彼はウインナーコーヒーのクリームを掬って口に運んでいた。甘党でしてねと呟いたその口は、今のように髭で覆われていなかったので分厚い唇がよく見えた。甘いクリームを丁重に救う。大きなスプーンではない。混ぜることを目的としているような小さな小さな匙である。その匙で、クリームを崩さぬよう、一口、一口を運ぶ。そんな場面に立ち会ったのはかなり前の事だ。一度だけの機会である。その何気ない場面を覚えているのは、彼が甘党だと知った日だからだろうか。
「貴方をお慕いしています」
何かの間違いだろうと思ったので、サタケは聞き返した。恋情の告白にしてはあまりにもあっさりとした、それでいて口調はしっとりとしていた。その舌には湿度が乗っている。だからサタケは困惑していた。
「まさか。君がそういう冗談を」
「冗談ではありません。残念ながら」
「もう私は、俺は四十を手前にしてるし」
「私は五十を手前にしています」
「でも」
年齢を持って諦めさせるのは手だが、残念ながら告白してきた相手が年上なのだ。この手は封じられている。こうなると正攻法であろう。まったくその素振りは無いという事を分かってもらい、諦めてもらう。だが大人が抱く恋情とはどうしたら諦めがつくのだろう。ただでさえ実戦経験が無い指揮官として振舞う中でその補佐となるべく男に恋情を告げられて、今サタケは頭の整理が付かない。
「すまない。この問題は保留にさせてくれ」
「イエッサー。それでは次のブリーフィングの件ですが」
プラムマンは冷静だった。何でもないというように業務の話に戻って来る。その温度差に混乱するのを押さえ、白昼夢なんだと言い聞かせてそのまま業務に打ち込む。プラムマンの補佐は見事な手際だった。だから問題は無く時を共にする。まるで何も無かったかのように二佐との補佐をする彼に、ひと悶着も何も起きずにいる。疲労でくたくたになった時は睡眠時間確保に動いてくれるし、酒にも付き合ってくれる良好な関係にある。その片隅に、あの一言が無ければこころからこの実戦経験豊富な男を頼れたのだろう。だがそれだけである。無闇に迫る事もしないし、好意をこれ以上伝えることもしない。サタケが口を開かない限り、この問題は無かったことにしてくれている。それがかえって心に残る気がした。
「いつからだったんだ」
酒の勢いで尋ねてみた事がある。どうして尋ねたのか、それは自分でも分からなかった。
「さあて、どうでしょうね」
「それは狡いだろう。君から言ってきたのに」
「それを知って、あなたが変わる勝算があればお話しします」
「勝算か」
ということは、彼はまだ諦めていないという事だろうかと薄ぼんやりと思う。クリームがひとくち。
「もう恋愛の仕方なんて忘れてしまったよ」
「それはお寂しい」
「この仕事が楽しくてね。時間を忘れてしまった」
酒が回ってついつい口を滑らせてしまったが、この気の置けない会話ならいいだろう。プラムマンは粛々と酒を傾けている。だからサタケは呟く。
「君にそんなロマンチストの気があるとは思わなかった」
「そうでしょうな。私でも驚いていますよ」
「よりにもよって俺なんて。若い未来のある人間を選ぶべきだろう」
「若い人間の未来を、私の為に潰していいはずがないでしょう」
「俺の未来は潰してもいいと?」
「いえ。失言でしたな」
「いいんだ。俺の未来はだいぶ狭まっているからね」
「そんな事を言うものではないかと」
サタケは酒をあおる。酒が回って少しずつ理性の幅が狭まり始めたせいか、自嘲めいた言葉が漏れ出てきた。
「俺を選んだ理由は、若者よりもましだからか?」
「そんな理由ではありません。少なくとも明確には」
「だったら、いつなんだ」
「管を巻くな。飲み過ぎだぞ」
「それを聞いたらお開きにする」
プラムマンは少しだけ片眉を上げてサタケを見やる。泥酔ではないのを確認しているようだ。
「お前がひよっこの合同演習の時から」
随分前じゃないかと言い出そうとして、その重みに気が付かないふりをしたかった。だから聞き流すことにしたのだ。水を手渡されたのでそれを飲み、サタケはゆらりと揺れる頭に酔いを感じながら眠る事にした。
クリームをひとくち。無謀にも濃霧の中を出撃したサタケを出迎えたのは、懲罰でも叱咤でもなかった。ことさらプラムマンに叱責されるものと思っていたのだが、新兵のようにあたたかな愛の鞭は降って来なかった。
「君に叱られるとばかり思っていたんだが」
「今の貴方にその必要はないでしょう」
「あんなに引き留めたのに、か?」
「本望だとおっしゃる上官を、わざわざ引き留める馬鹿はおりますまい」
その言い方には少々の引っ掛かりがある。上官の本意を汲み取るのが下士官の務めだとでも言いたげである。だがそれがプラムマンの本意であるかと言えば、きっとそこには溝があることだろう。
「君はどう思ったんだ」クリームをひとくち。
「どうと仰られますが、私は引き留めた通りです。貴方を失ってはTS部隊はおしまいだと」
「そうじゃなくて、君個人が俺を好いているのは知っている。その君個人の意見はどうなんだと」
「それは今、必要でしょうか」
プラムマンのもっともな言い方に、サタケは返答が難しかった。プラムマン個人の意見など、この戦局においては必要がない。その文言通りであり、それ以上に何も発生しない。だがサタケは妙にその個人の意見が聞きたくなっていた。
「必要だ」
「無事で安心しましたよ」
ほほえみ慈しむような瞳を向けられ、心から安堵しているその顔を見て、サタケは何故か虚を突かれた思いになった。まるで叱責されたかったかのようである。情けなく泣いて縋りつかれているのを想像して、この男がそうしている姿が一瞬だけ思い描けるものの、どれもしっくりと来なくて想像は現実に負けて消え去っていく。その慈しむような瞳が、諦観を含んでいるのではないかと思うと心が僅かにざわめいた。クリームをひとくち。
「クリームを全て食べてしまうのですか?」
若いサタケは面白がるようにプラムマンにそう言った。小さな匙がクリームを少しずつ削っていく、まるで一つの塔の崩落を眺めるかのような気楽な立場で面白がっていた。そうですねとプラムマンは言う。
「このやり方が好きでね」
「ケーキを食べるのではダメなんでしょうか」
「このクリームが特別なんだ」
そういうものだろうか、サタケは甘いものも嗜むがそのクリームの差異はよく分からない。ケーキに使われる生クリームと、ウインナーコーヒーの生クリームとでは何が違うのだろう。その疑問を今更ながらに思い出した。明日にも戦死するかもしれないこの戦場で見る、のんきな夢として。サタケは寝室で体を起こす。身体を横たえて眠るのは久しぶりだ。人間らしい休息で思い出されるのが、あの会話だった。小さく息を吐く。ずっと自分でも押し込めていた感情が発露しているのだろうか。クリームをひとくち。その分厚い舌が、まるで舐め取るように肌をざらりと滑って、甘いものであるかのように口の中で堪能するのを想像して、もう戻れない所に来ているのを知る。クリームをひとくち。
「本国に戻ったら、離れ離れになるだろう」
現実的な提案をすれば彼の気分が収まるのだろうとは到底思えなかったが、それでも口にしてしまうのは大人の侘しさか。若さで全てを突き通す自我が少しずつ薄れ、組織の一員としての自覚があるせいで足が重い。今いる場所から、新たな物を求めて出掛けるのは勇気のいることだった。ブレイバーンが、イサミが、勇気を奮い立たせて世界を救ったのはつい先日の事である。だからこの時くらいしか、プラムマンと個人の会話をする時は無いと思って部屋に呼んだのだ。
「互いが傷付くだけの恋なんて」
「その勇気が、あなたには無いと」
「勇気か。確かに、強大な勇気を目の前にして臆病風を吹かせるのは滑稽だな」
「皆が皆、勇気を持てるわけではないでしょう。人類の発展には、勇気も臆病もすべてが必要だ」
「その臆病に吹かれて、無かったことにするのは難しいだろうか…?」
「考えてはみたのですが。恋とは根深いようでしてね」
プラムマンは淡々とした口調であったが、この時はまるで他人事のようにやれやれと呟いた。サタケはつい笑ってしまう。振り回される感情に身に覚えが無いわけではない。クリームをひとくち。
「忘れられたらどれだけ良かったか。運命とは残酷ですな」
「そうか。でも勇気を以てして乗り越える物に、興味が湧いているんだ。不思議なことにね」
サタケの言葉にプラムマンが驚いたような顔を向けてくる。クリームをひとくち。
「もし私が君を受け入れたら、君はどんな風にしてくれるだろうと…」
それだけ呟いた時には、顔を真っすぐに向けられなかった。プラムマンが近付いてくるのを感じる。好意を持った相手を部屋に招くのは、今までは思慮と理性によって危うさから遠ざけていたはずだ。だが今はサタケが歩み寄ろうとしている。俯き、少しだけ身構えているとその手が背に回り、抱き締められた。温かい手だった。年齢相応ではない温かさは、自分の体温が反映しているせいかもしれない。
「いきなり襲うような野蛮な男だと思っていたか?」
からかうような声が聞こえ、サタケは息を吐いて体の力を抜くとプラムマンの背に手を回した。
「そうしてくれる気はしたんだけどな。予感が外れた」
「二佐殿の予測を外すとは、敵ならば多大な戦果を与えられたでしょうな」
「敵だなんて言わないでくれ。君に砲口を向けたくはない、考えたくもない」
「しばらくはそんな事は起きないでしょう。我々が退官するまでは」
「そう願いたいものだな」
くたりとクリームがコーヒーの中に倒れた。溶けるように沈んでいくのをスプーンで急いで掬っていく。その様がちょっとだけおかしくて、笑いをかみ殺したのを思い出した。