ずんずん廊下を歩いていく斎宮宗の姿を見て、おしゃべりをしていた下級生たちはすみやかに道をあけた。廊下の端にひっこみながらぶつぶつ文句を言っている、あるいはなにやらつまらないことを囁いているのが耳をかすめるが、そんなことにいちいち気をとられてはいられない。
宗の端正な顔はひきつったように眉があがり、唇はきびしく引き結ばれている。短い前髪から覗く額と整った鼻筋は凛と冷たい印象を与えるが、いま彼の顔に浮かんだ表情は冷酷というより憤怒そのものであった。
「宗くん、そんなに怒っちゃだめよ」
「わかっているよ、マドモアゼル」
腕にだいた彼女が優しくたしなめてくれるけれど、宗はただ頷いて、分かったふりをしている。ずんずん足を進め、階段を降りる。窓から覗いた青空はすっきりと晴れ渡り、夏らしい大きな入道雲が浮かんでいた。
空調の効いた校舎といえどさすがに暑い。足早に歩く宗のこめかみにはうっすらと汗がにじんでいる。黙って手芸部の部室にいれば、まだましだったはずだ。
腹立たしい。イライラする。まったくもって、不愉快だ。
宗は叫びだしたい気持ちをぐっと飲み込んだ。昔から癇癪もちだと言われてきた。父母や兄姉たちは末っ子の気性の激しさを半ばあきらめた顔で見ていたし、祖父に至っては負けずに怒鳴り返してくるのだから、子供ながらに「大人げのない大人だ……」と呆れた覚えがある。
「ねえ、なにか飲み物でももっていってあげたら?」
マドモアゼルはこちらのいらだちを、あるいは焦りを看過したように、まるでなだめるようにそんなことを言う。宗は、彼女を大切に抱えながら、親切な忠告を無視して廊下を突っ切った。人がさらに増えて、夏服の集団がざわめいている。人混みのなかに入っていくのは本当にいやなのだが、仕方あるまい。その向こうに目的地があるのだ。
こちらの剣幕に気づいたらしいひとりが、おい、と軽く隣の学生に声をかける。ひそひそと揶揄するような声。去年からずっと、こんな仕打ちばかり受けている。いや、この学園に入る前から、いつだって、宗は異分子だ。誰かに指をさされ、ばかにされ、踏みにじられてきた。世界はちっとも宗の味方をしてくれなかった。
宗は軽く首をひねり、目の合った男を思い切り睨みつける。相手が、ひゅ、と短く息を呑んだ気配がした。
鋭い視線のまま足をすすめると、自然と廊下の真ん中に道ができる。「モーセみたいね、宗くん」とマドモアゼルが茶化したようだが、こんな不本意なモーゼもいないだろう。だがかまわない。だれも自分に優しくしてくれなくとも、忌み嫌われるだけであろうとも、たとえ世界が僕に微笑まなくとも。宗には信じるべき道があり、求める美がある。ただそれだけだ。有象無象の声などかまっていられない。
保健室のドアをノックし、押し開いた。この学院は無駄に広い部屋が多いが保健室もその一つで、ほとんど使われていないベッドが並び、担当教諭は論外なことに不在だった。
「チッ」
なんのための教諭だ、と苛立たしく思いながらひとつだけカーテンのひかれた状態のベッドに歩み寄る。そっと端をつかみ、めくると、中のベッドに横たわっている輪郭が見えた。見慣れた黒髪が掛布の隙間から飛び出ている。
思わずほっとして、宗はカーテンの中に踏み入った。きっちり布をひいて簡易的な個室に戻すと、静かにその枕元に歩み寄った。
「まったく、何をしているのだね」
そうつぶやいた声は思ったより小さく、ひそやかだった。マドモアゼルも黙ってベッドの上を眺めている。
長い黒髪が真っ白い枕の上に散らばっている。俯くように壁際を向いていて、こちらからは耳と頬の一部しかみえない。肩からすっぽりおおうように掛け布団がかかっていて、冷房の効いた室内で、その首筋は青ざめてみえた。
宗は、その顔を覗き込もうとして、手の中のマドモアゼルでつっかえる。少し考え、カーテンを開き、隣のベッドにマドモアゼルを静かに座らせた。
「少しだけ待っていてくれたまえ」
マドモアゼルはもちろん、とほほ笑んだ。宗もかすかに微笑んで、再びカーテンの向こうに潜り込んだ。これらの一連の動作の間も、眠っている子はぴくりとも動かない。ひどく静かに、眠っているというよりただ横たわっている。
「倒れたと聞いてかけつけてみれば――たかだか人形のくせに、僕の手を煩わせるんじゃない」
静かな部屋の中だ。それにこんなにそばに、すぐ近くで呼びかけている。大きな声でなくともしっかり届くだろうに、その子は反応を示さない。
(これならマドモアゼルの方がずっと活動的だ)
「こら、影片――僕の人形なら、返事くらいしたまえ」
その肩に、思わず手をかけた。当たり前に質量があり、ほんのり暖かい。思い切って掴んだ手に力をこめ、ぐっと仰向けになるようひっくり返す。ぱさりと長い髪がシーツにおち、こすれてかすかな音をたてた。
ほの白い鼻先がみえた。そして薄い目蓋も。長いまつげが目元に影を落とし、そうでなくとも不健康そうな顔色がいっそう紙のように白い。人形のような肌に、おもわず、顔の前に手のひらをあてた。
身じろぎ一つしないと思っていたが、じっとそのままにしていると手のひらにわずかに吐息がかかる。
急に、どっと疲れがこみあげてきた。宗はそのまま座り込みたくなるのをこらえ、ぐっと相手の顔を覗き込む。赤い唇はすこし乾燥している。自分のことにどうにも無頓着な子なのだ。安心した後、いらだちが戻ってくるのにそう長い時間はかからなかった。
「影片」
名前を呼ぶ。人形じみた相手は、見慣れてくると呼吸でわずかに動いているのがわかった。さっきまでは顔を埋めるような格好で寝苦しかったのではないだろうか。まったく、自分で眠りやすい体制ひとつ整えることができないのか。
「本当に不出来な人形だね」
呆れて、ポケットに手をいれると調度持ち歩いているバームの小さな容器に触れた。とりだして、ほんの数センチしかない容器の蓋をあける。自分用につかっているものだが、あいにくメンテナンス用の道具を持ち歩いていなかった。
白っぽいバームは暑さにまけ少し緩んでいる。人差し指で少量すくいとり、そのまま眠っている子の唇にそうっと触れた。かすかなぬめりと、乾いた感触がまざりあっていく。
「夏といえど乾燥はよくないのだよ。君ときたら、落ち着きなく走り回っているばかりでなにひとつまともにできやしないのだから」
輪郭をゆっくりとたどっても、あっという間に塗り終えてしまう小さな唇だった。端から内側にむけ少しだけ指先をすべらせた途端、ふいに、相手が震える。
「……んぅ、」
あ、と宗が驚いたときには、指先が彼の唇の内側に触れていた。ほんのわずか、湿り気が爪の先にかすめる。かっとうなじが熱くなる。とっさに手をあげ身体をひくと、その薄い目蓋がゆっくりとおしあげられた。ぼんやりと焦点の合わない瞳が瞬き、天井をながめ、それから、宗の方を見る。琥珀と瑠璃の瞳が濡れて、潤んでいた。
「……お師さん?」
「ようやく起きたのかね、この粗忽者め」
宗は喉に力をいれ、吐き捨てるようにそう言った。バームの蓋をきっちりしめ、再びポケットに戻す。みかはぱちぱち瞬きをしていたが、のっそりとベッドの上で起き上がった。膝を軽くまげると掛け布がその形を追いかけるように動く。片手で額を押さえるようにしながら、胡乱げに宗をみつめ、んと、とかすれた声で呟いた。
「あれ、おれ……バイト……」
「アルバイト中に倒れたと報告を受けたのだよ」
「んあ、ごめんなさい」
謝る声も覇気がなく、どことなくうつろだった。まだしっかり目が覚めてないのか血の気が足りていないのか。とにかく、と宗は会話を打ち切るように言い放ち、彼を見下ろす。
「どこか痛いところは」
「……んと? ないと思うで」
「気分は」
「んー……? ぼうっとするけど、悪くない、かな」
貧血でも起こしたのか、と推測する。倒れた、といっても頭から昏倒したとかではなく、立ち眩みのように座り込んでその後なかなか起き上がらないので心配した同級生によって保健室まで連行された、と聞いている。宗はもう一度彼の顔を見つめ、急を要するものではないだろうと判断した。
「自分の体調管理もできない愚か者にかける言葉もないね。黙って寝ていたまえ」
「んあ、あの、おれ」
カーテンをめくりあげその隙間から出ようとしたところで慌ててベッドから降りようとする物音がする。宗は首だけで振り向き、ぎろりと睨みつけた。
「寝ていろ、と言ったのだよ。下校時刻にまた迎えに来る。いいね? 僕のいいつけが守れないなら捨てるよ」
「んあ、聞く! 聞くから捨てへんで」
「ちゃんと迎えに来るから、寝ているように」
もう一度念押しをして、カーテンをしめた。もぞもぞと動く気配はするが、しばらく伺っているとまたベッドに戻った様子だった。隣のベッドで待たせていたマドモアゼルを優しく抱き上げ「待たせてすまないね」と謝ると彼女は優しく微笑む。
「平気よ、宗くんはまだ帰らないの?」
「頼まれている衣装があるからね――ほんとうに、手のかかる人形だ」
静かに囁きながら保健室を後にする。マドモアゼルは「そうね」と笑って、それ以上なにもからかうようなことはいわなかった。