美しい世界が終わる。
 「落水者あり!」
 その一報を聞くたびに、キングには思い出す出来事があった。過去の合同演習にて、参加したのはかなり若い時出会ったから少なくとも二十年以上前。キングのいる船で落水者が出たと言うので、ざわざわと同胞たちが甲板から覗き込み、救命胴衣や浮き輪などを迅速に用意していた時だ。一人の男が浮き輪を投げる前に飛び込んだ。命綱も無しである。身一つで軽々と、まるで飛び込みの選手であるかのようにくるくるとその身が回り、海面に最低限の音を立ててそれは沈んだ。まるで雫が、そもそも一つであった場所に戻るように静かで、美しい飛び込みだった。
 「カワダ!」
 誰かが叫んだのを聞いて、飛び込んだ者の名前が分かる。キングも覗き込んだ。船の推進力によって、海面は穏やかでも一歩でも中に入ると波が渦巻いている。その波に呑まれて溺れ死ぬ者は後を絶たないが、瞬きをした瞬間、カワダが落水者を抱えて浮き上がって来た。海の中ではより白く見える肌が浮き上がると、彼らは水死体であるかのような不吉さを纏ったが、当のカワダは事も無げに手を上げた。その手には落水者が追い掛けた帽子がある。風にあおられてつい飛び込んだというのだろうか。落ちたのは若い水兵だった。この帽子を得るのに努力を積み上げたと言う矜持が、追い掛けさせたのか。そのまま綺麗に落水した彼は、引き上げられてひどく飲んだであろう海水に噎せこんでいた。だが無事である。良かった良かったという雰囲気が漂う中で、自衛隊の上官の怒鳴り声が聞こえてキングは振り返った。
 「馬鹿者!」
 カワダは頬を打たれたようだ。びしゃりと言う音が響いた。
 「いくら水練に自信があるからといって、飛び込むバカがどこにいる!」
 そう言われても憮然としたカワダは、ずぶ濡れのまま直立不動であった。彼が助け出したのは米軍の兵士である。キングの上官や周囲の米軍兵士がとりなす為に間に割って入ったものの、怒鳴り声はしばらく続いていた。キングと言えば、落ちたのは同郷の後輩だったので医務室に向かう事にする。そこでキングの記憶はとぎれとぎれだ。恐らく無事だった後輩を見舞ったのだが、演習の内容よりもこの出来事の方が強く頭に残ってしまっている。あれではまるで人魚のように、若いカワダは海の波を恐れず海の渦を恐れなかった。そのような人間がいるものだろうか。いくら水練が特異であっても、まるで人間業ではない。あれはきっとマーマンだ。そう陰で褒めたたえられていても、カワダは涼しい顔で合同演習を済ますのだった。
 キングがシャワーを浴びて戻って来ると、部屋にはキングの制服を椅子に敷いた状態のカワダがいた。だがその身は全裸である。制服を着るでもなく尻の下に置いて、でも清潔感があるのは彼がシャワーを浴びたばかりだからだろう。これはキングの部屋での逢瀬では恒例だった。カワダが先にシャワーを浴びて、キングが浴びている間に制服が取られてカワダを覆うように座らされている。何でそんな事をするんだと、皺になった制服にアイロンをかけてくれるカワダに尋ねたが、マーキングですと微笑まれた。匂いはドライヤーやアイロンで飛んでしまう。だから皺を伸ばし切ると、彼は制服に抱き着いてそこにキングがいるかのように大きく息を吸う。恥ずかしいからやめてくれと言ったが、ぴしりとした制服の手間を彼が担ってくれるから無下には出来ないと言う感じだ。そうでなくとも、恋人の行動にけちをつけるのもなんだか嫌なものだ。はあと服に沁みついたにおいを堪能した後は、ハンガーに掛けてくれる。いつもであればそうだ。今はまだ全裸で、カワダのにおいを制服にこすりつけている段階だけれど。キングは背後から近付くと、カワダに腕を回して抱きしめた。その腕にカワダも手を添える。先程互いを貪ったばかりだが、ひとしきり終えた後の体温だけの交換はひどく落ち着くものがある。キングは何気なく呟いた。
 「君がマーマンだと言われた出来事を覚えているか?」
 「落水者を助けた時の事ですか? 覚えていますとも。こってり絞られましたからね、当時の上官には」
 「結局米軍の落ち度だからと片が付いたが、あの後も目を付けられていただろう。気の毒だった」
 「大丈夫ですよ。あの上官と私はそもそも馬が合わなくてね…若い時の反発心で、飛び込んだんですよ」
 「そうだったのか?」
 「ざまあみろと思いました。私も若かったのですね」
 照れくさそうにカワダは言う。力の誇示は、若いオスの特権だ。今の年齢になると、誇示よりもやるべきことが多くあるので反発などは無い。ただ若い者に反発される日々である。歴史とは、この繰り返しだ。
 「でも、貴方が覚えているとは意外でした」
 「あの落水者は同郷の後輩でな。かなり心配したのを思い出したよ」
 「なるほど、どうやらご縁があるようですね」
 「結局肌に合わないと辞めてしまったが…」
 「それは、私のせいで?」
 「いや。落水した時点で、向かないと考えていたのかもしれない。あれは、海に呼ばれたのかもしれないな」
 「海は呼びませんよ。呼ぶのなら、海で亡くなった者だけです」
 カワダは妙に言い切る。海の事をよく知っているような口ぶりだ。
 「君は人魚だから、そんな事が言えるのかもしれないな」
 「ねえハル。日本にはこんな伝説があるんですよ。人魚伝説のひとつに、八尾比丘尼という伝承が」
 急に話題を変えるようにカワダは後ろを振り向いた。キングは訝るが、彼もこのとりとめのない会話で何かを思い出したのだろうと考えた。
 
 「人魚の肉を食べて不老不死になった女の話なんです」
 「人魚の肉が不老不死を?」
 「ええ。本来は彼女の父親に振舞われたんですが、泣き叫ぶ人魚の肉を前に出されてどうにも食欲が湧かず、持ち帰ったところを娘が食べてしまった…」
 「それは災難じゃないか」
 「その後に娘は尼となり、日本各地に伝承を残したんですが…私はこれは嘘なんじゃないかと思っているんです」
 「ほう、根拠は?」
 「人魚の肉を振舞った人間がいるはずなんですが、その人間が不老不死だという伝承は無いんです。間違って食べた娘だけが不老不死。それに、人魚は泣き叫んでいたという事から、意志あるものを食べようとした。まあ日本には踊り食いがありますから、そういう文化だと思ってください。だからこれは、呪いなんじゃないかと思うんです」
 「呪い? 非科学的だな」
 「日本では祟りも信じられていますからね。神社を横に動かすだけで、非科学的な事が起きると言われています」
 「なるほど…国によって文化は様々だが、そのヤオビクニ…というのも呪いだと?」
 「ええ。人魚の肉は滋養強壮にいいと、食べられていた地域もあるんですが」
 「なに?」
 「中身はオットセイやアザラシだと言われています。普通に食べるだけでも滋養強壮にはなりますよね。そのせいで、長寿になるが転じて不老不死」
 「なるほど、伝承の途中で変わっていった可能性か」
 「その通りです。さすがハル」
 嬉しそうなカワダの額にキングは小さくキスを落とすが、カワダは続ける。
 「人魚を捌いた者は死んだんじゃないでしょうか。他ならぬ、アザラシの脂肪分を食べ過ぎた”呪い”でね」
 「人魚の”呪い”か」
 「娘は肉を何切れか食べたので、その呪いによって永遠に苦しむことになったと言われた。ただそれは他でもない滋養強壮が転じたもので、一人間だったんじゃないかと思うんですよ。現代では考えられない衛生環境に、短い平均年齢の中で」
 「それは君の推論か?」
 「ええ。もし彼女が不老不死なら、時の権力者は何故彼女を追い求めなかったのか。人間を食う事へのタブーを冒す蛮勇な者は…もしかしたらいたんじゃないのかと」
 「カニバリズムは本能的以外にも忌避する理由があるのだろう。病などが移る」
 「そうでしょうね。”でも食べてみたんですが、あれはただの人間の肉でしたよ”」
 キングはカワダの顔を覗き込む。カワダはいつもと変わらない顔だ。
 「冗談はやめてくれ」
 「笑えませんでしたか? だから伝承はよく考えたらくだらないのかもしれませんね。人がロマンを追い求めるのには、十分なのでしょうが」
 キングはこの腕の中の男が、あるいはその先祖が、ヤオビクニの血肉を啜ったところを想像してみた。泣きながらか貪りながらか、呪いは脂肪を取り過ぎたことによるものだとカワダは言ったが、本当に呪いが存在するのであればもしかして。カワダがあまりにも海を恐れずに飛び込んだのは、人魚の血が入り混じったからではなかろうか。だがふと目を落とせば、カワダの伸ばされた足がゆらゆらと揺れているのが分かる。筋肉のついたしなやかな足である。大分肉が落ちましたと自嘲していたが、かじりつくのにはまだ肉がある、
 「君はマーマンなのか?」
 「何故そう思われるんですか? 違いますよ、足だって付いてる。鰓だってありません」
 「肺に特殊な機能がある哺乳類は多くいる。カピバラなどもそうだが」
 「うふふ、違いますよ。もし私が人魚なら、その肉にかじりついたハルもとっくに長寿になる筈ですから」
 キングのかじりつくとは、歯形が残る程度の話だ。内ももを吸って跡をつけた程度の話だ。本当に食べようとしたわけではないが、もし人魚の呪いとやらが本当に存在するのなら、カワダが願えばキングは道連れのように悠久の時を生きなければならないのだろうか。悪くないなと考えてしまうのがきっと問題なのだろう。落水者あり。
 美しい世界が変わる。
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