お忍びでブランシェット家当主がやってきた、そんな暖かな春の夜。
ネロは目の前で泥酔している一人の青年に苦笑いを浮かべることしかできなかった。
「おーい、ヒース。そろそろ飲み過ぎだぞ」
そうささやかに指摘すれば、ヒースと呼ばれた青年はほのかに赤く染めた頬と、まどろむ瞳をネロに向けた。かなり酔ってんな。なんてネロは冷静に考えながら彼の手元からグラスを取り上げる。ほんの数センチ残っていたウイスキーがちゃぷ、と音を立てた。
「ネロ、返して」
この青年がここまで酔っているところをネロは初めてみた。彼とは何十年もの付き合いで何度も晩酌をしてきた関係だが、ほどほどに酒を嗜む彼しか知らない。
「なんかあった?」
グラスを取り上げられて不満げなヒースクリフにネロは問いかけた。突然彼がやってきて「何か飲みたい気分なんだ、お酒付き合ってよネロ」と言った時から薄々抱いていた疑問だった。
そもそも彼は突然ネロのところに来ることはなかった。シノなんかは時々事前連絡もなしに来ることがあったが、ヒースクリフやファウストはちゃんと事前に連絡をくれる。彼が連絡なしに突然やってきたのはこの何十年の間で今回が初めてだろう。
しかも、開口一番「お酒に付き合って」。ヒースクリフは決して飲めないわけではないが、ネロのように自分から飲むタイプでもない。この時点ですでにネロは巨大な違和感を抱えていた。
「お前がこんなに飲んでるの初めて見た。やけ酒だろ」
いい酒も不味くなるぜ、なんて大人ぶって言えば、ヒースクリフの幼い瞳が真っ直ぐにネロに向けられた。まるで出会ったばかりの時、魔法舎で暮らしていた頃のようだった。
「悔しいことがあった」
「ふぅん」
ネロは特に何も言わず相槌だけ打った。この幾つになってもまだまだ可愛い年下の言葉を、丁寧に待つ。ヒースクリフは眉を寄せながら、そっと視線をずらす。嫌なことを思い出すかのように、唸った。
「魔法使いだから、どうせ碌でもないやつだって。久しぶりに言われて、頭に来たんだ」
ネロは自分のグラスを飲み干した。
東の国ではいまだに根深い魔法使いに対する偏見が残っている。魔法使いだから、魔法使いのくせに。そんな言葉をヒースクリフもネロもたくさん受けてきた。
たとえ身分がただの料理人だろうが、貴族の坊ちゃんだろうが関係ない。魔法使いである、ただそれだけで心無い言葉を浴びせられるのだ。
(しかしまぁ、ブランシェットの当主になってもそこは変わらないもんなんだねぇ)
ネロはぼんやりと考えた。勿論、貴族の家の当主になったからと言って悪意の目や偏見の言葉が落ち着くとは思っちゃいなかったけれど。けれでも多少はマシになるんじゃないのか、なんてネロは淡い期待を抱いていたのだ。
この優しくて、ちょっと気弱で、でも芯のある強い少年が、穏やかで暮らせることをネロはずっと前から祈っている。だから、今回こうやって「心無い言葉をかけられた」とネロのところで酒を飲んでいる少年にネロもまた、傷ついた。
「まださ、俺のことを言われるならいいよ。いくらだって受け止めてやるから。でもさ、ファウスト先生や、シノや、ネロの事まで言われて、俺、本当にカチンときちゃって。俺の大事な人たちなのに、どうしてこんな風に言われなきゃならないんだろうって、思ったら、」
ヒースクリフは深く息を吐いた。
「ごめん、急に。ただ、誰かと話がしたくて、咄嗟に思いついたのがネロだったんだ。シノだと本気で怒って相手に食ってかかりそうだったし、ファウスト先生も真剣に悩んでくれそうだったから。心配をかけたいわけじゃないし、ただ話を聞いて欲しかったんだ」
ごめん、とヒースクリフは再度謝罪の言葉を告げた。
「謝んなくていいよ」
ネロはただ一言告げた。ヒースクリフを暖かく見守るその視線に、ふと彼は泣きそうに顔を歪める。ごめん、とまた言いそうになって、彼は口をつぐんだ。
そんな少年の心にネロはほんの少し、本当に少しだけ高揚感を覚える。
(シノほど俺はこいつの側にいてやれるわけじゃない。ファウストみたいに導いてやれるわけでもない。でも、こういう雨の夜に、ちょっとした話し相手に選んでもらえるってのはちょっと嬉しいかな)
ちょっとした特別感。期待されることは得意ではないけれど、こうした心が弱った時に頼りにされるのは心地よかった。
思わずニヤけてしまいそうな己の口角を引き締めて、ネロはヒースクリフの頭を乱雑に撫でた。わ、と驚いたような声を上げる年下の友人に、ネロは満足げに笑った。
飽きた
最悪なタイミングというのは存在する。
「まぁやっぱり、胸は大きい方がいいよね」
「え」
「あ」
例えば、最悪な話をしている時に恋人が訪れた、だとか。
晶は元々あまりお酒を飲まない。アルコールに弱いのだと言っていたし、自分から進んで飲もうとしているところは見たことない。それを知ってフィガロも無理に彼女にお酒を勧めることはなかったし、彼女と一緒にお酒を飲むことはなかった。
だからだろうか。晶はシャイロックのバーを訪れることはないのだと、フィガロは無意識に考えていた。実際問題、シャイロックのバーはジュースやノンアルコールカクテルなんかも取り扱っており、晶もたまにお邪魔しているのだが。
そして起こる悲劇。シャイロックのバーで気分よく酒を飲んでいたフィガロはブラッドリーやミスラ、オーエンに絡まれた。あーあ、最悪なんて思いながらフィガロは北の魔法使いの相手をする。
話題はあちらこちらへ転がる。雑に相槌を打っていれば、いつの間にか話題はいわゆる下ネタと呼ばれるものになっていた。
女のどこが好き? 何でもいいです。 ロマンねぇな、兄弟。 ブラッドリーが異状なんじゃない、普通気にしないでしょそんなこと。
そんなくだらない会話を聞きながら、フィガロはついぼそっと言ってしまったのだ。
「まぁやっぱり、胸は大きい方がいいよね」
その途端、ドアのベルが鳴り来客を告げる。フィガロがそちらを見て、一気に青ざめた。
そこにいるのは晶。フィガロの恋人。驚愕したかのように目を見開いてフィガロを見ていた。
瞬間にフィガロは今言った言葉を反芻する。あれ、今、俺、結構酷いこと言ってない?
「いらっしゃい、賢者様。何か飲まれますか?」
「え……あ、その、すみません。ちょっと様子見にきただけなので……」
失礼します、と晶は静かにドアを閉めた。チリン、とベルが鈍く鳴る。フィガロは何も言えずにそんな彼女の背中を見つめることしかできなかった。
クク、と笑いを堪えるような声が漏れてくる。パッとフィガロが振り返れば、北の魔法使いたちが嫌な笑みを浮かべながらフィガロを見ていた。
「くっ……。こうもうまくいくとはなぁ」
「まさか、本当にドアの向こう側の存在に気が付かないなんて。おっかしい」
「なんかよくわからないけど、フィガロ、あなたのその表情、滑稽でいいですよ」
何が何だかわからない。最高に心地よかった酩酊感は消え去り、よく回らない頭で考えた末、フィガロは魔道具のオーブを取り出した。この悪ガキどもを灰にする。
「ポッシ……」
「閉店です」
シャイロックの鶴の一声で、フィガロたちは店から追い出された。
フィガロは混乱する思考回路を必死に整理した。
一番最悪なことを言っている時に、最愛の人がきた。多分、あの反応からして傷ついているだろう。晶は絶壁ではないものの、平均か、平均より少し控えめだから。
フィガロは緊張でカラカラになる口を必死に魔法で潤しながら、晶の部屋のドアをノックした。
「賢者様、いる?」
しばらくの静寂が落とすれる。けれどもドアの先に人の気配はした。もう一度ノックしようとする前に、ゆっくりとドアが開いた。
「……何ですか?」
ムッとした様子の晶だった。完全に拗ねています、と言わんばかりの表情にフィガロはドギマギした。思っていた以上に可愛い。しかも、普段賢者として大人びた様子しか見せない彼女がこうして子供っぽい表情を見せてくれる。恋人としての俺に甘えてくれているんだ、とフィガロは高揚した。
「さっきの、聞いてた?」
「胸が大きい女性が好きなんですよね」
完全に話を聞いていたらしい。晶は不貞腐れたように答えた。そんな彼女にフィガロは困ったような笑顔を作った。
「まぁ、それはそうなんだけどさ……」
「じゃあ、胸の大きい人と仲良くやったらどうですか」
「それは困るよ」
フィガロはびっくりしたように言葉を荒げた。自分でも思った以上に大きな声が出てしまったことに羞恥心を抱きつつ、彼は必死に弁明した。
「俺が好きなのは晶なんだから。そこに胸の大きさなんか関係ないし、というかあれそもそもただの一般論だからね!?」
「でも私そんなに大きくないですよ。普通ぐらいですし」
「ええ、それがいいのに」
「変態」
晶のそんな言葉にフィガロは困ったように笑った。そっと彼女の手をとり、まっすぐにその瞳を見つめる。少しでもこの心が伝わってほしい、とそう思いながら。
「晶。俺はね、晶だから好きなんだよ。まっすぐに俺たち魔法使いに向き合ってくれて、まっすぐに俺のことを信じてくれる。そんな君が好きだ。信じられないっていうなら何度でも言うよ。好きだよ」
フィガロの少し影の落ちた草原のような瞳にまっすぐに射抜かれ、晶はたじろいだ。しばらく何かを悩むように顔を歪ませた後、彼女は小さく答えた。
「……わかりました、信じます」
そんな言葉に、フィガロは舞い上がった。この愛しい人間からこうして信頼を勝ち得ることが、こんなにも幸福だなんて。思わずフィガロは晶を抱きしめる。そんな唐突な彼の行動に困惑しながら、仄かに香るアルコールの香りと診療所のような香りに晶もまた、ひっそりと微笑んだ。