がすべて請け負うべきだった。
しかし、中央としては鯉登少尉殿の言質を取り、全て鯉登少尉殿の責任にしたいのだろう。
彼は責任を取るほどの経験は無いというのに。
そんなことを考えていると鯉登少尉殿が尋問から戻ってきた。
「鯉登少尉殿お疲れ様で…」
私はまとめていた書類から視線を外し鯉登少尉殿の方を見るとと全身の血の気が抜けていくのを感じた。
鯉登少尉殿の頬には赤い痣が出来ていたのだ。
「鯉登少尉殿!その傷どうしたんですか!」
私は慌てて鯉登少尉殿の方へ駆け寄り手当てをする。
鯉登少尉殿がなにか冗談のような事を言っていたが私の耳には届かなかった。
とうとう恐れていた事が起こってしまったと思った。
本来殴られるべき人間は俺であるはずなのに俺は無傷でこんな戦争を知らない純粋無垢な彼を傷つけてしまった。
そんな状況が苦しくて憎らしくて仕方なかった。
「申し訳ありません。こんな汚れ仕事、私がすべきなのに…」
私がそう言葉を零すと鯉登少尉殿の顔色が変わった。
「月島、私はお前に汚れ仕事をさせたいからお前に一緒についてきてほしいと言ったのではない。それではまるでお前を駒のように思っているみたいじゃないか。私は自分の駒が欲しいのではない。私はお前を駒だとは思っていない。私はお前の事を信用している。私の大切な部下として、月島基という人間としてお前を必要としているのだ。」
そんな彼の言葉に私は言葉を詰まらせてしまった。
自分にはそんな価値無いと思っていた。
自分は汚れ仕事をするための駒。
仮に私が死んだとしても私の代わりは沢山いる。
その程度の価値しかないと思っていた。
だから自分を一人の人間として必要されているというこの現状になんと返事をすればいいのか分からない。
「鯉登少尉殿、私は…」
「月島、私はお前と共に人生を歩んでいきたい。だからお前の嬉しいことも苦しいことも私に分けてほしいのだ。」
駄目か?という鯉登少尉殿の瞳はどこまでもまっすぐでこの人は本当に私を必要としてくれている事を感じ取れた。
「月島?」
「申し訳ありません。そのような事を言われたのは初めてでなんと言っていいのか…」
私はそっと鯉登少尉殿の手を握る。
その手は温かくて、掌にはタコが出来ていた。
戦争をくぐり抜けてきた男の手だ。
そうもう彼は立派な軍人なのだ。
私はまだ彼の事を子供扱いしていたのだな。
函館で救われたあの日、彼はあんなに逞しい軍人に見えたのにあの時の気持ちを忘れてしまっていたのだろうか。
先遣隊として樺太で過ごした日々や函館の列車で引き留めてくれた時の彼に思いを巡らせる。
先遣隊として樺太に派遣されたとき彼はまだ何も知らない子供だった。
士官学校を卒業したばかりの子供だったのだから当然だろう。
しかし、彼はあの地で確かに大きな成長を遂げた。
ただの子供だった彼は軍人としても自覚を持ち、一人前とは言えずとも一人の軍人として自覚を持ったのだろう。
そしてその後彼の軍人としての成長を感じたのは函館の旧陸軍演習場で鶴見中尉に踵を返したあの時だ。
アイヌの村で彼は鶴見中尉の事を見定めたいと言い彼はあそこで自分の答えを見出した。
鶴見中尉殿に縋る事しかできなかった私とは違う。
あの時の鯉登少尉殿は確かな強い信念を持っていて私はそんな彼に救われたのだ。
そう彼はもう立派な一人前の軍人だ。
本人に気づかれないように少し彼に視線を向ける。
その覚悟が決まった射抜くような瞳は多くの部下に慕われていたかつての鶴見中尉殿を彷彿とさせた。
そう今や彼はあの人のように皆の先頭に立ち、牽引していくような強さがあるのだ。
そんな人をどうして何も知らない子供のような扱いができようか。
この人は人を先導出来るような器の大きな一人の軍人だ。
この人を支えたい。
金塊争奪戦の後処理以降もこの人がもう私が必要ないと言うまでこの人のことを支えたいそう思った。
「月島、ともかく私はお前の事を一人の人間として尊敬しているし、お前の苦しみは一緒に背負わせてほしい。いいな?」
彼の言葉に噛みしめるようにはい、と頷く。
しかし鯉登少尉殿の表情は曇ったままであった。
「少尉殿?」
「いや何でもない。」
そう言うと鯉登少尉殿は軍務に戻ってしまわれた。
何か思う所があるのだろうか、と彼のことを気に留めながら軍務を行っていると少尉殿がぼそっと呟いた。
「あの時」
「はい?」
「あの時お前は私の言葉に頷いてくれたな。」
「ええ。」
「お前は上官の私がそう言ったから無理に頷いたのではないのか?」
「は?」
鯉登少尉殿の言葉に手が止まる。
私が無理矢理頷いた?
どうしてそんな話になるのだ。
「どうしてそういう話になるんですか。」
「お前が無理に笑っているように見えたから。私は…」
そう言い鯉登少尉殿は俯く。
そんな姿に私はくすり、と笑う。
函館で私の事を救ってくれたあの勇ましい軍人とは思えなかった。
「元々不愛想な顔なんです。それくらい多めに見てください。」
「本当か…?」
「ええ。少尉殿いいですか?私はあなたのさっきの言葉で救われたんです。私は今まで駒として生きてきたのでそんな事言われた事なかったので最初は戸惑いました。でもあなたが私と一緒に生きてくれるんだったら私は…」
「月島…」
鯉登少尉殿のまっすぐ刺さるような視線が少し痛くて私は軍帽を深くかぶり直す。
彼を子供の用に思っていた自分が恥ずかしくなった。
「少尉、あなたが言っていたようにあなたを子供の用に思っていたのは事実です。申し訳ありません。ですがあなたは私が出会った頃のような子供ではありません。覚悟の決まった立派な軍人です。そんなあなたに私はついていきたい。」
いけませんか?と私が問いかけると鯉登少尉は嬉しそうな顔をした。
恐らく納得してもらえたのだろう。
「本当だな?私の事を対等な軍人として扱ってくれるのだな。」
「上官と対等な立場になれるわかないでしょう。でもあなたは尊敬出来る軍人の一人です。もう間違えません。私はあなたに一生尽くします。」
私がそう言うと私の眼の前にいる光はお前の道がそれたらいつでも引き戻してやる、とニカっと笑った。
俺はこの光を守るためなら例え地獄に落ちようと何でもできる。
そう思ったのだった。
金塊争奪戦の処理が落ちついてから数年、鯉登少尉殿の陸軍大学校の進学の話が持ち上がった。
金塊争奪戦の一件で鯉登少尉殿の第七師団内での立場は危ぶまれたが金塊争奪戦の一件が落ち着いき、なんとか聯隊長殿から推薦状を貰うまでに至ったのだ。
もちろんその道のりは簡単ではなく私は鯉登少尉殿の知らない所で彼の前では聞かせる事ができないような事をした。
全ては鯉登少尉殿のため。
そう思うと傍から見ると反吐が出そうな汚れ仕事も何も苦ではなかった。
だが、鯉登少尉殿はこんな事知らなくて良い。
あの人は隠し事が嫌いな人だが、こんな事を知ったらきっととても悲しむだろう。
彼はとても優しい人間だから。
そんなことするな、などと言うだろう。
それでも、私は彼のためになることをしたかった。
鯉登少尉殿はとても聡明な人で皆を率いる力を持っている。
こんなところで燻っていていい人間ではないのだ。
だから私は彼の道に塞がる障害があれば例え命を失うことになっても取り除きたいのだ。
それが私が鯉登少尉に与えられた恩を返す事が出来る唯一の術なのだから。
「月島ァ!これを見ろ!」
「聯隊長殿から推薦状を頂けたんですね。ご立派です。」
私に推薦状を見せに来る鯉登少尉殿の表情はまるで玩具を与えられた子供のように目を輝かせていて、最近彼の笑顔を見ていなかった私はまだ彼の中に嬉しい事を素直に表出できる彼の純粋さに安堵する。
「少尉、舞い上がっている場合ではありませんよ。推薦状を頂いても試験に合格しないと陸軍大学校には進めないんですから。」
「わ、わかっている!一日くらい浮かれる日かあってもいいだろう。相変わらず馬鹿真面目なヤツめ…」
そうブツブツ言いながら執務室に消えていく鯉登少尉殿を見て小さくため息をつく。
本当に大丈夫なのだろうかと不安になる。
しかし鯉登少尉殿は元々聡明で要領が良い。
軍務や任務をこなしながらも受験の勉強をこなしていた。
軍務は鯉登少尉殿の代わりにできるものであれば私が行っていたが、任務となるとそうはいかない。
そして推薦状を貰ったその日から明らかに鯉登少尉殿の任務の量が増えた。
推薦状を貰ったとはいえ、鯉登少尉殿をよく思わない上官たちが手ぐすね引いているのだろう。
任務の中には私のような下士官が行ってもさほど問題ないような任務もあったから余程鯉登少尉殿に陸軍大学校に進んで欲しくないのだろう。
それはきっと鯉登少尉殿が一番分かっているはずだ。
しかし、鯉登少尉殿は文句一つ言わず任務や軍務をこなしながら受験勉強に勤しんでいる。
そんな彼を見ていると私は下手に動くことが出来なかった。
しかし、鯉登少尉殿はこんな所で心が折れるような男ではない。
鯉登少尉殿は数年の勉強期間を経て無事に陸軍大学校に合格した。
その頃にはこれまでの任務の実績が認められ、鯉登少尉殿は鯉登中尉になっていた。
そんな様子を見て私はとても誇らしく思った。
やはりこの人は部下を引っ張っていく人だ。
そんな人の右腕が私なんてなんと光栄なことだろうか。
「月島!おい、聞いているのか?」
「…はい。」
「絶対聞いていなかっただろう。全く不敬な奴め…」
「ちゃんと聞いていますよ。私の事よりまずご自身の事を心配なさってください。」
「そうは言っても私は自分の部下をこの地に置いていかなければならぬのだ。お前にしっかりとしてもらわなければ困るぞ、月島軍曹。」
「もちろん心得ています。貴方が託してくださったものは必ずやこの月島がお守りします。」
「わかっているのならいいのだ」
ふん、と鼻を鳴らすと鯉登中尉殿は東京へ行く船へと消えていった。
私はこれから数年、鯉登中尉殿がいない日々をこの北海道の地で過ごす事になるのだ。
普段の軍務をだけでなく鯉登中尉殿を失脚させようとする勢力を見張らないといけない。
やることは山積みだ。
鯉登中尉殿が東京へ行って数ヶ月が過ぎた。
鯉登中尉殿を失脚させようとしていた連中も特に大きな動きがある事もなく、私は軍務に勤しむ。
ある日、書類を上官に届けに行った帰りにたまたま鯉登中尉殿の執務室を通りかかった。
この部屋に行っても鯉登中尉殿はここには居ない。
しかし私は気がつくと鯉登中尉殿の執務室の扉を開き、部屋の中に入っていた。
その中はしん、と静まり返っており、机の上にはわずかに埃が積もっていた。
「鯉登少尉殿、机の上は定期的に拭きなさいと言っているでしょう。」
「キエ…何で私がそのような事をしなければならんのだ。」
そんなやり取りを思い出して口元が緩む。
今はこの机を拭く人間はいない。
「定期的に拭きに来ないといけないな…」
なんて言葉を漏らしながら周囲を見渡す。
夕暮れ時という事もあり、あたりはしん、としていて足音ひとつ聞こえなかった。
この部屋はこんなに静かだっただろうか。
「月島!月島ァ!」
「月島ァ…そろそろ休憩したい…いかん?」
鯉登中尉殿が私を呼ぶとき、いつもこの部屋から声が聞こえてきた。
「月島、だんごが食べたい」
「月島、さっきそこに子猫がいた」
「月島―」
この部屋には鯉登中尉殿が詰まり過ぎている。
私はなんだか苦しくなって鯉登中尉殿の部屋を出た。
彼の部屋から兵舎に戻りながら私は鯉登中尉殿へと想いを巡らせる。
函館で救われたあの日から今まで私達に立ち止まる時間は無かった。
金塊争奪戦の後処理、鯉登中尉殿の進学のための推薦状の根回し、鯉登中尉殿の進学と息をつく暇もなかった。
しかし、金塊争奪戦の一件も落ち着き、鯉登中尉殿を脅かす者も大きな動きを見せていない。
今までとは比べ物にならないほどの平和で穏やかな日々だ。
そして鯉登中尉と離れることで鯉登中尉殿がこの地に帰ってくるまで今は私は彼の右腕ではなく一人の下士官となった。
つまり誰の駒でも右腕でもない空白の時間が出来てしまった。
…少しだけ立ち止まっても良いだろうか。
私は自室のベッドに寝転がるとゆっくりと瞳を閉じた。
日清戦争から帰って来たあの日。
今考えれば俺の人生はあそこから歪み始めたのかもしれない。
彼女を迎えに行ったあの日、”あの子”どころか俺の存在は無かったことになっていた。
話を聞けば俺は死んだことになっており、”あの子”は死んだことになっている。
話を聞いた俺は海岸を探した。
彼女はもう生きていないかもしれない。
でも遺体を確認しないと前に進めないと思ったから。
結果的に彼女の遺体は見つからず、彼女が死ぬ原因を作ったのは父親だと知った。
その瞬間自分の中で制御しきれない感情が溢れてきて気が付くと俺は親父を殴り殺しており死刑囚として刑務所に収監されていた。
刑務所に収監された俺はきっと心がからっぽで抜け殻のような状態だったのだろう。
朝起きてから夜眠るまで特にすることもなく食事の時以外ただ一点を見つめているだけの生活。
それを苦痛と思った事は一度もなかった。
そんな生活をしばらく送ってきた時だった。
俺の元に面会者がやってきた。
親もいなければ親しい人間もいない俺に面会者が来るのは疑問であったが俺の牢の中に入ってきたのはかつての上官である鶴見中尉殿であった。
その時私は彼に”彼女”の話をした。
何故そんな話をしたのか自分でも分からないが、きっと自分の中の感情を清算したかったのかもしれない。
「尊属殺人の身ですが、とりあえずあの子を死なせたクソ親父だけは殺せたので満足です。」
あの時私はそう言ったが今思えばあれは半分真実で半分嘘なのだろう。
あいつを殺せて満足感を感じたと同時に憎しみが心の中に渦巻いていたのも事実だった。
恐らく私は満足したと思いたかったのだ。
そうでないと自分は独りであるばかりか何の罪もない一人の少女を殺してしまった人として最低で空っぽで何もない人間と認めてしまうような気がしたから。
やったことが最低なのは覆ることでは無いが、それでも俺の中に信じる正義は確かにあった。
せめて自分だけはその心は確かに存在していて欲しいと願ってしまったのだ。
それが鶴見中尉殿に伝わったかどうかは分からない。
しかし、これっきりだと思っていた彼との面会の機会は再びやってきた。
そして彼は驚くべき事実を私に告げる。
”あの子”は死んでいないというのだ。
その言葉を聞いた時に私は今この瞬間が夢か現実か分からなくなっていた。
狐につままれたような、とはこういう事を言うのだろう。
そして鶴見中尉殿はこう続けた。
彼女を財閥に嫁がせるには俺が邪魔だった。
だから俺を殺して”あの子”に俺を諦めさせようとした。
今考えれば随分と出来すぎた話なように思えるがその時はそんな夢物語に飛びついてしまった。
彼女が生きていたとして恐らく死刑囚の俺が彼女と会うことは叶わない。
それでも彼女が生きていてくれれば。
そう思った。
そしてその後俺は鶴見中尉殿の計らいによりロシア語を身に着けることで死刑囚の身から鶴見中尉殿の傍に置いてもらえるまでになった。
俺に生きる希望をくれて牢獄の外に出してくれたこの人に生涯尽くそうとまで思う事が出来た。
しかし、そんなときだった。
日露戦争の時奉天にて”あの子”の遺体が親父の家の下から見つかった事を知る。
俺は怒りのあまり上官という事忘れ鶴見中尉殿に怒号を浴びせた。
一歩間違えれば不敬により死刑囚に逆戻りだ。
でも許せなかった。
”あの子”で俺の心を弄んだのが。
”あの子”で嘘をついたのが許せなかったのだ。
あの後鶴見中尉殿はそれは俺を牢から出すためと言っていた。
私は納得しようとしたが、心の底では信じ切ることが出来ない自分がいた。
彼は”あの子”は生きていると言ったが本当なのだろうか。
俺という駒を手放さないための甘い嘘なのではないか。
俺の話をあんなに真剣に聞いてくれた人だ。
鶴見中尉殿に限ってそんな筈はないはずだ。
でも本当にこれは彼の作り上げた嘘だとしたら…
そんな考えが頭の中から消えなかった。
現に俺は新発田に入隊した時から今日に至るまで”あの子”に出会えていない。
そんな状態で俺は彼女が生きているとは思えなかったのだ。
しかしそれは鶴見中尉殿の言葉を否定することになってしまう。
自分を牢から出してくれた恩人に…
俺は自分がどうしたいのか分からなくなっていた。
そして悩んだ末に出した結論は”あの子”を心の中から完全に排除することだった。
俺が鶴見中尉殿の言葉を信じきれないのは”あの子”の事だけだ。
それ以外で言えば彼は立派で尊敬できる将校だ。
だから”あの子”への執着を捨てれば彼の完全な駒になれる。
そう思ったのだ。
だから捨てた。
日露戦争が終わり新たな拠点となる小樽の地で”あの子”の髪を捨てたのだ。
好きだった”あの子”の髪。
それを捨てれば俺は”あの子”を愛した一人の男ではなくただの鶴見中尉殿に使えるただのしがない下士官になることができたのだ。
そして私は鶴見中尉殿の命令を完全にこなす駒となった。
何度も人を殺してきたし人には言えないようなこともたくさんしてきた。
全ては鶴見中尉殿のため。
そう思い生きてきた。
しかし、今考えればそれだけでは無かったように思える。
もちろん中心には鶴見中尉殿のために、という気持ちはある。
でも本当は”あの子”の事を忘れたくて任務に躍起になっていたのではないかと思う。
彼女を忘れることで私は純粋無垢な駒で居られる。
そう思っていたのだ。
そんな風に日々を過ごしていたときだった。
俺は病院に入院しているインカラマッにこう尋ねられた。
「月島ニシパもなくしものや落とし物はありませんか。」
その時はくだらない、と切り捨てたが心に思い浮かんだのは”あの子”の事だった。
”あの子”はもう捨てたはずなのにどうして。
もう終わったことだ。
俺はもう"あの子の望むような人間では無いのだから。
なんて自分に言い訳をしてあの子を心の中から切り捨てたが俺の心の中に出来たしこりが消える事はなかった。
それから程なくして私はある裏切り者を処分しなければいけなくなった。
その人物は谷垣源次郎。
奴は鶴見中尉殿の命令を破り、インカラマッと逃走しようとした。
鶴見中尉殿を裏切った人間は殺すしかない。
今後の鶴見中尉殿の障害になりうるからだ。
谷垣を殺そうとしたとき家永に薬を打たれ身体が少し麻痺したような気がするがそんな事言ってる暇はない。
私は任務をこなすしかないのだ。
それ以外俺には何も残っていないのだから。
だから私は谷垣達を追った。
そう、いつも通りこのまま追い詰めて殺せば済むはずだったのだ。
鯉登中尉殿(当時は少尉であったが―)が俺を追ってくるまでは。
あの時私はあの人の事を正直子どもだと思っていた。
樺太でも目を離せばどこかに行ってしまうような人だ。
正直あの時の私達の関係は上官についていく下士官というより子守をしているという感覚の方が近かったと思う。
だからあの人はただ鶴見中尉殿の命令に従っているだけで将校としての意思や信念なんてものは持ち合わせて居ないのだと思っていた。
だから彼が私と鶴見中尉殿を最後まで見届ける覚悟でいると言った時驚いた。
何も知らないただの子どもだと思っていたあの人は立派な意思を持つ軍人へと成長をしていたのだ。
私がもう遅いといえば遅くないと言いさらにあの人は鶴見中尉殿を信じる自分についてこいと言った。
そんな彼は光のように見えた。
暗闇の中に居た私にとってかすかではあるが確かに私の足元を薄く照らしてくれる石油ランプのような光だった。
しかし私にとっては眩しすぎる光だった。
彼は日を追うごとに成長していく。
しかしその反面少し子どもっぽい部分もある。
そんな純粋でまっすぐな逞しくなっていく彼に私の心は乱されていった。
きっと私は彼に絆されていたのだろう。
だからきっとビール工場でアシリパを追っていたあの日、アシリパの手を離してしまった。
火事の煙で咳き込むあの人をそのままにしておくことが出来なくて初めて鶴見中尉殿の命令に背いたのだ。
この時の私はもう何を信じればいいか分からなくなってしまっていた。
多くの嘘を塗り重ねられ自分が何者なのかも分かっていなかったのだと思う。
でもこの人だけは死なせてはいけない。
そう思った。
それはきっと軍人としての任務ではなくきっと私の強い意思だったのだろう。
そこまで空想した所でふと我に帰り目を開く。
鯉登中尉殿の執務室で感じた空虚な時間。
彼の光に縋っている事。
傷を負った彼を見ていられない自分。
彼に感じている光に縋っていること。
どの点をとってもきっとこの感情は普通じゃない。
私は鯉登中尉殿に上司と部下以上の感情を抱いているのだ。
一度自覚してしまうと駄目だった。
自分の胸の奥底が落ち着かずに心臓が脈打つ。
私は枕の下に隠してあった鯉登中尉殿からの手紙を取り出した。
そこには彼の生活ぶりが書かれていて確かにそこにいるという安心感を保つ事が出来た。
しかし、今はどうだろうか。
彼の筆跡、生活ぶりを見るだけで心が苦しくなり、なぜそこに自分はいないのかという苛立ちが募る。
早く鯉登中尉殿に会いたい。
将校として立派になった姿を見たい。
しかし、こんな状態で彼にどんな顔で合えばいいのだろうか。
陸軍大学校に入学して数ヶ月が経った。
家族や月島の居ない生活は慣無いがそんな弱音を吐いてる場合ではない。
私は自分たちの部下達を守らなければいけない。
正直自分の部下達を北海道に置いていく事をが気がかりで進学を躊躇ったこともあった。
しかし、月島に「そんなんでどうするんですか!」と叱られてしまった。
月島は少し変わっている。
函館で私の右腕になって欲しい、と伝えたときから事あるごとに「貴方は人を導く存在なんですから」と大げさな事を言うのだ。
今の私には鶴見中尉殿のようなカリスマ性を持ち合わせてはいない。
月島は私よりも鶴見中尉殿を見てきたのだから当然分かっているだろう。
だからこそ私にそこまで過度な期待をしている事を不思議に思うし、それと同時に嬉しく思う。
ここまで私に期待してくれているということは私を一人の人間として認めてくれた証拠だろう。
だからこそ私はその期待に応えなくてはならない。
しかし、期待に応えると言っても簡単なことではなかった。
ここには切磋琢磨できる人間はいても馴れ合いをするためにここに来ているのではない。
新任少尉として着任した時に比べて背負っている責任が違う。
それにここにいる人間の誰かが金塊争奪戦の事を知っていて私を失脚させようとする勢力の人間だとしたら。
そう思うと恐ろしく、気を抜く時間など無かった。
いや私はどうなろうと構わんのだ。
しかし、私に何かあれば私は月島や他の部下を誰が守るというのだ。
だから私はここで倒れるわけにはいかないのだ。
とはいえ私も人間だ。
それだけ気を張っていれば疲れる時もある。
ただでさえ気を張っているだけでも体力を消耗するのに学校では軍事演習も当然存在する。
体力の消耗はなかなかのものだった。
今日もくたくたになって自室に戻る。
今日の演習もきつかったな、なんて思いながら部屋に入ろうとした時一通の手紙が届いている事に気がついた。
私に手紙を送ってくる人間は一人しかいない。
月島は定期的に手紙を送ってくれる。
主に私を失脚させようとする者の動向だとか私の所属している歩兵二十七聯隊内の様子の報告だったがそれでも私は嬉しかった。
手紙を通じて月島を感じる事が出来たから。
この唯一緊張を解くことができる部屋で大切な部下の話を聞く事が出来るということが唯一の私の癒やしだったのだ。
私は頬を緩ませながら手紙の封を切る。
案の定手紙の内容は私を失脚させようとする者と旭川の第七師団本部の近況の報告だった。
しかし、今回の手紙は普段の手紙と比べて少し違う部分があった。
〈貴方の執務室の窓を見るとホオノキが満開の花を咲かせています。これを貴方と二人で見れない事をとても口惜しく思います。〉
〈心の底からお慕い申し上げております。〉
「……うん?」
今までの手紙にこんなこと書いてあっただろうか。
私は机の中から今まで月島から貰った手紙を引っ張り出す。
そして届いた手紙たちを今回の手紙と見比べてみた。
最初の頃の手紙は報告の他に書いてある言葉は私への心配や小言のようなものばかり。
母上でもそんな心配しないぞ、と思いながら苦笑しながら手紙を読んでいたものだ。
しかしその小言が減ってきたと思ったら今度はどうだ。
これではまるで…
「…恋文ではないか。」
いやもしかしたら私の勘違いかもしれない。
私は月島が好きだ。
それは恋愛的な感情かは分からないがあいつの聡明で瞬時に正確な判断を出来る月島を尊敬しているし好ましく思っている。
―そもそも嫌いな人間を自分の右腕にするわけないので当たり前といえば当たり前だが…
だから都合良く解釈しているだけなのかもしれない。
だからそのままにしておいた。
しかしそれは勘違いではなかった。
次の手紙も、その次の手紙も手紙の最後はこう締めくくられている。
〈お慕い申し上げております〉
こんなの私の事が好きに決まっている。
最初は己の自意識過剰な部分から来ていると思っていたが、いよいよそんな事言ってられなくなってきた。
月島軍曹は私の事を恋愛対象として好いている。
「……まこち?」
私は誰も居ない虚空にそっと呟いた。
呟かずにはいられなかった。
そしてその手紙を読み返しながら悶々と苦悩する日々が続いた。
月島のことは好きだ。
だが、それは部下として好ましく思っているのであって恋愛感情があるのか。
この世界にいて男色は別に珍しい事ではない。
だから私は月島に恋愛感情を向けられる事を不快に思うとかそのような事は決して無い。
だが問題は自分がどうしたいかであった。
月島は優秀な部下だ。
しかし月島の頬が緩むと心が暖かくなるし月島が握り飯をうまそうに食べているのを見ると幸せを感じる。
そして殴られた私を見た時の月島の苦しそうな表情を見るとこちらの方が胸が張り裂けそうになる。
「将校さん、それはきっと恋ですよ。」
「…は?」
甘味処の娘にそう感情を吐露したときに彼女はそう言った。
何故この事を彼女に言ったのかは分からない。
きっと誰にも頼れない現状でこの感情を一人で抱えるのは限界だったのかもしれない。
世間話程度でいい。
これを誰かと共有したかったのだ。
私は食べていた団子と彼女を交互に見る。
彼女は私に会釈をして店の奥へ引っ込んで行ってしまった。
その後食べた団子もお茶は何の味もしなかった。
そんな息抜きなんて何も出来なかった甘味処を後にして東京の仮の住まいに戻りながら私は考える。
私にとって月島はどんな存在なのか。
月島は私が新任少尉として着任した時がら傍にいてくれた人間だ。
最初の頃こそ鶴見中尉殿の命令で小樽や夕張などに赴く事が多かったが、私が鶴見中尉殿の側で共に行動するようになってくれてからは常に一緒に居てくれた事が多い…と思う。
樺太では私の幼稚な我儘に付き合ってくれていたし私が重症の傷を負ったときも看護婦でもないのに私の世話をしてくれた。
本来補佐官は上官の職務の補佐をするために存在するのであって、本来そこまで世話をする必要はない。
それでも月島は側にいてくれた。
だからこの男を選んだ。
有能な男はこの日本にごまんといる。
でも自分の右腕として適任なのは月島しかいないと思った。
私にとって完全に背中を預けることの出来る男は月島しかいない。
そう思って函館の海であの男を陸軍に引き戻した。
しかし本当にそれだけだったのだろうか。
月島の「有能で冷静な機械のような部下」という私の印象が大きく崩れたのは月島がアイヌのコタンで谷垣を追い詰めた時だ。
殺さないように命令する私に「自分の仕事をするしかない。」と絞り出すような声で言う月島は私の知っている冷静な月島軍曹ではなかった。
私の知る月島は冷静で任務に私情を持ち込む人間ではない。
だが月島の言動は彼の強さである私情を持ち込まない冷静さを持ち合わせて居なかった。
その時初めて私はこの男の人間らしい部分に触れたような気がする。
月島も私の部下である前に一人の人間なのだと自覚するようになった。
よく考えれば私は既にその時から月島を一人の部下としてでなく一人の人間として意識していたのかもしれない。
思い返せば函館行きの列車で彼を引き止めた時もきっと私は部下としてではなく一人の人間として見ていた。
月島は私の補佐をする前は元々鶴見中尉殿に仕えていたのだから鶴見中尉の元へ行く月島を止める資格など私にはない。
しかし、私は月島の腕を掴み彼を引き止めた。
月島に死んでほしくなかった。
その気持には有能な部下を失ってしまうから、という軍人らしい動機はなくて月島基という一人の人間を失う事が怖かったからなのだろう。
そして金塊争奪戦が終わっても月島を求めて右腕として側に置いたのは月島と共に生きたいと思ってしまったからだ。
そこまで思いを巡らせて私は月島に部下以上の感情を持ち合わせている事に気づいてしまった。
これが恋愛感情なのかは分からないがいずれにせよ戻れない所まで来てしまった事は確かだ。
―そして月島もきっと
私の思い違いでなければ月島もきっと同じ気持ちなはずだ。
北海道に戻ったらこの気持ちを伝えて月島の気持ちを確認したい。
月島は今何をしているのだろうか。
そう思うも月島とは陸軍大学校を卒業するまで会う事が出来ない。
私は憎らしいほどに快晴な空を見上げることしか出来なかった。
鯉登中尉殿が北海道を離れて数年、鯉登中尉殿は無事に陸軍大学校を卒業して北海道の地に戻ってきた。
彼を迎えるために小樽の港へ向かうと、そこには大変立派な将校が立っていた。
もちろん、鯉登中尉殿だ。
「帰ったぞ、月島ぁ!」
「はい。長旅お疲れ様でした。」
「どうだ?おいも鶴見中尉殿のような立派な軍人になれただろうか。」
「はい。大変立派になられました。ただ―」
貴方は鶴見中尉殿じゃない。
あの方のにはなくて貴方だけが持っている良い所もたくさんある。
だからあの方と比較するのはおやめなさい。
喉の奥から出てきそうになった言葉を私はぐっと飲み込んだ。
そんな事言ったら不貞腐れるに決まっている。
彼の中で鶴見中尉殿の存在は唯一無二であり彼の目標なのだから。
「ただ…なんだ?」
「いいえ、なんでもありません。さあ、行きましょう。旭川行きの列車が出てしまいます?」
「ん?そうか。行くぞ月島!」
そう言い、鯉登中尉殿は歩き始める。
この人、駅の方向分かっているんだろうか、なんて心配しながら彼の後を追う。
鯉登中尉殿に見つからないようにちらりと彼を盗み見る。
随分立派になられたし心なしか背も少し伸びたような気がする。
それにその凛々しい姿。
北海道を発つ前の中尉とは纏っている雰囲気は別物だった。
自分の上官がこんなに立派になられて部下として鼻が高い。
しかし、それと同時に鯉登中尉殿に劣情に近いような感情を持ち合わせているのも確かだった。
ドクドクと鳴る心臓の鼓動が煩い。
今まで耳打ちしてきた時は何もそんな事は思わなかったのに。
そんなこと思いながら私と鯉登中尉殿は旭川へ向かう列車へ乗り込んだ。
列車の中では何を話すでもなくゆっくりとした時間が流れる。
このまま少し眠ってしまおうか。
そんな時鯉登中尉が口を開いた。
「お前に伝えたい事がある。」
「…なんです?」
私がそう問うと鯉登中尉は私の方を向き直った。
「お前は私のことをどう思っている?」
「は?何を言っているんです?貴方のことを上官として誇らしく思いますよ。」
私がそう言うと彼はムッとしてこちらを見た。
その姿はまるで駄々をこねる子どものようで彼にもそんな純粋な部分が残っているんだと嬉しく思う。
「月島、あのな。私はお前の事を好いている。多分それは部下としてではなく一人の人間としてだ。」
「…は」
私は心臓が止まるかと思った。
中尉が私の事を…?
いままでそんな素振りを見せた事無かったのに。
「それが恋愛感情がはわからん。しかし、お前に部下以上の感情を持っている。」
お前はどうだ?と問いかける中尉の視線が痛くて私は目を逸らしてしまった。
きっと今の私の顔は真っ赤なのだろう。
好いている男にこんなまっすぐな告白をされて冷静に居られる人間がいるのだろうか。
私は自分の表情が…感情が鯉登中尉殿に悟られないように軍帽を深くかぶり直した。
「鯉登中尉殿、大変申し訳ありません。私は貴方の期待に応えることは…」
「じゃあ、あの手紙はなんだ。」
「…手紙?」
「今まで報告しか書いてな会った手紙に突然軍務に関係ない出来事を書いて”あなたと一緒に見たい”なんて恋文もいいところではないか」
鯉登中尉殿の言葉に私はなんと返せばいいか分からなかった。
手紙を書いた時の事を思い出してみる。
彼に手紙に何を書いたかまでは覚えていないが、書いている時はどこかふわふわしていて手紙を通して鯉登中尉殿と繋がって居られるように感じての瞬間がたまらなく愛おしかった事を覚えている。
まるで入隊した頃に”あの子”からの手紙を待っていた時のようだ。
そう、鯉登中尉殿に持っている感情はあの子に向けていた感情とよく似ているのだ。
そして中尉殿も同じ気持ちだなんて夢見たいだった。
しかし、私は中尉殿から与えられ過ぎている。
函館行きの列車の中では私を引き留めることでこの命を救ってもらい、函館湾では自分の存在意義を与えられて救われてきた。
その上彼から上官と部下を超えた愛情を注いでもらうだなんて罰が当たってしまいそうだ。
「月島。」
「鯉登中尉殿の言葉はとても嬉しいです。本当に。ただ、私は…」
そう言葉を濁すことしか私には出来なかった。
鯉登中尉殿はそうか、と言葉を漏らすと再び口を閉ざしてしまった。
列車内にはゴトゴトと列車が揺れる音だけが響く。
さっきまではあんなに居心地が良い揺れだったのに今はどうしてこんなにもこの揺れの居心地が悪いのだろうか。
彼が陸軍大学校から戻ってきてから半年、鯉登中尉殿は大尉に昇進し、中隊長になるまでに成長していた。
私はその事を大変喜ばしく思っていたが、それに比例するように仕事は増える。
私も鯉登大尉殿を支えるために自然と書類の量が増えていった。
そしてその他に困っている事がもうひとつ。
「大尉殿、こちらの書類なのですが…」
「ん?」
鯉登大尉殿は強く私の手を引っ張り、私を自身の方に引き寄せる。
そう、距離が近すぎるのだ。
酷い時は私の指に自分の指を絡めてくるのだから気が気じゃない。
「…大尉殿、規律が乱れます。」
「それはわいが素直にならんからじゃろ。」
「そんな事…」
そんな事ありません、ときっぱり言えば良かったのに私は最後まで言葉を紡ぐことが出来なかった。
かつての自分の感情を殺して任務を遂行していた自分はどこに行ってしまったのだろうか。
否、他の事は冷静な判断を下す事が出来る。
しかしこの人に事になるとてんで駄目なのだ。
あの瞳に見つめられると自分の気持ちを偽ることなんて出来なくなってしまう。
「月島?」
大尉殿は私の方をじっと見つめるが、私は目を逸らしてしまう。
函館湾で救ってくれた時はあんなに頼もしいと思っていた視線が今はとても苦しかった。
「やめてください。私にそんな資格は…」
「わいはまたそれか…」
鯉登大尉殿だふう、とため息をついた。
そう、もう私に失望してしまえばいいのだ。
そうしてくれれば私達はただの右腕に戻れる。
しかし、そんな私の願いをよそに彼はこう続けた。
「お前の資格がどうこうではなく私はお前の気持ちを聞いている。どうなんだ月島。」
そんな瞳を見ているとまた自分の顔が真っ赤になるのを感じて私は軍帽を被り直す。
今まではそうして自分の感情を切り替えてきた。でも今回はそれは私の顔を掴んだ大尉の手によって阻まれてしまう。
「月島、視線を逸らすな。」
そう射抜かれるような視線で私の顔を覗き込む。
軍人になって様々な経験を重ねてきたが、こんなに行きた心地がしなかった。
「そんな顔をしてまだしらを切るのか、月島。」
「そ、それは…」
どうなんだ、と聞かれて私はもうどこにも逃げ場など無いと察し、観念して白状する。
「そんなの、好きに決まっているじゃないですか…」
ただ好きと伝えればいいだけなのに決壊したダムのように言葉が溢れ出してくる。
今まではあんなに言葉を紡ぐのが苦しかったというのに。
「…ッ…分かってくださいましたか?」
呼吸が整ったところで鯉登大尉殿の方を見るとそこには顔を真赤にした大尉がそこにいた。
そんな彼が愛おしくてくすり、と笑ってしまう。
「わ、私達は両思いということか?」
「ええ、そうですよ。大尉殿、お慕いしております。
私がそう言うと大尉殿は月島、とひとつ言葉を漏らして顔に近づいてくる。
かつて鶴見中尉殿の前で耳打ちしてきた時とは違う欲を孕んだような瞳で。
「大尉、いけません。規律が乱れます。」
「今は誰もおらん。月島、今は私だけを見ていろ。
そう言われて私は何も言えなくなってしまった。
私は覚悟を決めてそっと瞳を閉じる。
しばらくすると唇に柔らかいものが押し付けられる。
きっと大尉殿の唇だ。
彼を感じる度に脳が溶けていく感覚がする。
私はどうすることも出来ずにこの感覚に身を預けることしか出来なかった。
鯉登大尉殿と結ばれてからしばらく年月が経った。
鯉登大尉から大尉から大佐となり現在は聯隊長の職務を全うしている。
一方の私も軍曹から曹長になり傍らで大佐殿の右腕として彼を支える事が出来ている…と思う。
だが、現在は後備役に編入となっており、それも後2年程で期限を迎えて鯉登大佐の右腕としての役目を終えることとなる。
後備役に編入となった私に出来る事は少ないかもしれないが、私に出来る事があるのなら例え命を落とすことになっても職務を全うする覚悟だ。
そんな私たちだが、お互いの関係は続いていた。
普段は変わらずに軍務をこなし時折鯉登大佐殿の邸宅に呼ばれて逢瀬を重ねる日々。
大佐が私を呼び出すのはいつも突然でこっちの予定も知らないで…と辟易する時があるが、私はそんな生活が気に入っていた。
頻度は減ったものの、大佐殿が私にそうやって甘えるように無理を押し付けるのが鶴見中尉殿に仕えていた時と変わっていなくて彼のそんな未だに残っていることにを覚えていた。
変わらないものもあれば変わったこともある。
鯉登大佐殿が中佐であった時、鯉登大佐は結婚をした。
彼が結婚したことに否定的な感情を持つことは無い。
何故なら結婚を勧めたのはこの私だからだ。
別に彼に冷めたとか自分が中佐殿に相応しい人間ではないとかそういう理由ではない。
大佐という立場上、周囲の人間から妻がいないのは不自然ではないかと考えたからだ。
鯉登中佐殿は最初は首を縦に振って下さらなかった。
自分はお前と将来添い遂げる覚悟だから嫁など取らないと。
その言葉がどんなに嬉しかったことか。
だからと言って私は彼の主張に対して首を縦に振ることは出来なかった。
このご時世結婚していない人間は悪い意味で目立つ。
だからこんなことで中佐殿に損をしてほしくないのだ。
しかし、鯉登中佐殿も頑固なお方だ。
なかなか首を縦に振ってくれない。
正直これには困った。
どうしていつも私の言う事を聞いてくれないのか。
そこで私は最終手段に出た。
押してダメなら引いてみろということで私は軍務以外で鯉登中佐殿から距離を取った。
最初の頃こそ強気な鯉登大佐だったが、日が経つごとに元気が無くなっていった。
正直中佐殿には悪いと思ったがこれも彼のためだと心を鬼にして私達はただの上官と部下でありそれ以外の何物ではないという態度でしか接することは無かった。
正直長期戦になると思っていたが、意外なことに中佐殿は1周間ほどで根を上げることになる。
「中佐殿、こちら頼まれていた書…ッ」
鯉登中佐殿に書類を届けに行ったときだった。
鯉登忠佐殿が私の書類を持っていた手をぐい、と引っ張り私を抱き寄せる。
今までこのように強引に抱き寄せられたことは無いわけではないが執務室でこんなことをされたのは初めてだった。
「鯉登中佐殿!何してるんですか!誰かに見つかったら…」
「今は誰もおらん…」
そう言うと中佐殿は私を抱きしめる手にぎゅう、と力を込める。
どうやらこの状況が相当堪えていたらしい。
「なぁ、月島ぁん…ないごておいをさけるん…?」
「あなたが俺の言うこと聞かないからですよ。」
そう言うと鯉登忠佐殿は黙り込んでしまった。
「なんども言っているでしょう。このご時世結婚していない人間は悪目立ちします。それで変な噂でも立てられたらどうするんです?」
「わかっちょる。やっせん…」
「なんです?思うことがあるなら全部言ってください。」
「おいはわいとの関係が壊れてしまいそうでそれが怖い…」
「は?」
私は思わず耳を疑った。
私たちの関係が壊れる?
そんなわけないだろう。
鯉登忠佐殿が俺をどう思っているかは分からないが、中佐殿にどんなに拒絶されようとも俺の心が変わる事は決してない。
それだけ彼を愛しているのだ。
「鯉登中佐殿、私は貴方をお慕いしております。それは例えあなたが結婚しても変わりませんよ。例え貴方に拒絶されようとも貴方と苦楽を共にする覚悟でいます。」
信じて頂けませんか?とそう尋ねると鯉登中佐殿はブンブンと首を振る。
こうして中佐殿は結婚することに消極的ではあるものの納得してくださり無事結婚することとなったのだ。
そして鯉登中佐は結婚の数か月後に大佐となり聯隊長の職務を与えられることとなる。
最初は結婚に否定的だった大佐であったが元々愛情深い方であったから二人は隊の中では誰もが知るおしどり夫婦と呼ばれるようになった。
そしてその翌年、鯉登大佐殿に娘がお生まれになった。
鯉登大佐殿の喜びは相当なもので、会席がある度にに部下はもちろん上官にも自慢している。
現に私もお嬢様がお生まれになってから少なくとも半年は毎日のように彼の自慢話を聞かされたものだ。
しかし、鯉登大佐殿一家の幸せはそう長くは続かなかった。
鯉登大佐殿と2歳になったばかりのお嬢様を遺して奥様は他界されてしまったのだ。
きっかけはたまたまだった。
東京のご実家に帰られていた時、関東で大災害が起こり、奥様はそれに巻き込まれたのだ。
そして東京に里帰りをするように勧めたのは他の誰でもない鯉登大佐殿だった。
鯉登大佐殿は女中にお嬢様を預けて一人で東京へ向かった。
その話を聞いたとき私は気が気ではなかった。
鯉登大佐殿の心中を考えると胸が張り裂けそうだったし邸宅に一人残されているお嬢様も気がかりだった。
東京はまるで戦時中かとでもいうように電話も郵便も遮断されていて鯉登大佐殿に連絡を取ることもできない。
ならばせめてお嬢様だけでもと思い、私は可能な限り鯉登大佐の邸宅へ通った。
もちろん邸宅には女中もいるが彼女たちも忙しく、あまりお嬢様に構う余裕がない。
つまり彼女に愛情を注いであげる事の出来る人間がいなかった。
私は彼女の親ではないから私では駄目なことは分かっている。
でも俺が今この家族にできることはこの程度しかない。
それがあの時函館湾で救ってもらった時の恩返しになると思ったのだ。
そんな日々が半年ほど続いた。
そしてお嬢様が三歳の誕生日を迎えたころ、鯉登大佐殿が東京から帰ってきた。
新聞によれば東京近郊も復興が始まっているとのことなので奥様の安否が分かって戻ってきたのだろうと考えていた。
港に迎えに行ったとき鯉登大佐殿の表情は大変暗いものだった。
もしかしたら奥様はもう手遅れだったのかもしれない。
そう推測したのだが現実は違った。
遺体すら見つからなかったのだ。
「本来は見つかるまで探していたかったんだがな。そんな長い時間軍務を放っておくわけにもいかないだろう。」
そういう鯉登大佐殿の瞳には微塵も光を感じられずに覇気も感じられなかった。
こんな彼を見たのは初めてだった。
「仕事の方はご心配にならないでください。まずはゆっくり休みましょう。」
私はそう言い大佐と一緒に旭川行きの列車に乗り込んだ。
列車に揺られながらちらり、と鯉登大佐殿の方を見る。
大佐殿は窓枠に手をつきずっと遠くを見ていた。
私はこれからどうなるのだろうかと不安を募らせることしかできなかった。
邸宅に戻ると縁側で絵を描かれていたお嬢様が鯉登大佐殿に気が付いてこちらへ駆け寄ってくる。
おとうしゃま、おかえりなさい!と笑顔で抱き着くお嬢様をただいま、と抱きしめると大佐殿は自室に戻られてしまった。
大佐殿の後を追いかけようとするお嬢様を引き留める。
親子の時間を裂く資格など俺に無いことは分かっている。
でも今の大佐殿には心を整理する時間が必要だ。
「つきちま、おとうしゃまは?」
「お父様は長旅で疲れていらっしゃるみたいなのです。今日は月島と一緒に寝ましょう。」
「えほん、よんでくれる?」
「ええ、いいですよ。行きましょうか。」
そう言い私はお嬢様の手を引き一緒に寝室に向かう。
しばらく本を読んでやるとお嬢様はすぐ眠りについてしまった。
私は鯉登大佐殿が心配でお嬢様の部屋を出る。
鯉登大佐殿の部屋を覗くと大佐殿は縁側で酒を飲んでいた。
「鯉登大佐殿、失礼します。」
「…なんだ。まだいたのか。」
「ええ、お嬢様に本を読むようにせがまれまして。」
「随分仲良くなったんだな。」
「大佐殿の愛情にはかないませんよ。」
私がそういうと鯉登大佐殿はふふっと笑い、横をぽんぽん、と叩く。
笑顔を作る余裕があるみたいで安堵する。
「そこに座れ。久々にお前も一杯どうだ。」
「わかりました。失礼します。」
私は鯉登大佐殿の横に座り、少量の酒を頂く。
ここしばらくは軍務と邸宅の往復で酒なんて飲んでいなかったからか食道に胃袋に熱いものが溶けていく感覚を久しぶりに味わった。
「うまいだろう。」
「ええ、とても。」
しばらく沈黙が続く。
もともと私は話す事が得意なわけでもないし、鯉登大佐殿も色々と混乱しているだろうから捲し立てるように大佐殿に話しかけるのは得策ではないと考えた。
だから彼からの言葉を待つことにしたのだ。
しばらくしてそういえば、と鯉登大佐殿が口を開いた。
「女中から聞いた。あの子が世話になったらしいな。」
「いえ、私は何も…」
「私が留守の間ずっとあの子の側に居てくれたと聞いた。」
「それくらいしか私にできることはありませんから。」
「うん、月島あいあと。」
そう言うと鯉登大佐殿は私を抱き寄せた。
「家内の話を聞いてくれるか。」
「私でよければ。」
「彼女は知ってたんだ。おいと月島のこと。」
「は?」
「見合いの席で二人になった時伝えた。夫婦になるのであれば誠実でありたいとおもったから。」
鯉登大佐殿の話を聞いて俺は脱力した。
奥様が俺たちの仲を知っていた?
邸宅に来る自分をどんな目で見ていたのだろうと恥ずかしくなった。
「それで、奥様はそれを了承してくれたと…?」
「してくれてなかったら一緒になるわけあるか。どちらかといえば夫婦というより友人に近かったがな…あの子が生まれてからも同じじゃった彼女はいつもおいと月島のことを応援してくれる大切な友人だったんじゃ。でも、死んでしもうた。」
そう言い鯉登大佐殿は私をきつく抱きしめる。
私は優しく彼の背中をさすってやった。
この人といいお嬢様といい、人に甘えるのは得意なのに奥深くの弱みを晒すのは凄く下手なのだ。
本当に困ったお方だ。
「大佐、今は私しかいません。泣きたいなら泣いてください。」
「何いっちょる。薩摩男児は泣いたりせん。」
「はいはい。わかりましたよ。」
そう言い優しく鯉登大佐殿の頭を優しく撫でると猫が擦り寄ってくるように私の身体に頭を擦り付ける。
そうだ、忘れていた。
今は聯隊長として振舞っているがこの人は本当は甘えんぼうで寂しがりやなのだ。
「月島、お前だけは…」
「わかっております。生涯あなたの側から離れませんよ。」
私がそう言うとあいがと、短く言葉を残すと鯉登大佐殿の顔は近づいてくる。
これはたぶん接吻されるのだろう。
私は彼に身を任せてそのまま目を瞑ろうとしたときぴたぴた、と足音が近づく音が聞こえてきた。
私は慌てて鯉登大佐殿を引きはがす。
「キエ…月島?」
「誰か来ます。離れてください。」
「私は別に構わないが…」
「私が困るんです!ここに来にくくなるでしょう…」
なんて言いながら鯉登大佐殿の身体を引き剝がしたときスス、と襖が開く音がした。
俺が慌てて扉の法を見るとそこにはお嬢様がこっそりとこちらを見ていた。
「お嬢様、どうされました?」
私は慌ててお嬢様に駆け寄る。
一方の鯉登大佐殿はぽかん、と口をあけていた。
「おきたら、つきちまもおとうしゃまもいない…」
そう言いながら人形を抱きしめるお嬢様を抱き上げ鯉登大佐殿の元に連れていく。
大佐は依然とぽかんとしていた。
「なんです?そんなぽかんとして」
「いや、なんだかお前の方が父親みたいだな、と思って。」