その日の仕事を終えて帰宅したアベンチュリンは、疲労を呼吸に乗せて深く吐き出しながら自宅のソファーに体を預けた。意識して力を抜こうとするが、全身に満ちている緊張がそれを阻害している。いまだに左手は震え続けており、体も心も、大きな賭け事が終わったとき特有の、あの空虚感に包まれていた。
――疲れた。
カンパニーの財として回収されたとある惑星が、報告すべき数字をごまかしていることが発覚した。それだけならまだいいのだが――いや、厄介な仕事になると言う意味ではなんにもよいことなどないけれど。――今回はそのごまかしている数字の差が、とある犯罪組織に流れているということまでセットで判明した。しかもカンパニーの名で献金しているというではないか。
これは琥珀の王の沽券に関わる一大事である。徹底的に粛清し、制裁をくわえて、二度と間違いを犯さないように分からせてやらねばならない。重要度も危険度も飛び抜けて高い案件であった。
そしてそういう案件は、たいていアベンチュリンに回ってくる。
証拠を集め、時期を読み、決して逃さぬように人員を割き、けれど間違っても人的被害など出ぬように場所を選んで相手の心理と状況を誘導し――…………。
結論だけ言ってしまえば、すべてがすべて、一事が万事うまくいった。ギャンブルに興じる狂気的な“アベンチュリン”のブランドは保たれたまま、ぎりぎりな綱渡りのバランスで物事を進め、少数の軽傷者は出たものの致命的な損失を被ることなく、カンパニーの利益を勝ち取ったのだ。ピノコニーのときとはまた違った難しさをはらんだ案件だった。
ぼぅ……と天井を見上げる。
1回、2回、3回……と意識してゆっくり瞬きをする。
長期の案件だった。ずっと重圧を感じていたし、ずっと緊張していた。
けれど、それももう終わった。ぜんぶ、終わったのだ。
――逢いたいな。
そうなると、次に脳裏に浮かぶのは愛しい人のこと。
――星に逢いたい。
夜の光をまとった灰の髪。星そのものを閉じ込めた金の瞳。薄い表情が時折溶けるようにほころぶから、それを見るたびアベンチュリンの中にある頑なだったなにかが一緒にとろけるような心地がして、穏やかな気持ちになるのだ。
変に聡いところがある彼女だから、今回の案件については教えていない。下手なことを言えば「手伝う」だとか言い出しかねない。それは困る。だから「しばらく大きな案件に関わるから、連絡がとれなくなる」とだけ伝えて、以降は意図的にあらゆる接触を絶っていた。
そういえば。案件に着手する前に「この日も仕事になりそう?」と尋ねられた日がなかっただろうか。そのときはただただ漠然と大きな仕事になるとしか言えなかったために、返事に悩んだ覚えがある。結局「今のところはなんともいえないな。早く終わるように祈ってくれよ」などとごまかしてしまったのだが。
――今日がその日じゃなかったか?
星が珍しく予定を聞いてきた日。おそらく、なにかしらの意味があったのであろう日。
時刻を見る。だいぶ遅い時間だ。あと1システム時間と少しで日付が変わってしまう。
ほとんど無意識のうちに取りだしていた端末を眺めて、しばし考える。今から連絡をしたとして、彼女は出てくれるだろうか。眠っている可能性もあるし、誰かの依頼をこなしている可能性だってある。そもそも、自分から連絡を絶っておいてすべてが終わった瞬間に……というのも、虫が良すぎやしないか。
けれどもし。今日という日に意味があるというのなら――……。
突然。
軽快なメロディとともに端末が震えた。画面には今しがた想っていた星の名前が表示されている。
「もしもし」すぐに通話をつなげて「こんばんは。ちょうど今、君のことを考えていたんだ。今頃なにをしているんだろうってね」
「また調子いいこと言ってる」
「本当さ! ウソはつかないって約束だろう?」
機械を通した星の声は、普段聞き慣れているものと少し違う。それでも、くす、と小さくこぼれた笑い方だけで、愛しい彼女の表情を思い描くのには充分だった。
「それで? 君からかけてくるなんて珍しいじゃないか。なにかあったのかい」
「えっと、……。……もう仕事は落ち着いた?」
「ああ。ちょうど今日、以前話していた大きな案件が終わったところだよ」
「そっか。お疲れ様。ケガはしてない?」
少し考えてから「医者が必要になるようなものは一切」と答える。言葉の裏を察したらしい、星は少々歯切れ悪く「なら、よかった」と返してくれた。ほんのり機嫌を損ねたようだ。声のトーンが少しだけ落ちていた。
そこからは他愛のない話が続いた。このあいだ星が見つけた、人懐こい野良猫の話。氷に閉ざされた国で見た、ダイヤモンドダストが美しかった話。仙舟羅浮で食べたものがとんでもなくて、しばらくなにを食べても苦かった話――。
楽しそうに弾む声を聞きながら相槌を挟み、つられるように一緒に笑った。それからアベンチュリンも、話せる範囲の話題を探す。トパーズが珍しい野鳥を見つけてはしゃいでいた話。顧問としてピアポイントにきていたレイシオ教授が、星の知識欲と吸収の早さを褒めていた話。今回赴いた惑星で、星に似合うだろう香水を見つけた話――。
「まあ、今回は諸事情で買うには至らなかったのだけれど。それがとても残念だよ」
「あんたは気を抜くとすぐいろんなもの贈ってくるから……。無駄遣いしちゃダメ」
「無駄なもんか! 恋人に素敵なものを贈りたいと思うのは、当然の欲求だと思うね」
腕時計に目をやる。星からの用事を聞かぬままに、すでに1システム時間が経過した。おかげでアベンチュリンの左手は震えが止まって、こわばっていた体もゆるく弛緩し、ほどよくリラックスできている。
……が、しかし。彼女はどうだろう。表情が見えないせいか、どうにも読みきれない。この雑談が目的のようにも感じるし、本題に入るための長い長い前フリのようにも感じる。
「理由のない贈り物は、やっぱりもらいにくいよ。それこそ誕生日プレゼントとか、記念日とかなら分かるけど」
「へえ? ……そういえば、君の誕生日を聞いたことがないな。教えてもらっても?」
「今日」
「……うん?」
「だから、今日。誕生日ってことに“なってる”ね」
瞬間、脳内でバチっと音がして、ピースがはまった。すべてを理解した。あの日予定の有無を確認してきたのも、今夜珍しく通話をかけてきたのも、今日が、星の誕生日で特別な日だったから。
――ああ、ツイてない。
さぁっと血の気が引くような感覚と情けなさに襲われる。こんなに運がないと感じたのは初めてだ。と、同時に。彼女の言い回しに疑問を覚えた。誕生日ということに“なっている”とは、一体どういう意味だろう。以前聞いた星核と関係があるのか。即座に脳内の情報をひっくり返すが、それらしいものは出てこない。
思考に耽るアベンチュリンが口を閉ざす。静かになったからか、星が「ハニー……?」と呼びかける。不安そうな声だった。
「ああごめんよ、驚いてしまって。そうか、……今日が誕生日ということに“なっている”んだね」
「あ、と、……うん。そう。そういうことに“なってる”」
「なら、お祝いしないと!」
――けど、だからなんだって言うんだ。僕の疑問なんて後回しでいい。
意識して明るい声を出し、それから「どうしてもっと早くに教えてくれなかったんだい?」とわざとらしくすねてみせる。通話口の彼女はうろたえたように「ごめん……?」とこぼす。アベンチュリンの切り替えについていけてないようだ、突然の批難に戸惑っているのがよく分かる。
奇妙な言い回しに関しては後日、またの機会に聞けばいい。今はただ、今日という日が、愛しい彼女にとって大切で特別な日であるという事実だけが意味を帯びている。それさえ分かっていれば充分だ。
時計を見る。あと数分で日付が変わってしまう。
「ねえ、マイシュガー」
たったの数分で最高の思い出を……なんてできるわけがないし、贈り物の用意すら手元にない。
「きっと君は今日一日、たくさんの人に愛され、祝われ、次の一年への祈りを受け取ったのだろう」
一緒に食事はおろか、顔を見ることも、手を取り抱きしめキスを贈ることすら叶わない。
「一番はじめに祝うことも、誰より盛大に祝うこともできない。仕事ばかりで気が回らない、情けない恋人だけれど」
――それでも。
「それでも、素敵な今日の締めくくりを、僕に預けてくれてありがとう」
スピーカー越しに、ほぅ、と小さな呼吸が届いた。
一日が終わる前の、眠る前の少しの時間。それを過ごす相手として選んでもらえたことが、なによりも誇らしい。アベンチュリンのほうこそ、星に褒美をもらったような気分だ。
「誕生日おめでとう。僕と出会ってくれてありがとう。これからの日々が星にとって素敵なものでありますように。それで願わくば、素敵にするための手伝いを、僕にもさせてもらえたらうれしい」
「うん。……うん。もちろんだよ。あんたがいてくれなきゃ困る。勝手にいなくなったら怒るからね」
「はは、覚えておくよ」
できない約束はしない。それは彼女も分かっている。分かったうえで願われている。だからこそ安易に応えたりなんかしない。――甘えている自覚はあるが、これはアベンチュリンなりの誠意であり、示し方だ。
腕時計を見つめる。今日の終わりがもうすぐやってくる。もう一度だけ「おめでとう」と告げると、とろけたような笑い声が届いた。愛して止まない星を想って、あたたかい気持ちがあふれ――物足りなくなる。
逢いたい。
すぐにでも逢いたい。
「私も、」羽根のようにささやかな声だった。「あんたに逢いたい」
「……声に出てた?」
「優しい言い方だった。嬉しかった」
「そう。……ならいっか」
時計の針が真上を刺して重なった。
おそらく、星の目的は達成されていて。アベンチュリンの体もくたくたに疲れて眠たくて。それでも、通話を切りたくなかった。
無言が続く。空気を共有するような静けさが耳にしみる。
「あの、ね。ハニー」
「……うん」
「明日起きたら、また話したいんだけど、いい……?」
「もちろん、大歓迎だ。それが君からのモーニングコールならなおさらね」
「また調子いいこと言ってる。でも、うん。ありがとう」
それから「あの」とか「その、」とかの言葉が続き……大きい深呼吸がなされる。
「一年の最後があんたで終わるなら、一番はじめもあんたがいいと思ったんだ」
それだけ。おやすみ。
ぶつ。終話を告げる無機質な電子音が響く。
体から力が抜け、ずる……ソファーから崩れて落ちた。床に座り込むような姿勢のまま、体が固まり動けない。
「――は、」
耳にあてたままの端末。熱くなっていく頬。頭の中は衝撃で真っ白に塗りつぶされて、まともな思考が紡げない。
もしここに星がいたら、言うだけ言って逃げ出そうとする背中を追いかけ思い切り抱きしめて、アベンチュリンを振り払おうとジタバタ暴れて真っ赤になった頬や耳を見つめ愛でながら、いたるところにキスの雨を降らせてベッドに引きずり込むところだった。抱き枕の刑に処さねば気がすまない。
先ほどまであったはずのまどろみはとっくに霧散している。空虚感なんてもってのほかだ。けれど、早く眠らなければ。一等星の可愛らしいわがままを叶えるために、一番はじめを手に入れるために。