項垂れている訳でもないのに、不意に地面に目をやることがある。暑い日差しを避けようとしてあるいは滲む汗を厭うように、ふとアスファルトや砂利の道に目をやる事がある。そこに蟻が一匹だけいた。黒いからだでジグザグと、地面に奇妙な図形を描きながら歩いている。ふと目に入ったのはたった一匹だった。仲間がいないので偵察に出ているのかもしれない。あるいは運搬の途中なのかもしれない。その健気さがふとした自分の心にいみじくも慈悲を与えたので、避けて歩いてやろうと思った。蟻にとって自分は、天から降る台風のような竜巻のような得体のしれない災害である。だがはたと考えてみるとかえって避けるのが難しいので、自然に歩いていればきっと蟻は避けてくれるだろうと思った。それが自然の在り方だからだ。だが人間は蟻を見つけてしまった。蟻は気付いているかもしれないが、見つかっても堂々と歩いていた。人間は無意識に、あくまで蟻に気付かないふりをして自然に地面を踏もうと努めて試みたのに、かえって、蟻の真上に足がずしんと乗ったことに気が付いた。蟻の姿はそれ以降見ていない。不意の瞬間だったので、もう蟻に構っていられなかったのだ。ただ。もしかしたら、蟻をきっと殺したんだろうと小さなほの暗い影を抱えた。独りぼっちの死は、きっと悲しい事だろう。だが悲しき哉、人間の目に蟻の死体はあまりにもちいさくて、見つけられない。
ゾルダートテラーの襲撃を防いだ人類にはやる事が山積みだった。負傷者の安全確保、生存者の救助、死傷者への安寧。国境を越えて活動する彼らは皆悲痛さを押し堪え、気丈に振舞って仲間を、死者を見つけていった。助かるのかとコワルスキー中尉に尋ねて弱音を吐いた兵士は、それ以降口を閉ざしてしまった。目にガーゼや包帯があったとて、人々の叫びと怒号はどこに行っても分かる。ニーナはもう大丈夫だと彼に笑いかけたが、乾いた笑みが戻るだけで傷は深いようだった。オアフの地の残ったのは疑念と混乱である。キング司令官が連合軍を纏め、ブレイバーンを見極めるために適切に司令部を動かしているのが分かったが、そこに正解などは無かった。誰が正解を持ち、誰が不正解を持っているのかも分からない。焦りと歯がゆさと、悔しさと死者への悼み。追悼はすぐに行われた。管制塔に放たれたレーザー兵器のせいでか、人体を留め置いていない人間も大勢いた。いったい何人が生きている証をロッカーや母国にだけ残して蒸発してしまったのだろう。考えると、蟻を踏みつぶすようにあの機械生命体達は人間を潰していったと言える。巣に無邪気に水を注ぐ子供のように。追悼の花束は数が足りなかった。物資がそうある訳もないからだ。悲痛な面持ちを浮かべたまま存分に悲しんだ後は、連合軍としての体制を整える。その最中の、ほんの少しの眩暈だった。
ふっと頭の血の気が引いたのがサタケには分かった。ああこれは倒れると思ったが意識のあるまま、まるでジェットコースターのように体がぐらんと倒れ、目の前が暗くなるのだ。幸いにも倒れる直前は急速に意識を飛ばして、聴覚も視覚も消えてしまうから、サタケの意識は突然暗転しただけで済む。だがサタケの体は無事ではないだろう。じわじわと血流が戻り、黒幕に圧迫されていた視界が開ける。その前に、カーテンコールが聞こえた。
「サタケ二佐。…サタケ二佐」
「…すまない。目がかすんだようだ」
壁に押し付けるようにして倒れ込んだらしい。プラムマン上級曹長が目の前にいる。その横には自分の手が壁につっかえになっている。まるで壁際にプラムマンを押し付けたような格好だ。咄嗟に手をつっかえにした自分を褒めたたえたい。くらくらとした頭に血の気がじわじわ上って行って、ようやくサタケは手を離すことに成功した。
「君を壁際に追いつめられるとは、私も少しは成長したのかな」
「ご冗談を。私はとっくの昔に貴方に勝てませんよ」
「それはずいぶんと謙遜だな」
サタケは笑う。二人の出会いは幾ばくかの昔に開催された合同演習でだった。まだもう少し若かった。その時に気が合い、プラムマンには可愛がってもらった記憶がサタケにはある。その時に抱いた幾ばくかの恋情も覚えている。現実を見やれば山積みの課題に目を逸らすほど互いのキャリアは捨てがたく、また二人は各々の仕事を深く愛していた。どちらかが捨てるなどという選択肢は、今も持ち合わせていない。だから目を見つめて、何か言い出したいことがあっても、結局プラムマンの手が頬に添えられただけでーーそのまま何事もなく道を分かれた。あの時よりもお互い年を取ったが、面影も声も何もかも鮮明に覚えていることに自分でも引きずっているんだなと苦笑しながら、サタケは自室に送られる。休めと言うことだろう。サタケは後ろに控えているプラムマンを振り返った。
「付き添ってもらって悪かった。君も、無理はしないでくれ」
「お気遣い感謝します。ですが私は、死神がもうすぐやってくる老いぼれです。最後の最後まで相勤めます」
「不吉なことを言わないでくれよ。…せっかくの再会だ。君が生きていてくれて良かった」
本心から出た言葉だった。躊躇いなく投げ出すべき命である。今回はたまたま死神が微笑まなかっただけだ。この戦禍で、見知った顔がいてくれる事にどれだけ心を助けられたか。目まぐるしい日々の中で意思を保ち続けられたのは、あの時勇気を出さずに取って置いた純粋な感情だけだ。それを口に出せば情けないなと笑われるだろうか、昔のように子供にするようにぐしゃぐしゃと頭を撫でて、それで。演習の時に響き渡る雷みたいな声がやさしくて。
「生きてみるものですな。私も貴方に会えてよかった」
サタケのどこかが小さく痛んだ気がした。先程無意識に壁際に追い詰めた時、プラムマンの中でも心境の変化があったのだろうか、彼の声音が子守歌でも囁くようにやさしい。
「地獄の入り口でもお供しましょう。それしか、きっと私達には残されていない」
生き残った者として、あるいはしまい込んだ恋情が再び燃え上がらせないように現実という重い蓋をして。喉までやって来ている痛みを飲み込んで、サタケは微笑んだ。
「そうだな。きっと私達には残されていない」
頬に手を添えられるかと思ったが、サタケの意に反してプラムマンの手がぐしゃぐしゃとサタケの頭を撫でる。この戦場がきっと人生の最後に残されたバージンロードなのだ。その手を取って歩き出すのは、死を迎えて最後の審判までの短い間だけだ。その瞬間だけの体温だけを、きっとサタケは覚えている。