落雁を口いっぱいに頬張って死にたいと思った。それほどまでに深く深く飢えていた。口の中の水分をめいっぱい吸って噎せながら、からからになった喉に甘い物が否応なしに覆って甘い香りに包まれながら、もがきながら死にたい。そのひそやかで狂った願いを神に祈った。紙に書いて髪を備えて神に祈った。だがそれでも叶うことはついぞなかった。死の間際はひどい飢えに襲われ、血が口いっぱいに広がったまま死んだ。刀を手放さなかったのは覚えている。指先にごつごつとした柄に束ねられた糸を感じながら、その感触が無くなったのがちょうど迎えた死であった。目を覚ますとそこは天国のような光景が広がっていた。華やかな服装に身を包んだ女性たち、穏やかな顔をした男性達。浮世離れした輝かしい装飾に彩られた社に、平和そのものでる賑やかな商店が立ち並ぶ。そこに放り出され、まるで場違いだとカタバは自分の手を見やった。着古してくたびれた生地はみすぼらしく、この華やかさと無縁だ。ふと背後に何の気配も感じなかったのに、穏やかな女性の声がした。
「これは珍しいですね。神域に紛れ込むなんて」
「しんいき?」
当時のカタバには当てはまる言葉が脳内に無かった。だから子供のように繰り返す。自分は奥深い山の中で野垂れ死んだのだとばかり思っていて、人の恨みを買い、斬って斬られての人生だ。覚えているのは血を吸うと言われた妖刀が手に馴染んでいることぐらいだ。死んだのに紛れ込んだとはどういう事なのかと小柄な女性を見やる。人殺しの眼光にも怯えず、ナユタは穏やかな姿勢を崩さない。
「貴方の魂はその妖刀に負けなかった。普通の人間であれば乗っ取られてしまうでしょうに、貴方は使いこなしていた。その腕を見込んで、頼みがあったのですが、紛れ込んでくれたのは僥倖と言えるでしょう」
「なにをごちゃごちゃと」
「では説明しますね。ここは貴方のいた人間の世界ではありません」
「なんだと?」
「八百万の神々が住まう世界です。貴方は神に祈ったことがあるでしょう。その神がいる世界ですよ」
うすぼんやりと遠くなる人間だった過去で、彼は一度だけ街にある華やかな神社の賽銭箱を断ち切ったことがある。乱暴者、狼藉者とさんざ暴言を吐かれたがカタバは賽銭に興味は無かった。ただ鏡だか像だかが、生きている人間よりも良い暮らしをして、着飾っている事が気に食わなかったのだ。ご神体も切ってしまおうかと考えたが、後ろから何でも好きな物をやるから勘弁してくれと身なりの良い老人に頼まれ、饅頭やら食べ物をかじりながら社の中にどっかりと腰掛けた。その時、恭しく祀られている鏡に気まぐれに祈ったことがある。神なんざいるのなら、俺を強くしてみせろと。その願いがかなえられたのか、のちにカタバの手元には件の妖刀が舞い込んで、彼は呪いなのかも判別の付かない恵みを受けながら大いに人を斬った。ナユタはその腕を見込んだという。カタバは、いや生前はカタバでは無かったのだろうが、もう人間の時の名前を忘れていた。ナユタは神になり、神や人に、この世の全てにあだなす古き神々の討伐の為にカタバを引き抜きたいと言う。妖刀が彼を神の世界にまで引っ張り上げたのかもしれないが、詳細はそうだった。是非もない。人間の名と人間の生がうすぼんやりと忘れているが、カタバが覚えているのはひどく強い渇望だけだ。それを満たすための戦が出来るのなら、神になることを了承した。カタバ・フツガリの名前が与えられ、刀の扱い方以外の教育を受け、戦神の下に就いたのは人間の世界でいえば十年後の事だった。ナユタはすっかり落ち着いたカタバを、戦神だけが着る制服の帽子を規則通り深くかぶる彼を見て満足したように微笑む。
「見事です。貴方への私の教育は終了しましたが、ゆめゆめ鍛錬は忘れぬように」
「かしこまりました」
神になってからは人間の粗暴な、野犬のような生き方はだんだんと忘れてしまった。神輿に担がれ、人間に新たな神の到来だと祭り上げられて、なんとも言えないくすぐったいような感情を覚えたのは生々しく覚えている。生まれて初めて、自分以外にまっとうに求められている気がした。その充足感が、神として人間の信仰を獲得し人間を愛するものへとカタバを変えてくれればよかったが、泥水を啜ったことがある者の渇望はそう簡単には癒されない。人間だった時に、飢えて人を斬った感触を今でもたまに思い出す。カタバは目を開いた。そこは自分の社である。頭領である自分には満足のいく美しい着物に、豪華な食事、そして豪華な社が与えられている。どれも神として邁進した結果で手に入れたものだ。だがそのどれもが渇きを満たしてはくれなかった。人間だった時の欲望に振り回されるなどの神としては未熟だと誹られようとも、この渇望を満たす手段をカタバ自身がずっと探している。人間だった自分の名前も、生き方も何もかもを失ったこの身に、まるで月に向かって吠えるような虚しい衝動だけが遺されている。その存在にナユタが気付いているのかは分からない。もしかしたら気付いた上で、彼女は自分を泳がせているのか。そう考えても、突拍子もない考えだ。太陽神の考えることなど分からない。過去に人間であった自分には。
そんな彼女にも言っていないが、カタバはもう一つ覚えている事がある。人間を捨てて神の世界に来た頃の、みすぼらしい自分が突然充たされた世界に迷い込んだ時の恥ずかしさを。自国は荒廃しているのに隣国は平和であったかのように、その差に愕然として、あまりにも煌びやかな神々への人間だった者の怒りを。神でありながら神を憎むような矛盾を。その矛盾の中で彼という神は生きている。
「どうしたの、眠れない?」
途端に穏やかな声がした。声の方に目をやると、黒猫の魔法使いが寝台のそばに立っている。彼が半裸なのは二人がただならぬ関係であることの象徴だろう。一方のカタバは簡素な寝間着をまとっているが、いとも簡単に手ではぎ取れるようなか弱さだ。気の置けない人間の前でなければ着ない。カタバは膝を立てて頬杖をつくと、寝台の横にある窓から外を見やる。穏やかな星空が広がっていた。
「人間だった頃を思い出した」
「そうなんだ。神様も前世があるんだね」
「犬ころみたいな生だった」
「犬みたいな? だったら連れて帰れたのになあ」
穏やかな口調の誘拐宣言である。魔法使いとカタバは、それぞれ違う世界の住人である。黒猫の魔法使いのほんの少しの特殊な能力によって、たまたま出会ったに過ぎない。そのほんの少しの特殊な能力でもたらされた縁は、普段は引き裂かれているのだけれどいつかは世界を乗り越えることを魔法使いは画策している。カタバが犬であったのなら、そんなもしもに彼の濃縮された願望が詰まっている。いっそ攫ってしまえたらと。普段は異界の救世主で圧倒的善である魔法使いの闇のような言葉に、カタバは思わず笑ってしまった。この渇望を止める手段を魔法使いが持っているわけではない。だがいつかこの渇望に身を亡ぼすのなら、その時は魔法使いに刺されることを切に願っている。