所の目が覚めたのは明け方の四時だった。デルウハの宿泊先であるホテルの一室である。
 昨夜のこと。目をつぶっていて夢だと思う事にしようと所は努めた。だがデルウハには見通されており、目を開けろと何度も言葉での勧告を受けることになる。渋々と所が目を開けると、桃色の髪に翠の瞳が目に入った。彼が、自分との距離が近いところで息を切らしているのが分かった。いたたまれない気持ちというのか、所は目をつぶってしまいたくなる。デルウハは、これまでの二十余年の生では一度も感じ得ないであろう恐怖や、畏敬を念を抱いた相手である。今の世では初対面、前世では深いつながりを持った相手である。生まれ変わって地獄で会う前に、人間としての生を受けて会うとは考えられなかったのだが、それでも会えたのだから良かった。今世でも元気にやっているのであれば嬉しい。古い馴染みに久々に会えた喜びをかみしめていたのに、彼は所には違う感情を抱いていたと今知ったのだ。
 以前に出会った時には所は六十を手前にしていて、デルウハは三十代前半だ。
 「二十年前なら抱いていた」
 そう告げられた所は、今二十代前半である。対してデルウハは四十を迎えている。肉体関係を持つのには十分な年齢ではあった。だから所は押し切られるような形で、デルウハに抱かれた。同意の上とするのには少々厄介な前世の記憶を伴って、逆らいきれなかった。翠の瞳を見つめながら、自分の体が丁寧に丁重にほぐされていくのを他人事のように眺めながら、快感は無かった。中を抉られるように性器が動くたびに、痛みというのか質量が行き来する感覚だけが分かった。ちりちりと小さく排泄を促されるような感覚はあったものの、けして気持ちがいいとは言えず、所はデルウハの分厚い肉体に手を掛けて、彼が動きやすいような体勢を取るのが精いっぱいだった。そうして挿入物があった異様な体調と、処理しきれぬ感情に戸惑っているうちに、所は自分がいつの間にか汗をびっしょりとかいているのが分かった。シャワーを浴びるぞとだけデルウハが言う。彼が先なんだろうな、と所は自然と思っていたがデルウハは彼をいとも簡単に抱え上げたのだ。
 「え、あ、」
 「なんだ。歩けるのか」
 「いえ、まだちょっと…」
 「じゃあ入るぞ」
 まさかの同伴であるとは思わなかった。丁寧に泡で包まれて流されていく。その優しさが何故だか所の恐怖を少しだけ煽った。デルウハの優しさに何か裏があるのではないか、そう考えるのは前世の彼が悪魔であったからだ。だがその意にそぐわず、所の若い肌が水を弾いたのを見て、デルウハは所の手を取ると、手の甲から肘まで弾いた水の粒を次々と舐め取った。
 「デルウハ殿…?」
 「若いのはいいな」
 そのストレートな愛情表現にも、なんだか所は不安になる。全て何かの思惑がある気分になるのだ。現に前世はそうであったのだし、今の所は何かをねだるような立場にはいない。心を引き寄せたとてなんの旨味もないはずだが、それでも純粋に悪魔の好意だと考えても末恐ろしい。どちらにしても混乱していた。酒が入っているからと言っても、デルウハへの恐怖は紛れもなく頭に叩きこまれている。所が体を固くしている間に、ドライヤーをかけられ全身をタオルで拭かれ、気が付いたら性行為の際に敷かれたタオルが撤去され、汗だけがしみ込んだベッドに誘導される。この部屋には寝具は一つしかないのだから、所はそこで眠るしかなさそうだ。だがデルウハが眠るのが先であろう。所は恐る恐る尋ねる。
 「え、っと。私は帰りましょうか…?」
 「もう終電ねぇぞ」
 気が付いたら既に深夜一時である。学生の身で、深夜タクシーの料金は懐に痛い。所の逡巡を見逃さなかったデルウハは、笑顔でベッドに誘導してきた。所としても、無理をした体を休めたい時間帯である。これから家に帰るとなると、明日の学業にも支障が出る。渋々とだがバスローブを着たまま、所はベッドの端に寝転んだ。邪魔にならぬようである。だがデルウハがその肩を掴んで引き寄せてきた。
 「こっちに来い」
 「はい…」
 所に拒否権は無い。同じバスローブ姿のデルウハの胸元に飛び込む形で抱き寄せられ、そのままデルウハは眠りに就いた。所が思わず二度見するほど眠りに就くのが早かった。普段この時間帯に起きていなかった子供が、耐え切れずに寝入ってしまうような素早さだ。所は戸惑った。今なら腕の中から抜け出して逃げてしまう事も出来る。だが腰のゆるやかな痛みと、デルウハから逃げる事への恐怖によってなんだか躊躇った。今ならお互いの素性は口頭で明かしたままである。二度と会わぬことも出来る。身体を明け渡したのだって、犬に噛まれたものと思えば忘れてしまえるだろう。だから逃げようと思うが、デルウハの手が腰に回っているのに気付いた。この手が移動したら、もしかしたらデルウハは起きるかもしれない。その僅かばかりの恐怖が、所の判断をぐるぐるとした逡巡に留めさせ、結局眠る事にした。そうして目が覚めたのが四時である。三時間ほど眠っていたらしい。デルウハは幸いなことに眠っている。所は寝相のせいか、デルウハの手が少し離れていることを確認すると素早くベッドから駆け下りた。そして衣服を整え、所持品を確認し、身の回りの物が特に減っていないことを確認すると急いでリュックを背負って玄関へ。その物音にデルウハが身をよじったのが分かったが、それでも構うものかとドアノブへ手を掛けた時だ。
 デルウハがよく通る声で呟く。
 「EFC07650」
 
 デルウハが呟いた言葉に、所は凍り付いたようにその場で立ち尽くす。それは、彼の学籍番号であった。
 「な、んでそれを…?」
 「覚えた。××大学、経済学部所属EFC07650。住所まで確認したが、言った方がいいか?」
 「いつの間に…」
 「あんたがが寝てる時だな。もう頭に入ってる」
 「そんな…」
 所は青ざめる。デルウハはバスローブに身を包みながら、涅槃仏のように横たわっている。その優雅な余裕は悪魔ならではであろう。先程、所は自身の所持品を確認した時に何も異変には気付かなかった。財布には整然と学生証も保険証も入っている。免許証は都内だから取得していない。だがもし車の免許証があれば、今すぐにでもレンタカーに飛び込んでいくのだろう。どこまでも車で逃げおおせることが出来るかもしれない可能性はあるのに、今の所は手足をもがれてしまったかのようだ。対するデルウハは、にこにこと笑顔で手招きしてくる。
 「まだ早いだろ、こっち来い」
 「……いえ…家に帰ります」
 「まだ始発も動いてないだろ」
 「いえ…もうすぐ動くはずですので…」
 「そうか。でも、まだ大学まで時間があるんだろ。ゆっくりしていけばいい」
 「…でも」
 デルウハはあくまでゆったりと、前開きの身を隠さずに所に手招きする。所は昨日の服のままであるが、そこの清潔感は気にせずに横に来いと言う。服を脱ごうとした所に、そのままでいいと言いながら翠の目が笑みに歪む。諦めたように所が近付いてくるのを見ながら、デルウハは彼を抱き寄せるとベッドに寝かせるのだった。そのまま眠るでもなく、ただ抱きしめるだけの時間が過ぎて、所の心臓は嫌な早鐘を打ち続けている。
 所がデルウハと別れたのは、結局七時であった。朝食をおごると言われ、ルームサービスが運ばれてきた頃を見計らって逃げ出したのだ。勿論最低限の礼を言ったうえで逃げ出した。慌てたように逃げ出した彼を、デルウハは追わなかった。朝食の重要性の方が先だったのだ。その時は既に着衣は整えていたから、ホテルマンに礼を言って愛想良く応対する。昨夜、所を無理に抱いたとは思えないような愛想の良さだ。そうして良い客を演じながら、デルウハは朝食にありつくのだった。
 這う這うの体で逃げ出した所はなんとか自分の家に戻ると、簡単に着替えをして大学に戻った。まだ体内には感触が残っているが、それでも出口が切れていないだけで良かったと思う。とにかく今は忘れてしまおう。きっと悪魔も会えなければ諦める。それでも、嫌でもデルウハの宿泊先と部屋番号は覚えていて、そこに足が向かなければいいのだと浅はかな事を考えた。だがきっとこの東京の街が、人混みが、自分を隠してくれると信じたのだ。大丈夫だと言い聞かせ、所は日常に戻っていくのだった。
 ちょうどその一週間後の事である。所がいつものように講義を受けようと教室に入っていると、聴講の人がいると教室は少し物珍しそうにざわざわとしていた。所も何気なくそちらを友人と共に見やる。もう席にはついているから、逃げられる状態ではなかったが…聴講に来ていたのはデルウハだった。ぎょっとした顔をすると、教室の後ろで立っているデルウハがきわめて親し気に手を上げて、席まで近付いてきた。
 「久しぶりだな」
 エスペラント語である。所も目線だけはデルウハに向けているが、こわばった顔で彼を見上げた。
 「はい…」
 「今夜空いてるだろ。もう一度同じ部屋に来い」
 「え、でも」
 「来られないのか?」
 教室では謎の言語を交わす二人に、注目の的が集まっていた。デルウハは人前だからかにこやかであるが、所の肩に手を置いて逃がさぬようにしている。その手だけがデルウハの本質を表しているのだ。
 「…分かりました。うかがいます」
 「そうだ、いい子だ」
 そう言うとデルウハはあくまでにこやかに、所から去って行く。友人からはどういう付き合いで何語かと問われたが、周囲に聞き耳を立てると、エスペラント語であると分かる者はいないらしくてほっとした。
 「エスペラント語だよ。…エスぺランティスト仲間の人で」
 無難な回答をして、今夜の事を思うと講義の内容などとんと頭に入らぬのだった。
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