目の前に起きた現象が、手品か何かだろうと思った。場を和ますための嘘だろうと。だがこの緊迫した空気の中で、その選択を目の前の男が取るとは考えにくい。サタケが花びらを吐き出した。所用があり、サタケの自室に足を踏み入れた時である。声を掛けられて振り返り、プラムマンを見やった時にそれは起きた。床にひらひらと舞っていく、色とりどりの花びら。そして生花がずうるりと喉から吐き出される。色鮮やかなそれは、あまり空母では見ることのないものである。だからだろうか、プラムマンの手は思わず床に落ちた一本の薔薇に伸びていた。それをサタケが鋭く咎める。
 「触るな! 触らないでくれ…頼む」
 その剣膜の間にも口の中からひらひらと花弁が零れ落ちて、手品であるにしてはあまりにも多い量を仕込んでいる。だからこれは、誰かを楽しませる手品ではない。奇病であろう。その詳細はサタケではなくコワルスキー軍医から聞くことになった。嘔吐中枢花被性疾患が正式名称であり、吐き出された花に接触すると感染する。だからサタケの咄嗟の叫ぶような声は、感染を恐れての事だった。ある者の隠された病について、少ない人数が共有することは組織においてよくある事である。プラムマンは見てしまったからという事で、サタケの奇病を共有するに至った。説明は簡素だった。感染源は吐かれた花。その花に触れなければいいこと。症状は花を吐く以外には存在しないこと。そして根本的な治療法はないことなど。花を吐く場面に立ち会ったのなら、医療用マスクにゴム手袋を用いて速やかに花を回収することを申し付けられ、それからの日常に特に変化は無かった。花を吐く場面は予測できないが、ある程度心得ているのかサタケは人気のない場所で嘔吐し、補佐であるプラムマンはその動きをよく掴むことが出来た。花を片付けて念のためのアルコール消毒を用いて、回収した花はコワルスキー軍医の元に持っていく。だが途中から、花はそのまま処分することになった。研究するのに、この戦場はあまりにも手一杯であるからだ。負傷者に対応する彼女の負担を減らすため、二重三重にも袋をまとめた花は焼却処分されることになる。その置き場に、サタケの部屋が挙げられた。だが戦況がころころと変わる場面で、焼却処分の手はずにも手間取って、次第に花が部屋を彩るようになった。
 「甘い香りがするんだ」
 男の部屋と思えないだろう、とサタケは自嘲する。ビニール袋に入れられた花は、甘い香りを放っている。いい匂いであるが、生花は水に生けられもせずにただ袋にまとめられているからか、次第に腐るか枯れていった。枯れた物からも香りは放たれる。少しずつ焼却処分は進められたが、戦場においてこの作業に対する優先順位はあまりにも低い。水分が多く腐った花の袋を覗き、プラムマンは眉を顰めた。
 「火でも起こせればいいんですが」
 「それでも、場所の許可がいるだろう。仕方ないさ」
 「病を治すことは出来ないのですか?」
 プラムマンの問いは正常な物だった。病さえ直してしまえばこの花の在庫はこれ以上増えることは無い。だが完治するのには、何か他の方法が必要だと軍医から聞いてはいた。だからサタケに尋ねたのだが、彼は歯切れが悪いながら答える。
 「完治の方法は…特殊なんだ」
 「どういったものでしょう。私にお手伝い出来ることがあれば」
 プラムマンはそう言って何の気なしにサタケの肩に手を掛ける。その途端、サタケはパンジーを吐き出した。床に落ちた花を片付けようとするが、触らないでいいとサタケは制する。
 「すまない。君に見せるつもりは無かったのに。背負わせてしまって」
 「気に病む必要はありません。病は誰にで平等に訪れます」
 「…そうかもしれないな。でもそうじゃないんだ」
 サタケの言葉はやはり歯切れが悪い。プラムマンは訝しげだが、これ以上聞くことが出来ずにその場は引き下がった。ハワイを出発した空母から日本へ、日本からヨーロッパへ。そしてまたハワイへ。目まぐるしい変化の中で、サタケは指揮所に詰めることが多く、TS内では吐き出さないという徹底ぶりであったので、感染が広がったという話は聞かない。目下の目標は、サタケの病の完治である。だがその目途も立たずにハワイに向かうことになった。
 「花は海に撒いてはいけないかな」
 「野生動物への影響が分からぬ以上、国際法に抵触するでしょうな」
 「それもそうだな」
 吐き出すという行為は、多少なりとも人間の体力を奪う。嘔吐するのは身体への害のある物を排出するための生理的な行動である。本来の人間であるなら限定的な行動であるはずだが、それが定期的に訪れるのは少なからずサタケの気力を奪っていた。どことなく寂しげに、何かを諦めているようにサタケが自室で俯く。その横で、プラムマンは控えていた。
 「完治の方法をお伺いしていませんでしたな。今なら教えていただけますか」
 サタケは黙っている。病の事で相談があるとサタケに言われ、部屋を訪れたプラムマンに対して何故か彼は黙っている。それほど言い難いことなのだろうか。プラムマンはただ黙って待っていた。
 「…君には愛する妻子がいたな」
 「今は貴方の話でしたが」
 「本国の彼らとは連絡を取り合っているのか?」
 サタケが静かにこちらを窺っている。プラムマンは答えなければならないだろうと思い、そうですねと濁した。
 「そう、だよな。実は…この病は、思春期の女性に多い病気なんだ」
 「ティーンの、ということですか」
 「片思いをこじらせると、花を吐くんだ」
 サタケは何でもないように言ったが、その言葉にプラムマンは目を見開き、そして怪訝な顔をした。
 「貴方が……?」
 「忘れてくれればいい。でも治る見込みはきっとないだろうし、言っておくよ。この病の完治には一つだけ方法がある。片思いを成就することだ。……君のこころをかけらでも、一瞬だけ俺に向けてくれないかな。それで治るはずだから」
 「…………」
 答えないでいるプラムマンに、サタケは力なく微笑むと退出を促して来る。
 「話は以上だ。忘れてくれ」
 「失礼します」
 プラムマンは静かに部屋を退出していく。扉の隙間に見えたサタケはうなだれているように見えた。だがそれもきっと忘れろとサタケは言うだろう。そう解釈して静かに部屋を離れることしか出来なかった。次に会話を交わしたのは、しばらく経ってからであった。
 「まだ花を吐きますか」
 「そうだな。君も忘れてくれ。このまま本国に帰るよ」
 「ずいぶん前に聞いた噂だったんだろうが。私はとうに離婚している」
 サタケから少しだけ顔を上げたのが分かった。
 「娘も息子も手が離れているし、妻には悪いことをしたが、そこまでの付き合いは無い」
 「…そうだったのか。そうか」
 サタケの声音は、少々の気恥ずかしさを含んだ声だ。その途端、嘔吐感が込み上げたのか花を吐き出した。夜闇の中で分かる、赤い薔薇だ。
 「病はなる者を選ぶという話があります。自身を責めるのは、病にはよくないかと」
 「そうかもしれない。でも部下を失って、それでいて色恋が頭にあるなんてあまりにも滑稽だろう。だから自分の毒は自分で飲むしかないんだ」
 「心をむしばむ毒は、身をむしばむよりも毒性が強いでしょうな」
 「その毒を治す方法は無いんだ」
 「…愚か者には、その毒が相応しい」
 俺が愚か者か、と自嘲したサタケの頬にプラムマンの手が添えられる。思わず顔を上げると、二人は瞳がかち合った。
 「共に飲んでやると言うのなら、…どう思う?」
 サタケに嘔吐感が込み上げてきた。夜の中に、白銀色の百合がぼたりと床に落ちる。その嘔吐感を皮切りに、爽やかな風が吹いたように胃腸に埋まっていた思い花の山が消え失せた気がした。年甲斐もない。同情かもしれない。だがその手に縋りついてみて、拒まれなかったのでプラムマンの手に一筋の涙が零れ落ちるのだった。
 「愚か者か」
 サタケの声音が少しだけ笑いを含んでいる。泣きながら笑っているのだろう。
 「お互い様だな」
 「そうだよ。君は、愚かだ」
 そう言いながらも笑みが口元に浮かぶのが止められない。やわらかい口づけをして、この先は枯れた花のみぞ知る。 
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