物事を直接言わない文化が存在する。晶が生まれ育った日本でもその傾向はあって、オブラートに物事を包み、直接的に発言するのを避けたりする。
きっと、夏目漱石がI  LOVE YOUを『愛しています』ではなく『月が綺麗ですね』と訳したという逸話が残っているのもその文化の影響だろう。
そんな文化を、晶はほんの少しだけ気に入っていたのだ。『愛しています』と言われるよりも『月が綺麗ですね』と言われる方が、なんとなく情緒があるような気がしたから。
けれど、それが通用するのは日本だけだ。この壊れかけの世界でこの婉曲的な言い方は通用しない。晶はそう認識している。
だから、不意にヒースクリフが「月が綺麗ですね」と話しかけてきた時。晶は柄にもなくどきりとしたのだ。彼はそっと目を細めて晶を見つめている。その優しい視線に勘違いしそうになって、晶は一度だけ息を深く吸った。
「確かに、今日の月は恐ろしいほど綺麗ですね。みなさん例年必死に戦っている相手にこんなこと考えるのはあまり良くないのかもしれませんが……」
「いえ、綺麗なものは綺麗ですから。……沢山の魔法使いを石にしてしまった恐ろしい月なのに、こうしてみると綺麗だな、なんて。少し滑稽ですよね」
ヒースクリフは悲しげに月を見上げた。前回の大いなる厄災との戦い。初陣で悲惨な目にあった彼の心の傷は、今も塞がっていないのかもしれない。
晶はそんな彼の心境を慮って、同時に自分が恥ずかしくなった。
別に、この世界にI  LOVE YOUを『月が綺麗ですね』と訳す文化はない。きっと、ヒースクリフは純粋に月が綺麗だと思っただけなのだ。自意識過剰。そんな言葉が晶を苛んだ。
今、こうして晶の心が浮かんだり沈んだりするのには理由がある。
晶は目の前にいるこの少年に特別な思いを抱いている。賢者として、賢者の魔法使いたちは皆大切だ。それとは少し異なる特別な感情。
ーー晶は、ヒースクリフに恋をしている。
自分の中の感情に気がついた時、晶は困り果てた。特別な存在をこの世界で作る気はなかったから。
けれども、心というものは暴れ馬のように荒ぶっていく。晶が「ダメだ、抑えなきゃ」と思えば思うほどに好きが溢れていく。ゴールなんてないのに、恋心はどこかへ晶を置き去りに走っていくのだ。
もし、ヒースクリフの言った「月が綺麗ですね」に特別な意味があったなら。そんな、ありもしない妄想をして、晶は夜を過ごすのだった。
『俺の世界じゃ、I  LOVE YOUを月が綺麗ですねって訳した奴がいるんだ』
そんな誰かの声がヒースクリフの脳裏にあった。確か、あれは前の賢者。彼は月に恋するムルを見つめながら、そんな話をしてくれた。
『結構有名な話でさ。もちろん、そんな訳し方はしてないって説もあるんだけど、綺麗な愛の言葉だよな』
そう、笑う前の賢者の話を聞きながらヒースクリフは月を見上げた。
もしかしたら、晶もこの言葉を知っているかもしれない。そんな微かな期待を持って、ヒースクリフは月を見上げる晶にそう話しかけたのだ。少しでいいから、自分のことを意識してもらいたくて。
「確かに、今日の月は恐ろしいほど綺麗ですね。みなさん例年必死に戦っている相手にこんなこと考えるのはあまり良くないのかもしれませんが……」
ヒースクリフの言葉は伝わらなかった。もしかしたら知らなかっただけかもしれない。けど、そんな彼女の反応に彼は気を落とした。
「いえ、綺麗なものは綺麗ですから。……沢山の魔法使いを石にしてしまった恐ろしい月なのに、こうしてみると綺麗だな、なんて。少し滑稽ですよね」
がっかりした様子を悟られないように、彼は言葉を返した。……うまく、会話できているだろうか。
晶は特に何も気にした様子はない。ヒースクリフが必死の思いで伝えた言葉は本当に伝わらなかったのだと痛感させられて、思わずため息が出そうになった。
ーーこの人は、本当に俺のことをなんとも思っていないんだな。
初恋は叶わないという俗説があることは知っている。けれども、まさか、ここまで脈がないだなんて思わなかった。
彼女は賢者として賢者の魔法使いに平等に接してくれる。そんなところも好きになったのだけれど、それが不満に感じる日が来るだなんて。
ヒースクリフは重たい心を引きずりながら、夜を過ごした。
【ひあき、写真の話】
親指と人差し指を立てて、それを上下左右対照にかまえる。両手で作り上げた長方形の中を、晶はそっと覗きこむ。
長方形の中では、何人かの魔法使いたちが楽しげに笑っていた。中庭に差し込む日の輝きが彼らを照らす。そんな映画のワンシーンのような光景に晶は胸を弾ませた。
「賢者様、どうしたんですか?」
「ヒース」
話しかけられて、晶はそっと長方形を崩した。振り返ればそこにはヒースクリフが立っている。急に不思議な行動をとった晶に少し困惑しているようだった。
「写真があったら良かったのにな、と思いまして」
「しゃしん?」
ヒースクリフは聞きなれない言葉に首を傾げる。晶は頷いて答えた。
「こう、見た物を一瞬だけ切り取って、紙とかに残せるんです。魔法のステンドグラスのような……」
魔法のステンドグラス。晶が南の国に行った時にスノウとホワイトから貰った物だった。厳密に言えば写真ではないのだが、似ているものといえばそれぐらいしか思いつかなかった。けれでも、ヒースクリフはそれで大体のイメージは湧いたらしい。ふわりと微笑んだ。
「素敵ですね。賢者様の世界にはその、しゃしんという物が流行っていたんですか?」
「流行っていたというか、ごく当たり前に存在してましたね。スマートフォンってやつで気軽に撮れるので」
晶は不意に中庭に視線を戻した。そこで楽しげな魔法使いたちを見て悲しげに笑う。
「もし写真があったなら皆の写真を撮って残したのにな、と思って」
ヒースクリフは息を飲んだ。いつか必ず訪れる彼女との別れに、悔しそうに眉を寄せた。
賢者はいつか居なくなる。居なくなった賢者のことをこの世界の人たちは不自然なぐらいに忘れていく。名前も、顔も。小さな思い出だけが残って、それすらもいつか消えていくのではと恐ろしくなることがある。
彼女のことも忘れてしまうのだろうか。ヒースクリフは純粋に嫌だと思った。
「……もし、しゃしんというのがあったなら、俺、絶対に賢者様のことを撮ります。忘れたくないので」
ヒースクリフの言葉に、晶が目を瞬かせた。ふと彼を見上げれば、彼は何かを後悔しているような表情で晶を見つめていた。
「前の賢者さまのこと、あまり覚えていないんでしたっけ?」
ヒースクリフは頷いた。そんな少年を見つめながら、晶は泣きそうに笑った。
忘れられたくない。本当はそう言いたい。けれども、きっとそれは不可能なことだ。ヒースクリフだって、晶のことを忘れる日がやってくる。その時に晶が「忘れられたくない」なんて言っていたらどうなるだろうか。ーーきっと、ヒースクリフは苦しむ。晶の言葉が彼に呪いとしてのしかかる。
「忘れていいですよ。忘れてください」
晶は本音を押し殺した。そんな彼女の言葉に、ヒースクリフは唸るように答えた。「嫌です」
ヒースクリフの瞳にほのかな怒りが宿った。綺麗な色だった。
「そんなこと言わないでください。俺は忘れたくないんです」
「……ごめんなさい。無神経でしたね」
「……俺こそ、すみません。あなたに謝らせたかったわけじゃないのに」
ヒースクリフはそっと俯いた。彼女との間に生ぬるい風が吹く。嫌な風だった。
ーーいっそ、『忘れられたくない』と言ってくれたら良かったのに。
そんな我儘な心を押し殺して、ヒースクリフは風に身を任せた。
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