本日は戦場である。イサミにそう言われたので警戒していたが、辿り着いたのは農業大学だ。日本文化にはなじんでいるが、学校や大学に馴染みないスミスにもなんとなく分かる。農業がメインの学び舎だ。家畜の臭いがするかと思ったが、静かで綺麗である。だがその校門の前には人だかりが出来ていて、既に混雑していた。皆手には袋やエコバックらしいものを手にしていた。買い物というには、買い物に相応しくない場所だ。スミスは人だかりに押されながら、真ん中にいるルルを守るように体を固くする。イサミも同様にしているので、スミスが尋ねる。
「これは、なんなんだい。お祭りかい?」
「戦場だ」
「イサミ、元自衛官の君が言うと洒落にならないよ…」
「これは収穫祭だ。農大で育ててる野菜や加工食品が買える」
イサミは特大のエコバックを手にしていた。でもスーパーであっても似たような物品は買えるのだろう。だがイサミはここに拘っているらしい。
「美味いらしいから」
「ルル、アイス食べたい~」
「分かった分かった。とりあえず、開場はいつなんだ?」
スミスが時計を見やる。今は8時50分である。
「10時開場だな」
「なんでそんな早く来たの…?」
背後からはどんどんと人が押し寄せ、スミスはすし詰めにならないように娘を守るので精いっぱいだ。イサミはというと落ち着き払っていて、開門されるのをただ見つめている。その様は修行僧を思わせるようで、なんだか浮世離れしている。達観していると言うのか、この人込みすらも心頭滅却すれば火もまた涼し、人混みも気にならぬと言う風体である。
「なんなんだ…?」
会話がだんだんと減っていくのにつれて、人は後ろから押し込まれる。門に向かって走って来る学生の姿が見えたので、ああやっと開場かと思った時には10月だというのに汗びっしょりだった。スミスは汗臭くないかなあとそればかりが気になって、余計に汗が出る気がした。一方のイサミは涼しげで、ルルは人酔いして気分が悪そうである。幸い、イサミはその変化に気付いたようだ。
「大丈夫か、ルル。おんぶしようか」
「肩車は?」
「それでもいいけど、開場したら降りてもらう」
「じゃあスミスにしてもらう…」
150cmほどしかないルルには、人混みは酷である。目線が普通の人より小さいのだから、困る事も多い。普段は小柄さなどおくびにも出さないような振る舞いをするが、人混みとは生来の体格だけがその場にあるすべてだ。ルルには不利である。
「うええ」
肩車をしてもらい、人混みから体が抜けると少々気が楽になった。その分周囲には場所を空けてもらったので、満員電車ほどではないようだが、それでも大きな集団の真ん中に置かれてしまっている。まるでいつの間にか一つの巨大な生き物に組み込まれているかのようで、なんだか不快だ。
スミスが前を見やると、開門した。途端! 人混みが大きく動き、うねる! 押さないで、押さないでくださいと学生が若い声を張り上げるのが聞こえた。集団に圧し潰されてはたまらないので、スミスも走り出す。イサミはいつの間にか数歩前を走っていた。
「イサミ、どこ行くんだ!」
「まずは野菜!」
「ああもう、付いてくしかないか。ルル、落ちないようにしてくれよ」
「きゃははは!」
ルルが咄嗟に肩車を止めて、スミスの背中にずるりと落ちる。それを後ろ手で受け止めると、足が前に絡んでくるのが分かった。おんぶの態勢でルルは落ち着いたようである。スミスは後はイサミに付いて行くだけだ。いわゆる、学校の運動会で見るような無難なテントが張られて、その下に大量の農作物や加工食品を並べているのは、普段彼らが学習机として利用しているものだろう。簡素で素人が売りに出しているというのが見て取れる。学生が主体的に物を売っている中で、イサミは人が群れている野菜が売られている中に飛び込んだ。スミスは後を追えないと判断し、その場で立ち尽くす。主婦のような人々に揉まれて、イサミが良さげな野菜を選別し、買っているのを呆然と眺めていた。
「なんか、バーゲンみたい」
「ああ…確かにこれは戦場だ…」
ルルはすっかり体調が良くなったのか、足をぶらつかせて言う。
「もう大丈夫なのか、ルル」
「うん。スミス汗臭い」
それだけ言い終わると、ひらりと彼女は降りてしまった。あれだけあった人々は、広大な農大の敷地に消えていったので後ろでは屋台に人だかりが出来ているも、身動きが取れないわけではない。スミスは息を吐いた。食に拘る日本人らしいというか、海外で似た光景があるのならば祭りのような、あるいは競争のようである。イサミが大玉のキャベツをもぎ取って来たらしく、ほくほくとした顔で戻って来るのを出迎えて、次はヨーグルトだの味噌だのと巡る算段はイサミには出来ているようだ。キャベツはスミスが持つことになった。というか、それくらいしか貢献出来無さそうだったのだ。
愛娘のルルの行方が分からないが、まあここで誘拐とかは起きないだろうと少々油断していた。そう、イサミも油断していたのだ。
「スミス見てえええ!」
ルルがそう言って手にして見せたのは、鳥の丸焼きだった。それも三つである。お小遣いで買ったのだろうかと思っていると、にこにこしてルルはビニール袋に入った鳥を見せびらかす。
「おいしそうでしょ!」
「あ、ああ。って待ってくれ、三羽も買ったのか?!」
スミスが素っ頓狂な声をあげるが、ルルは満足げだ。
「一人一羽! これで仲良しでしょ」
「いやいやいや、一人一羽は…」
「どうした」
スミスとルルの背後からイサミの声がした。どうやら買い物から戻って来たらしい。スミスが聞いてくれよと振り返ると、サングラスをして大量の野菜と加工食品を抱えたイサミがそこにいた。
「なんか、農家の人みたいだな…」
「馬鹿言うな、本物の農家さんの卵に失礼だろうが!」
失礼かは置いておくが、イサミの短髪に黒いシャツに明らかに汚れてもよさそうなパンツであると、余計に農作業していた農家には見える。だがここは農業大学である、周囲には農家や加工食品業者、研究者の卵ばかりなのだ。そこに敬意を払ったのだろうが、イサミの言動は少々高揚していていつもとは違った。
「予定以上だ。最高の収穫だな」
「なんか、マフィアにも見えてきた」
「野菜抱えたマフィアがいるかよ」
「ねーイサミ見て!」
そこに割り込んで来たのが満面の笑顔のルルである。スミスはまずいと思った。無駄遣いをするなと普段のイサミなら一羽だけでいいと言いかねない。そうなると娘の機嫌は著しく損なわれるので、橋渡し役のスミスとしてはこの状況をなんとか無難に収めたかった。だが後の祭りである、ルルの手には三羽の鳥の丸焼き。それを見やるイサミ。ああ何を言うのだろうとスミスが固唾を呑んでいると。
「いい買い物したな!」
いつものイサミではなかったので、許されたようだ。ルルがでしょでしょと自慢げである。水を差すようだが、スミスはもちろん大人として口を挟んだ。
「いやあでも、三羽は…食べられないんじゃないかな」
「米国ではターキーは食べるだろ」
「あれは、家族みんなで分ける前提なんだよ…」
するとイサミが力強く言った。
「大丈夫だルル。食べられなかったら、俺が食べるからな…!」
「イサミ…!」
「なんで通じ合ってるの二人。ねえ」
スミスは置いてけぼりである。この熱気が二人をおかしくさせているのだろうか。こんなイサミ見たの久しぶりだなあとスミスは現実逃避をし始めていた。何にせよ鳥三羽。冷凍庫に入らない量であろうから、食べきらないとまずいだろう。しかし冷蔵庫にも入らない。本当にフードファイトの道しか家族には残っていない。だがイサミとルルは、熱気に当てられて野菜を見たり楽しげである。だからこれ以上は水を差さないで置くことにしたのだった。
「あのー、ヒビキさんあれって」
「ジェラートおいしいよ。ほらミユ、あーん」
「あーん…じゃなくって。なんかあそこ、イサミさん達ですよね。なんか、ちょっとテンション高いですけど」
時はずれているが、同じ収穫祭にやって来ていたヒビキとミユである。ヒビキは何故か目を合わさないようにしてジェラートを食べており、ミユはおずおずと窺っていた。だがイサミ達は気付いていないらしい。
「ほっとけほっとけ。変な家族のテンションに巻き込まれちゃ、たまんないからさー」
「うーん、でもぉ…」
「それより、ミユの恋愛相談はどうすんの? 旦那は後で迎えに来るから、どっか食堂でも入って話そうか」
「その件…ですよねえ…はあ」
ヒビキが怪訝な顔をする。
「ミユが相談したいって言ったんじゃん。あ、その調子だと本気で悩んでるな? 同級生なんでしょ、ちょっと話聞かせてよ」
「いやあでも、勘違いかもしれないし…」
「上京して会いたいって、友達以上なんだからさ。ま、ゆっくり話そうよ。ね? あっちで」
以前ペシミズムが上京した際に、運転手であるミユの同級生の男性が、会いたいと言ってくれた。その淡い期待と出会いに、植物オタクのせいか少々婚活が難儀していたミユは飛びついて良いものか悩んでいるのである。そのペシミズムも、この農大にイベント用機械として出店しており、件の同級生は働いている。一人で会いに行くのは怖いからとヒビキを誘ったのだが、かえってからかわれてショートしそうだ。
「もう、ヒビキさんからかわないでください~」
「ごめんごめん。でもま、時間はまだあるし。偶然を装って出会うのもありだし? ね。後でブース行こう」
「うう~…はいぃ…」
こちらも少々難儀なようだが、とにかくここは祭りである。祭りであれば大抵のことは許されるはずである。全力で楽しんだイサミ達が、日常に帰った時に自身の買い物に落ち込むのはもう少し先の話なのであった。