緊張の糸がほぐれたらしく、所は深い眠りに就いていた。あれほど恐れていたデルウハの横でである。若い寝顔を見やりながら、デルウハは目を開けて所の様子を見ていた。若さ故に奈落の底に落ちるような眠りを経験したことがある。所も、今は何をしても起きないだろうと思われた。窒息でもさせれば別だが、少々ちょっかいを掛けた所で目覚めまい。
 若い寝顔は、当然のごとくデルウハの好みに合った。既に初老を迎えていた所長の顔が好みだったのだから、若ければ多少印象は変わるかと思ったが大まかには変わらず、息を切らしてデルウハを追い掛けて来たのが九日ほど前である。人込みで珍しくエスペラント語を聞いたと思えば、若い所が駆け寄って来た。面影はあった。何よりエスペラント語で少々の訛りのある呼び方は、デルウハの耳に残っていた。その声を久しぶりに聞いたと思って見やれば、所はまず顔を明るくさせた。
 「デルウハ殿…ですよね」
 所は夜の中で眩しい光を放つように笑った。デルウハにはそう見えたのだ。それ以降だ、手に入れようと躍起になったのは。ようやく手に入れた気がして、予定よりも早かったと所の若い髪を撫でる。茶色に近い髪は染めた訳でもなく行儀よく整えられていて、短髪だ。髪型に無頓着ではないことから、最低限以上の水準の生活を送っているようである。もし苦学生であれば多少水準を引き上げてやろうかとも思ったが、その心配は無さそうだ。すう、すうと寝息が聞こえる。デルウハの指は所の額の生え際から、頬までつうとなぞっていく。所は反応を示さないので、よほど昨夜は眠れなかったのだろうか。あるいは性交渉の疲労からか。性器の挿入は無かったものの、かなりデルウハの好きなように肉体を嬲ったので疲労はやむなしであろう。所はやはり最初は怖がっているようであったが、最後にはデルウハにしがみついて少しだけ甘く喘いだ。この若い肉体を、完全に身も心も自分の手に落とすのには時間が掛かる。デルウハは額にキスした。当然所は起きない。その代わりにもぞもぞと体が動き始めた。夢を見ているようである。口が開くと、動いて名前を呼んだ。
 「ん…はる、くん」
 
 誰?
 デルウハもまだ完全に所の交友関係を把握している訳ではない。大学に非関係者が入るのには許可が必要だ。セキュリティは甘いと思われるが、デルウハが守衛の目をごまかすのにはあまりにも目立つ。所の口から出たはる…春? 原? 誰の事なのだろう。デルウハが傾聴していると、所はいつの間にか眉を顰めていた。
 「だめ、だよ…机の上は…乗ったら…ああ…だから、だめ、だって…」
 魘されているようである。恋人の名を呼ぶだとかそういう類の声掛けではない。総括すれば所ははるに、机に乗るな、拭いてもダメだと注意しているようである。何故だとデルウハは思った。大学生にもなって、そういった足癖の悪い友人がいるのだろうか。所の事だから面倒見が良く押し付けられたのか、人がいいから自ら関わっているのか。懸念は尽きぬが今から入学手続きをしてもデルウハが所の学友になるのは不可能である。寝言から推察する他は無い。
 「はるくん…それ、ちがうとおもう…」
 所は魘されている。彼は普段からはるの奇行に悩んでいるのだろうか。え、大学生にもなって? デルウハの疑問はあまりにも当然であるが、年齢と行動がそぐわぬ例など腐るほどある。だから所が魘されているのなら遠巻きに遠ざける方法を取るべきか、デルウハは判断のしようが無かった。春は、所の友人である。学部は違うが、大学の端で休憩していた所に声を掛けてきた同学年の学生だ。農学部に所属している少々の奇人である。過去に春を気に食わないグループと講義が一緒になった時があった。心理学の講義であったが、春が出席の返答をしたり、疑問に手を挙げたりするとわざと騒いで邪魔をする男女が六人程いたのだ。教授も注意はするものの、春の行動だけに騒ぐのだからあまり強くは伝えられずにいた。そこで春が取った行動が、机の上に乗ったのだ。所はその時友人だったから、注目の的になった春を必死に窘めた。だが春は注目を集めれば集める程、水を得た魚のように生き生きとして出席している事と、その時三つほど溜まっていた質問を教授にぶつけたのだった。
 春の行動はとにかく目立った。顔立ちが美しいから、余計に目立った。所はそんな彼を窘めたり、フォローして回る癖があったので今夢に見ているのだが、何故デルウハの横でこの夢なのかは所にも分からなかった。
 「うーん…」
 所の寝言が途切れた。もしかして目覚めるかと思い、デルウハはぱくりと自分の口で所の口を覆う。息苦しくなったのか、所は目を覚ました。
 「うぁ…はるく………あれ…?」
 デルウハの口はもう離れていた。桃色の髪の隣人の情報が、所の頭に入るまで少々の時間を要したようである。所は唐突に目を覚ました。
 「デルウハ殿…!?」
 「起きたか。もう六時だぞ」
 「え、六時!?」
 所は急いで体を起こす。だがデルウハの手がその肩に置かれ、ベッドに引き戻すように押し込んできた。
 「今日は土曜日だぞ。講義があるのか、それともアルバイトか?」
 「あ…そうでした。どちらも無いので…はあ…」
 所は勢い良くベッドから起き上がろうとしたものの、すぐに脱力して戻っていく。だがデルウハの隣は居心地が悪そうだ。昨日に覚悟は決まっていたはずであるが、まだデルウハに愛されているという実感が湧かずにどうしたらよいものかと思案しているようである。そのデルウハの愛情も簡単な原理から来るものだが、所は一般的な情をデルウハが持っていると勘違いしているようだった。
 「なんで逃げる」
 「いえ、ちょっと気恥ずかしくて。…朝食は召し上がらないのですか」
 「食べる」
 それはそうである。だがデルウハは所を引き寄せると、まだ起き上がる気は無いようだった。所が居心地の悪い中でおずおずとデルウハの胸元に近寄る。四十と思えぬ肌つやが目に入った。デルウハも十分に若く、前世で出会ったときかのようである。だから余計に恐怖やらが湧くのだがーーー。
 「はるって誰だ」
 「え」
 所は驚いた。だがもしかして、大学の状況をデルウハが調べたのかと顔面蒼白になる。その変化にデルウハは眉を顰めた。まさか想い人かという可能性は残されている。その一方で所は、大丈夫だと冷静に思い返した。部外者の立ち入りは制限されている、デルウハが知る筈がないのだ。春の助言で所が断る方向で進めたなど、デルウハにバレてしまいたくは無かった。だから努めて冷静に言う。
 「何か調べたのですか?」
 「寝言だったな。よっぽど大事か?」
 「ええ…大事な友人です」
 所の脳裏には咄嗟に吉永の顔が思い浮かぶ。彼そっくりの友人は、所の事もデルウハの事もおそらくは覚えていまい。だがそれでいいと所は思っていた。一方的に自分が吉永への贖罪で近付いていることなど、天真爛漫な春に知られたくはないし、知らせるつもりもない。春は春として所の今の友人として居て欲しいのだ。それが所のエゴである事など百も承知の上である。だがその複雑な思いをデルウハに告げる気は無かった。吉永の記憶が、万が一にでもデルウハと出会ったことで蘇ったのならば、所はおそらく立ち直れないであろうから。だから友人だと真実を告げるが、デルウハはそのころころと変わる所の表情に、友人という言葉に嘘はないものの何か事情があると察したらしい。
 「俺は会えないのか?」
 「え…なんでですか」
 「なんでって、見たいからだ。恋人の友人を」
 「い、いや。今は休みですし、そもそも学部が違う友人なので…連絡先は知ってますけど、殆ど使いませんし、大学でしか会わなくてですね」
 人は隠したい情報がある時に、多くの情報を紛れ込ませる癖がある。事情は語らずに状況だけ語り尽くした所に、デルウハの疑いは強まるばかりだ。ここまでして所が会わせたくない友人とやらは、将来的にデルウハの障害となる可能性がある。その危険性だけは本能的に感じ取ったものだが、春はおそらくデルウハの味方にはなりえないのだろう。デルウハはこれ以上押した所で、所がますます隠ぺいしようとするだけだと感じ取る。だから一旦は引いた。
 「分かった。じゃあ機会があれば紹介してくれ」
 「あ、はい…」
 拍子抜けして安堵の息を吐く所を見て、デルウハは特殊な事情を確信する。
 「じゃあ今日は、あんたの家に行こう」
 「え?」
 「恋人の家に行っちゃいけないのか?」
 「え、いえ、そうではないですが…狭いですし壁も薄いですし…」
 「なんだ、そこで抱かれたいのか」
 所は青ざめと紅潮が同時に来たような顔で、ふるふると首を横に振った。
 
 朝食はまたルームサービスにて、その後着替えた二人は出掛けることにする。デルウハはフロントにキーを預けると、所の家に向かうのだった。電車を乗り継ぐために最寄りの駅に向かった時である。
 「しげ君~~~!」
 春の声がした。所は思わず驚いて周囲を見渡すと、右斜め前方から春が両手を広げて走り寄って来るではないか! 慌てて所も手を広げて駆け寄った春を抱きとめた。いつもの春の挨拶方法であるから、慣れていた。寂しかったのか久しぶりに会ったり、機嫌が良かったりすると春はこうして所に抱き着いてくる。所は仕方ないなと抱き留めながら、突き刺すような視線を背に感じた。本日は、デルウハが横にいるのだった。忘れていた。
 「休日に会えるなんて偶然だね!」
 「あ、うん。偶然だね…」
 「しげ君どかした? 元気ないね」
 「ああ、どうかなぁ元気だよ?」
 突き刺す視線が背に痛い。視線で殺される事ってあるんだなあと、所は恐怖の中で妙に感心していた。春はどうやらデルウハに気付いたらしく、ぱっと所から離れると首を傾げる。そうだ、と所は思った。デルウハを見て春が吉永だった頃を思い出したらと先程まで懸念していたのだ。その懸念がまさかこんな出会い頭の事故のように演出されると思わなかったが、とにかく所はデルウハを確認し、春を見た。
 だが懸念をよそに、春はいつも通りのようである。
 「だあれ? しげ君の知り合い?」
 「えっと」
 「恋人です」
 デルウハがにこやかに、先程の殺気を押し込んだにこやかさでスイス語で話す。だが単語だけでも春には理解出来なかったようで、首を傾げた。
 「すみません。えっと…もう一度お願いしても?」
 春は咄嗟に英語に切り替えて来た。先程の天真爛漫な行動通りに、知能が低いわけではないようだとデルウハは認識を改める。春に、所は意を決したように言った。
 「あの、驚かないでね。その…恋人なんだ」
 「へーそうなんだね」
 春はそこまで興味が無いのか、デルウハに近付いて握手を求めた。無論英語である。臆することなく英語である。
 「所くんの友人の春です。握手をお願いしても?」
 デルウハは所が通訳する前に、その手を掴んだ。春の行動に悪意があるかは分からないが、少なくとも敵意は感じられなかったのである。ただにこにことして無害そうだが、何も考えていないタイプではない。少々厄介だが、今の春はデルウハを警戒していないようなので、笑顔で握手した。そして少々不慣れであるが英語で自己紹介する。
 「ええ、よろしく。アンドレア・デ=ルーハです。デルウハとお呼びください」
 「デルウハさんですね、春と呼んでください。よろしくお願いします」
 所は何故か不安であった。所の経験上、春は何も考えていない気がするが、デルウハは幾分か何かを企んでいる気がするのだ。完全に信用が置けないのは前世から同じである。というよりも、吉永とデルウハを引き合わせてよかったのか…という懸念に繋がっていると気付いた。春がどうかそのままであれ、そんな勝手な願いを思いながら、春と別れて所達はアパートに向かうのだった。?
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