この物語はフィクションです。
現実・空想問わず、あらゆる物と関係がありません。
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『藤』
「残念ながら、金には欲望が付きまとい、それはつまり人間をひきつける。
人間がひきつけられるということは澱が溜まるということで、それはすなわちそういうことさ。」
そういいながら、少女はその美しい色の髪を撫でた。
その瞳はどこも見ておらず、ただ目下の男をいつくしんでいる。
「…だけれども、きっとお前なら大丈夫な気がするよ。
何の根拠もないけれど、不思議とそう思うんだ。」
そういって、静かにほほ笑んだ。
それがどういう意味なのか、当然彼は知らぬまま。
ーーー♡
赤黒いペンキのように、彼女のすべてが世界中にまき散らされていく。
それは宇宙を超え、次元を超え、夢幻を超え、いつしか、世界中のすべてにまき散らされていく。
それが、どうしてこんなに苦しいのだろう。
彼女の思いは果たされたはずだ。
年月にしておよそ20年以上。実際に費やされたリソースに関してはおそらくそれ以上。
総合して、人間が人生を作り上げていくのに十二分な時間の中で、それでも彼女が成し遂げたことは、それ以上の蛮行だった。
もしくは異形とでもいうべきか。
時期に、世界は変わるだろう。
徐々に、緩やかに、そしてどうあがいても取り返しがつかないほどに。
人々の持っていた「常識」というベールは、やがてその色を少しづつ替え。
彼女が愛した人々は、自分が持っていた布の内一糸が、すっかり色を変えたことにも永遠に気が付かないまま。
そうして少女はいなくなる。
この世界のすべてに、自分の愛したものすべてに文字通り自分をささげた少女の元には「何もなく」。
誰も彼女のことを思い出さないまま、常世の夜は明けていく。
そこに、一人の少年がいることにも気が付かないまま。
『―――』
世界中に塗りたくられたペンキには、世界中の誰もが気が付かない。
だから誰も思わない。
|どうして彼だけに、そのペンキが付いていない?《・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・》
その答えに、彼以外、誰もたどり着かないまま。
『―――』
彼女の顔は、どこにもない。
彼女の左目、その3分の1を遺して、彼女はもう、この世界のどこにもいない。
その3分の一が、自分のためだけのものと理解していてなお、少年は呆然とそこに座り込む。
「それがどういう意味なのか」。それすら、未だにわからない|■■《怪物》はただただそこに座りこむ。
どうして?とはいうまい。それがやりたいことだったのだろうから。
なんで?とも問うまい。現に、今ここにいる/帰ってきているのだから。
だから彼が問うのは別のこと。
どうしようもなく聞きがたく、だからこそ言えなかった、起った最後のひとかけら。
どうして。
なんで。
「おれのこと、今まで守ってくれていたの?」
どうして、今ここにいるの?
自分の人生のすべてをかけて、己の意地を通し、欲望さえ飲み込んで、最終的にここにいる、ということ。
それはすなわち、それこそ殺してでも、死んででも達成したかった念願の成就。
そこに関しては何も言うまい。人生の掛け方なんてそれこそそれぞれで、だからこそここにいるのだろうから。
だから、聞きたいのはそこではなく。
どうして、燃え尽きるつもりだったはずなのに帰ってきたのか、その一言。
ペンキは「彼女」を材料としている。
止まれば、彼女の本願は達成できない。
確かに今も、世界は少しずつ侵されて行っている。
しかし、それは彼女が満足する出来にはならないはずだ。
だってここに一部があるのだから。
世界中、どころか次元中、夢幻中すべてを塗つぶす彼女にとって、「材料」が足りないということは致命的なことのはずだ。
どうしてここに戻ってきたの。
其れだけが、目下少年を支配する、最大の疑問だった。
けれどそれは声にはならず、ただ嗚咽のように零れ落ちる水滴に邪魔されていく。
それはインクを流すことも、当然少女の血を流すこともない。
ただただ時間だけが過ぎていく。
少女が、そっと手を伸ばす。
まだかろうじて原型の残っているそこは、爆心地からある意味最も遠い箇所のうちの一つだ。
少女は、磨みのある、いまだあどけない少年の頬にそって、そうっと、もうほとんど肉の色に染まる手を動かす。
膿の一つ、焦げた皮膚のひとかけらだって、彼には付かない。
それを見ながら、少女は目を濁らせた。
「 、 ?」
喉が焼けた声のままで、彼女はそっとささやく、
ひどいもので、その時の少女の顔は、これまで見たどんな顔よりも美しい、花開くようなかんばせだった。
どれほど骨に皮膚の付いただけの黒焦げでも、どれだけ焼けただれた脂肪と皮膚の塊でも、残酷なことに彼女は永遠に美しい。
否。
寧ろ、今こそが最も美しいのだ、彼女は。
そんな彼女を見送りながら、少年はぽつりとつぶやく。
「うそつき。」
嘘ばっかり。
女はその言葉に、本当に美しく笑った。
―――★
『?』
嫌な夢を見た、と思った。
起き上がればそれだけで不愉快な湿気が付きまとう。
どうにも寝汗をバカ程かいたようで、服が張り付く感覚が気持ち悪い。
床に素足をくっつけて、■はぼんやりと下を目指した。
大概の夢がそうであるように、現実に戻ってしまえば、夢は夢でしかなく揮発していく。
■がキッチンに着くころにはもう、■は夢を見たということ自体忘れそうだった。
それが無かったのは、単に彼の喉が忘れることを拒んだからだった。
まるでなにか、おぞましいものを飲み込んだかのような苦しみが。
首をかしげて蛇口をひねり、水を出す。
その慣れ親しんだ一連の動きにさえ、どこか違和感がある。
どうしてだろう、重症だな。
そう思いながら、■は蛇口をしめて、ふと傍にあるまどをみた。
今思えば、どうしてこの時、わざわざ「振り返った」のか。
■は自問さえすることなく、本当にごくごく自然にそうした。
そうして、そこに立っている人影を見た。
恐らく、もし■がホラー耐性クソザコであったのならばここで跳ね上がって悲鳴を上げていただろう。
そうでなくても腰を抜かす程度のことはしていたかもしれない。
それくらいデカく、大きく、一見する限りでは人影というよりは建築物の様相を呈していたからだ。
心霊とかいうことを除いても、本能的な生命の危機を感じるほどの「圧」がそこにはあった。
それでも、■は何もしなかった。
ただ茫然と、それを見ていた。
それが、なんなのか。
■は覚えているようで、やっぱり覚えていなかったけれども。
それがほほ笑んだように、少なくとも■は見えた。
数舜後。それこそ、一秒なんて言葉が悠長に感じられるほど刹那の間に、彼女は姿を消した。
夜の静寂が、静かにそこに横たわっている。
■は静かに息を吐き、持っていたコップを机に置き。
そして、へなへなと、今度こそ確実に近くの床に座り込んだ。
「な、な、な」
何だったんだ、今の。
その言葉とともに、ふと安堵のため息を漏らしたことを、もちろん■は自認しない。
それは、まるで遠く離れた人の便りを受け取った時のようなほほえみだった。
夜の静寂に遭いましょう。
それはそれとして怖すぎたので、そののち、窓の周辺には入念に塩をまいた。