ルルが限界を迎えていた。受験勉強の詰め込みと感じたことのないプレッシャーで、なんだか身ががんじがらめであるようだ。イサミとスミスは、今まで彼女を天真爛漫に育ててきた自覚はある。それが良さだと思って矯正なんてして来なかったのだが、性格の良さが勉強にそのまま比例するのであれば良かったのに、無情にもそういう訳ではない。スミスは母親からの呪縛から逃れたい一心で必死に勉強にかじりりついていたし、イサミもそれなりに成績が悪くてという経験はない。まあ平凡な成績だったと思う。それでも落ちこぼれることなく、なんとか防衛大学まで進学したのだ。だが勉強は苦しいものだ。辛いものだ。成人してからは机上の勉強の詰め込みからは逃れられたが、日々勉強の毎日である。とはいえ机上の勉強というのは、なんだか辛さが違うのだ。机という狭い物の中で、膨大な知識の海を鉛筆というオール一つで漕いでいく。ノートが海図代わりで、真っ暗な海の中を反芻、復唱、暗記でなんとか自分だけの海図を作り上げるしかない。この辛さは、遊びたい盛りの子供には酷であろう。
 「あああ!」
 冷蔵庫にお茶を取りに来たルルが、大きめの声で息を吐く。彼女の頭の中は数式と方程式がぐるぐると巡ってこびりついて、生きるのに役に立つのかという疑問がそのこびりつきを片っ端から落としていくようだ。そうなるとまた覚え直さなければならない。だが声は出てしまう。ああああ。ルルの頭が分かりやすい機械なら、ショートしているなとイサミは思った。
 彼は家にいた。繁忙期を乗り越えて、サタケが休暇を取っても良いと交代で有給休暇を得たのだ。五月には母の日があり、毎年は繁忙期である。特にフルリスト・サタケは、ルルの学校で起きたテロ事件の際にセンセーショナルにブレイバーンが登場したことにより知名度が上がり、同級生が店舗に顔を出したり、同級生の母親が毎月決まって買うようになっていた。特にブレイバーンに乗ったタカミは、母親にそれを帰宅してから自慢したらしくその日のうちに母親がすっ飛んできた。手には箱菓子を持ち、イサミに会うと何度も礼を言い、その時は一万円分のフラワーアレンジメントを購入してくれたのだがその付き合いは今も続いている。花の状態がいいから、ここで買うと長くもつわと言われた時、花屋冥利に尽きると思ったのはいい記憶として時々思い出してはにやにやしている。勉強が必要とは、こういうことだ。誰かの役に立ち、身を助ける。それを伝えたいところだが、詰め込みながら必死にかじりつくルルにその言葉は火に油であろう。だから言わないでおいて、何か娘の為にならないかと考えることにした。
 「海に行こう!」
 昼食を終えたところで、イサミと暗い顔のルルに向かってスミスは言った。五月も終わりに向かっている。もうすぐ六月だが海開きにはまだ早いだろうとイサミは首を傾げた。
 「何処に行くんだよ」
 「近場だとまあ千葉、とか」
 「海開きしてないんじゃないか?」
 「いいんだよ。シーズンに行くと大変だし、ゴミで怪我もするかもしれない。だったら、今のうちに海だけ見て! ちょっと涼もう」
 五月とはいえ少々日差しは暑い。この調子だと夏本番では40度に近付く日も出て来るだろう。海に涼を求められない日が存在するかもしれない。そんな気候変動に思いを馳せるのではなく、今はルルの気分転換が必要だとスミスは考えていた。
 「まだ冷たいだろうから泳がない。それなら荷物も少ないし」
 「パスする~」
 ルルは何が面白いのかと疑わしげだ。だがこうなるとスミスは引かない。
 「いいから! ドライブも気分転換になるだろうし、ほら用意して。日が落ちるまでに行こう!」
 「お前、こういう時ひかないよな…ルル諦めろ。こうなったら、スミスは聞かない」
 「ぶー」
 昼はカルディで買ったソースで作ったペペロンチーノだ。美味しい味に舌鼓、という余裕もあまりルルには無かった。どこか薄皮一枚隔てたところでペペロンチーノを食べ、集中力と五感を机に残したままのようである。ルルは気乗りしなかったが、参考書数冊と筆記用具を手にして玄関に向かうと、スミスがそれを置いて行けと言う。
 「ダメだ。気晴らしで行くんだから、そういうのは無し!」
 「ええ~」
 「スマホ持ったか? それじゃあスマホだけ持って、サングラスと日焼け止め! それだけ!」
 子供用サングラスはなるべく新調している。年々日差しが強くなる一方で体育の授業でも着用は許可されているからだ。ルルは少々色が白いので、サングラスは必須だろうとスミスが作るのを推し進めている。イサミはそこまでいいんじゃないかと思うが、確かに娘の体に降る刺激としてはここ最近の気象は荒すぎるのだ。イサミも自分用のサングラスも服に挟み、スミス達ははレンタカーを借りて海へと出発するのだった。
 「海…」
 ざざんと波打つ音が聞こえる。背後には車が通り抜ける音がときたま聞こえて、基本的には海開きを待って静かな港町であった。人通りも少ない。ルルがぽつりとつぶやいた。スマホをずっと見ていたが、スミスに促されて外に出た時に、彼女はサングラス越しに海を見た。
 「なんか色分からん」
 「サングラス外すか。俺も外す」
 「確かに。日焼けは怖いが、せっかくの海だしな!」
 家族は一斉にサングラスを外した。昼から千葉に移動するのに時間がかかったので、日差しが強い三時頃だった。だがまだ五月である。真夏ではないおかげで、サングラスを外しても目には少しの紫外線くらいで、三人はほぼ同時に目を細め、そして開いた。
 「海…!」
 「久しぶりだな、海も。相変わらず日本のビーチは綺麗でいい」
 「地元の方が気を使ってるんだろうな。しかし、シーズン外れの海もいいもんだな」
 「海にシーズンなんてないさ」
 ウインクをしたスミスの向こうで、ルルが砂浜に向かって走って行くのが見えた。護岸に作られた階段をたったったと降りていくと、下段には砂で覆われてじゃっじゃっじゃと音を立てる。ビーチサンダルにすればよかったなと今更思ったが、お気に入りの靴ではない物でよかった。砂浜に足が沈み込むような感覚がして、ここは海なのだと触感で思う。じゃりじゃりじゃり。イサミもスミスもサンダルにするのを忘れたが、それよりも波と共に漂ってくる潮の香りが嗅覚を刺激する。つんとするものではない。包み込むような潮の香りである。どこか安心する香りだ。だが雑多な生き物の吐息が含まれているようで、ほんの少し苦い気がする。
 ルルは砂を手で掘ってみた。奥にある湿り気のある、冷たく重い砂が皮膚にまとわりついて、まるで子供の頃の泥遊びを思い出した。その砂同士がしゃりしゃりしゃりと擦り合わせる音が聴覚を楽しませる。なんだか美味しいものを思い出すような砂の音である。ASMRでたまたま聞いたことはあるが、この音は落ち着いた。
 「ルル!」
 砂遊びもいいが、スミスは靴を脱いで海に入っていったところで呼びかける。足首まで浸からせると、きんきんに冷えている訳では無いが冷たい海が足を包み込む。その冷たさを感じていると、好機と見たイサミがスミスに向かって海水を掛けてきた。
 「うわ!」
 「ほれ」
 スミスが驚いて数歩下がると、イサミはいたずらっ子のように笑っていた。だからスミスも足元の海を掬い、イサミに向かって掛けた。
 「うわあ!」
 「お返しだ!」
 「ルルも!」
 ルルも靴を脱ぐとざぶざぶと海に入る。足首に浸かって涼を取りながら、相手を濡らす弾はいくらでも掬えばある。何の物も使わないこの遊びは、なんだか今までルルの体をがちがちと縛っていたものが無くなる気がした。たまに海水が口の周りについて、唇が塩辛い。味覚で海を感じるが、それが嫌な気がするものではない。非日常で、なんだか嬉しいぐらいである。きゃあきゃあとはしゃぎながら、三人は服が濡れるのも忘れて海水を掛け合った。そのうち、びしょびしょになったからとルルが乾かして来ると言い残し、砂浜を素足で走り出した。そこでスミスとイサミは掛け合うのをやめた。そこで初めて気が付いたのだが、お互いびしょ濡れである。海水だからこれはべたついてしまうな、とお互い苦笑いする。ついはしゃぎ過ぎた。そこでルルが裸足で走り回っていることに気が付き、イサミが声を掛ける。
 「こら、ルル。はだしだとゴミがあるかもしれない。やめなさい」
 「えー分かった。…やばい、二人ともびしょびしょじゃん!」
 ルルはそう言っておかしそうに笑った。心底おかしそうに長い間笑っている。それにつられてイサミとスミスも笑った。三人家族の声が、夕焼けの海に響き渡っている。楽しい時間はあっという間である。だが海の中で自由に動き回るのは、自然と疲れるものだ。水の抵抗もあるし、足場が砂なので指が自然と踏みしめていて、全身海水まみれである。ああどうしようか、スミスはイサミを見やった。イサミは見やると、苦笑いをしていた。これはレンタカー会社に申し訳ないなと思っていると、イサミがタオルを積んで来たと言う。
 「ジーザス…イサミ、君は最高だ…!」
 「タオルごときで大袈裟だな。まあバスタオルにしておいたから、多分汚さないと思うが」
 「愛してるよ…!」
 「抱き着かないでくれ、べたべただから」
 そう言いながらも、スミスはイサミにハグしてすぐに離れた。だがべたべたのは変わりない。楽しい時間はあっという間で、残されたのは非日常に汚れた体だけだ。
 「帰ったらシャワーだな」
 そう苦笑いするスミスとイサミに、ルルが後ろから声を掛ける。
 「あのさ」
 「ん? どうしたルル。怪我とかしたか?」
 「ううん。あのさ、楽しかったね」
 思春期でなかなか親に物を言えない時期である。だがルルははにかみながらそう言った。スミスはその笑顔だけで急に感激してしまって、イサミを見やる。イサミも同じ顔だった。
 「よし、なんか食べて帰」
 「ダメだ。海水まみれじゃ店に迷惑だ」
 「あ、そっか。じゃあピザでも取ろう」
 「ピザ!?」
 ルルが歓喜の声を上げる。これは今日は勉強どころではない、帰ったらシャワーを浴びてピザを取って…まあこんな日もいいか。イサミはそう考えて微笑むのだった。
 
カット
Latest / 110:33
カットモードOFF
26:19
柚木普
こんち
26:46
とりき
こんにちは、ハートありがとうございます!
27:20
柚木普
うん!
28:52
とりき
わーたくさん! 嬉しい
30:00
柚木普
うん1
30:03
柚木普
!
31:02
柚木普
すみません!抜けます!
31:24
とりき
ありがとうございました!
チャットコメント