ぶどうを一つちぎって丸呑みにした。喉を通りながら進む球体が、気道と大きさを同じくしてすっぽりと挟まった時、人は死ぬのではないかと危険信号を出して噎せ、気道を塞ぐものを飲み込むか吐き出そうとする。考えるよりも前に、反射的に体はそうする。死なないためにである。その狭間を楽しんでいると密かな楽しみを告白すれば、おそらく妻には怒られそうだからいつもこれが美味しいんだよと誤魔化していた。
 「でも、噛まないと」
 上官の娘である妻は穏やかにおかしそうに笑った。花の様に笑う女性である。その笑顔を守るために、またその笑顔で迎え入れられるために働いてきたという半生であった。その感情に間違いはない。イサオ・カワダとしてレールに乗った人生である。妻を迎え、娘が生まれ、息子が生まれ、もうそろそろ人生の中で何かを生み、育て、託し、遺すという作業の終盤に来ている。急に今までレールに乗っている間に背負った荷がすぽっと背中から抜け落ちて、突然自由になる感覚がある。
 「貴方も好きにしてくださいね。私も好きにするから」
 第二の人生という言葉通りに妻は穏やかにそう宣言した。浮気も不貞も無かった妻である。いつ帰るとも分からぬ夫を、次は遺体になるかもしれない夫を迎えるのにふさわしいほど、天からの作りがそうさせたのか!と思う程出来た妻であった。彼女が子供を抱えて信じて待つ時間はあまりにも長く、険しい物であったのだろう。もちろん好きにしてくれとカワダは言った。観劇が好きなの、だから行きたいわ。彼女の言う好きにする、はあまりにもいじらしくて愛らしいものだったので、もちろんだよとカワダは満面の笑みで見送っている。子供の手が離れたと同時に観劇狂いなんてと世間体が厳しくとも、少なからずカワダは妻の味方であったし妻に安堵を与えてやりたかった。結婚して数十年間出来なかったことだからだ。これからも出来ないかもしれない。だからいそいそともし、若い燕との逢引きであろうと送り出すのが残った夫の役目だと思っている。ぶどうをまた一粒ちぎって、丸呑みにした。妻は出掛けたので文句を言う人間はいない。子供は家を出たので誰もいない。今日は家にカワダ一人である。もしぶどうが気道に詰まっても、助けに来られる人物は一人もいない。きっと寂しく台所でもがいて死んでいくのだろう。いつも死と隣り合わせの業務にいるからか、死神が横にいたとしてもどうにも鈍くなってしまった。その鈍さを取り戻すかのように、カワダは妻にも言えない一つの愉しみのようなものがある。ごくん、とぶどうは胃に転がり落ちた。だから残りのぶどうは皿の上のまま、ラップをかけて冷蔵庫へ。帰って来た時の楽しみにして、カワダは出掛けることにする。ある愉しみの為である。
 「ハル」
 声と同時に駆け寄ると、キングは少し驚いたような顔をした。カワダはきょとんとする。彼の休日は特段今までと変わらなかったからだ。強いて言えば、出掛ける前にぶどうを丸呑みしたぐらいである。だから顔や体になにかおかしな点があったのかと、カワダは自分の体を見回してみた。
 「ああ、違うんだ。イサオの事じゃない」
 「そうですか。では、食事に行きましょうか。予約してありますので」
 カワダの手際は良く、キングを無駄に歩かせることもなく食事を追えれば近所のバーへ案内した。ショットグラスが小さく見えるキングの手を横目で眺めながら、カワダは期待と共にウーロン茶をごくりと飲む。バーが終わればキングのホテルで飲み直す、いや正確にはカワダの愉しみの為に出向くというのが正しいか。今日もである。マフラーを取ったカワダはうきうきとした足取りで、キングより先に部屋の中に入った。料理店でもバーでも、キングを先に歩かせたカワダにしては珍しい蛮行である。いつもは数歩後を付いて回るのに、この愉しみの際にはカワダが立場が逆転する。
 「イサオ」
 キングの声に、にこにこと振り返ろうとしたカワダの首が、返事を呟く前に急に現れた手でぐっと絞められた。おえ、とカワダのつぶれた声が漏れる。背後から全力で首を絞められたのだ。他らなぬキングの手に。ぎりぎりと締め上げる指が食い込み、気道が細くなり、苦しみで唾液がせり上がる。ぐぶ、ごほ、と行き場のない唾液が首のつかえている部分に溜まっているかのような嫌な音がする。実際は口から溢れ、カワダの口の端からこぼれおちているのだが。
 「ぐぇ、え…っ…」
 いつもの指導されたような首の締め方ではない。乱暴な締め方である。カワダはいつも、キングに気持ちの良い締め方を指南してきたつもりだが、今日は暴力的で粗暴で、あまりにも凶暴な締め方だ。死ぬかもしれないと思う程である。一人の人間の粗暴な力によって、命が失われる。そう考えた瞬間に、指の力がふっと緩んだ。宙づりまではいかないがつま先立ちになっていたカワダの体は、ホテルのベッドに倒れ込む。放り投げられたようでもあった。ひゅー、ひゅー、と息を漏らし、溜まった唾液がシーツや枕を濡らした。カワダが目もうつろな中で、大きな息を肩でする人物が一人。ハル・キングである。彼はカワダよりも大きく、ぜえぜえと息を漏らしていた。全力疾走をしたというよりも、嫌な力の発揮をしたという感じで背が丸まり、吐いた息の中にある残忍さに、後悔と懺悔が滲んでいる。暴力をもってして解決することを特段忌避してきたキングが、カワダに請われて首を絞めるという枠にはまった暴力を振るってきた。それが嫌になったのか、あるいは何かを伝える為か、自身に眠る凶暴性を叩き起こしてキングはカワダの首を背後から全力で締めた。それは揺るぎのない事実であり、嫌な感触がキングの手から腕にまで登ってきている。
 「ひゅ、ひゅー」
 「…すまない。だがこれが君の望んだことだ。おかしいんだ、こんな付き合い方は間違っている」
 そう言って正を説こうとしたキングの視界に、涙が目に浮かんでいるカワダの横顔が写る。
 何を言っている? そう言いたげな瞳だ。何の事情も知らない人間であれば、ただのうるんだ瞳だと言うことだろう。だがキングには違う。先程暴力をふるった人間に正を説くのは相応しくないと、カワダはまるで非難し、残った首の跡を見せつけるかのようである。実際はただ力なくカワダは横たわっているだけなのだが、キングは両手で口を覆った。後悔と自身の暴力性がせめぎあい、そうして力を奮うのは楽しいだろうと悪魔が囁く。そんな事を考えたことはここ数十年無いというのに、老いた悪魔が囁いている。
 かたや老いた天使が泣き叫んでいる。どうかお許しください、悪魔に付け入られましたと泣きわめいて神の許しを請うている。違うんだ自分じゃない、いや自分だ。カワダに引き出されたとはいえ先に暴力をふるったのは自分だ。だがカワダが引き出したのだそれは間違いない。この期に及んで他人のせいにするな!
 「すまない。…許してくれとは言わない」
 カワダが横顔で、許すようにほほえんだかのように見えた。キングははっとし、ほっとする。だがすぐにカワダは愉悦の笑みに変わる。老いた悪魔を誘うような笑みへと。
 「ああ、…よかった。たまにはこうしたものも悪くないです」
 「イサオ、何を」
 「私はあなたの手が好きなんです。このあったかくて大きい手が。…でもその手が暴力に染まった時、血に染まったりしたところを想像したら、もう。美しいとさえ思ってしまう」
 ころんとカワダが仰向けになった。カワダの顔を余すことなく見つめることになり、キングには逃げ場がない。カワダはうっとりとした顔だ。
 「そのお姿も素敵ですよ。私は満足してます」
 「…ブレイバーンの事で、少々気が立っていた。酒が入ってしまって」
 「分かっていますよ。貴方も私も、暇が出されるかもしれない。それは聞いています」
 「だからといって、君に当たったのは…愚かだった」
 「いいじゃないですか。私は頑丈なんです、妻も私もね、もう好きにしようねって言い合ってるんです。だから私だって、貴方に溺れても罰は当たらない」
 「…しかし、私は」
 カワダは目を細める。
 「貴方が認めてくれるまで、私は待っていますから。…はあ、良かった。ああいう激しいのも、今となったら気持ちが良くて」
 「しかし」
 「ハル。まだ時間はたっぷりあるんですから。私はいつまでも待ちますから」
 そう言うとカワダは起き上がったかと思うと、ベッドの手前で立つキングに近付き、その両手を取る。首にやるのかと思ったが、カワダの手はキングの手を下から支えるだけだった。ATFでも似たような状況だった。カワダはキングの優秀な補佐官であった。その光景を愛おしく思い、また踏み込んではならない境地に来てしまったとキングは思考を過去に飛ばそうとする。だがカワダの手がきゅっとキングの指を握り込んだことでそれは叶わなかった。カワダを見ると、にこにことキングを見上げて笑っている。
 「もう一回、してもらえませんか。さっきみたいのじゃなくて、気持ちが良いのを」
 逆らう気力はもうキングには無かった。再び寝転んだカワダに馬乗りになって、首を決まったように締める。とろんと溶ける瞳が、ぶどうの果汁のようにたらたらとシーツにこぼれた。
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