ワンドロお題『絵本』
しあわせに暮らしましたと書いてある絵本を閉じてあなたを思う
こんこん、と控えめなノックが響く。宗は手元の作業をいったんとめ、「入りなさい」と顔をあげた。パリのアパルトメントには自分のほかはあの子しかいない。少し前までは自分一人だったのが嘘のように、彼はしっくりとこの都市になじんでいる。まるで空気のように、あるいはなじんだ毛布のように。
しばらくの間ののち、おずおずと扉がひらいた。薄く開いた隙間から、ちらりと白い顔が覗く。
「お師さん……邪魔してしもたやろか」
「いや、きりがいいからもうやめようと思っていたところだ」
そう言いながら手元の針を危なくない場所へ片付け、布をそっと隠す。作業が乗っているというほどでもないがまだ途中であることは確かだ。だが、いまはそれを明かしたくはなかった。もし素直にそういえば、相手はきっと気を使ってさっと部屋に戻ってしまうだろう。冷えたベッドの中でひとりで膝を抱えるのかもしれない。そう思うと、どうにもやりきれない。
「どうしたの、眠れない?」
そう尋ねると、みかはおずおずと部屋の中に入ってきた。ドアの前で立ち止まり、うつむいている。長い前髪が顔を隠し、小さな唇が頼りなく震えた。なにか言いたいのかもしれない。言えないのかもしれない。宗には、伺いしれないなにかがある。
「さきに寝室に行っていなさい。僕もすぐに向かうから」
そういって手元の灯りを消し、立ち上がる。それでもまだぼうっとそこに立ち尽くしているみかのまえまであゆみよって、宗は自分の羽織っていたストールをはずしその肩にかけて、包み込んだ。
みかが顔をあげる。宗は、微笑んで見せる。
「寝ないで待っているんだよ」
そう言ってやると、みかははにかんだように頷いた。
こん、とノックをするとすぐに「はぁい」と返事がした。寝間着に着替えた宗が、そっと寝室のドアをあける。みかは言いつけ通り眠らずベッドの中で待っていたようだった。枕にしどけなく体をあずけ、膝をまるめてなんだかいつもよりずっと小さくみえる。一緒に眠るようになって気付いたけれど、みかは体を丸めるようにして横を向いて寝るのが好きらしい。宗は仰向けで眠るので、こんなところにも違いがあるのかと面白かった。
「もっと端によって」
ベッドの前に立って促すと、みかはダブルベッドの中をもぞもぞと動く。もっと大きなサイズもあるはずだが、この部屋の入口の大きさを考えるとこのサイズでもぎりぎりだった。まあいずれ、と思ってはいるが、みかはなぜか多少狭いくらいがちょうどいいと笑っていたので、ひとまずこのままで過ごしている。
ぼすん、と端っこに腰かけるとかすかにスプリングが揺れ、一度はこちらに空間をあけようと退けたみかが、またよじよじとにじり寄ってきた。なんだか子供みたいなあどけないやり方なのがかわいらしくて、口元が緩みそうになるのをこらえながら持ってきたものをベッドサイドのテーブルに乗せる。みかが腕で体を起こし、首をのばして覗き込んできた。
「んあ、なあに、のみもの?」
「ホットワインなのだよ。すこしならいいだろう」
マグカップに注いだのはシナモンやクローブなどをいれ軽く煮詰めた赤ワインだ。アルコールを飛ばすためしっかり火にかけたので、この子でも飲めるだろう。みかはぱちぱちとまたたいて、軽くこちらを見上げた。
「その本は?」
「寝かしつけ用。こどもにはちょうどいいだろう」
「んあっおれのこと子ども扱いして……」
「ほら、そっちにつめて」
宗が靴を脱ぎベッドに足を乗り上げると、みかはおとなしくスペースを作った。それでもまだこちらの片腕にひっつくような位置で、じっと手元を覗き込んでくる。宗はヘッドボードに背中を預け、大判の絵本を開いた。
「知っているかね? メジャーな絵本らしいが」
「んあ、見たことある気がする……」
そう、と頷いて、宗は開いた。黄色が印象的に使われ、人物の描写はあっさりしている。パリの町並みが至る所に描かれ、修道院で暮らす十二人の女の子の末っ子が主人公、と読みながら、もしかして彼にとって不愉快なエピソードだっただろうかとおくればせながら気付いてそっとそちらを見るが、みかは興味深そうにじっと手元を見つめていた。しずかに読み聞かせ、盛り上がるところはすこし声を高め、悲しいところは声をひそめ、そうやって悲劇も喜劇も交えた一連のストーリーを終えて絵本を閉じる。みかは、ほうっとため息をついて、それから枕に身をあずけたまま首をもちあげ宗を見上げた。
「ええ話やったねえ。お師さん、このお話好きなのん?」
「いや、詳しくはないけれど」
「そうなのん? たしかにお師さん絵本読まへんよね? どうしたの、この本。あ、パリの作家さんとか?」
「……違うみたいだ」
一応ふたりで著者を確認し、作者は別にフランス人ではないとわかった。みかはきょとんとした顔でこちらを見上げる。
「この本、どないしたのん?」
「……別に、イエローが印象的で、美しかったから」
「あ、せやねえ、全体の印象としてこの色が残ってまうわあ。それに十二人の女の子なんておかしいわぁ。ここにでてくるのはええとこのお嬢さんばっかりやけど、んふ、なんや共同生活っていうとおれも故郷を思い出して……」
そこまで言って、ふと思いついたようにみかが宗を見上げる。宗は絵本を閉じたままどうしていいかわからずそっぽを向いた。
「別に……すすめられたから買っただけで他意はないのだよ。君は文字が多い本は苦手だというし……けれど朝に読書をするようなこともいっていたし」
「うん……うん! お師さん、おれのいったこと覚えててくれたんやね、おおきに」
するりと冷たい指先が腕に絡んで、そこに小さな頭がこすりつけられた。重たいほどではない、けれど確かにある質量に、宗はだまって耐えている。そろそろホットワインも飲みごろのはずだ。宗の計算では、絵本を読んで、アルコールのとんだワインをのませ、ほっとあたたまったところでゆっくりと布団に寝かしつけるつもりだったのだ。そのまま一緒に眠るのもよし、彼が寝たらまた作業を再開するでもいいと思っていた。
長袖の向こう側に、上腕の外側に、やわらかくみかの頭が押し付けられている。小さな頭だった。頼りない肩と腕と、けれど本当に暖かいのだ。そのことを感じながら、宗はつとめてそっけなく、「僕がそんなに忘れっぽく思えるのかね」と拗ねたように言ってしまう。ぱ、とみかが顔をあげ、体を起こし宗の顔を覗き込んできた。
「そういう意味やないんよ! お師さん、俺の好きなこと覚えててくれたのかなって、おれのこと、覚えててくれたのかなって、それがうれしくて」
「む、まるでふだんは僕が君のことを顧みないような言い方だね。それはさすがに無礼ではないかね?」
思わず言い返すと、みかはぱちりとまたたいた。大きな瞳が乱れた前髪の下で揺れる。琥珀と瑠璃の瞳は室内灯の下では色を濃く、暗く見せていた。宝石のような奥深い輝きに、思わず目を奪われて、しばし黙って見つめてしまう。
「……その言い方やと、おれのことずっと考えとるみたいやけど」
ぱちり、と瞬いたあとにみかがそうつぶやいて、宗は目を見開いた。顔が熱くなるのが自分でもわかる。こんなに近くで、相手に見つめられて隠しようもないけれど、とにかく言い返さないことにはいられない。
「――――、そ、そんなことは言っていないのだよ!」
絵本の硬い背を撫でながら、ふいっとそっぽを向いてしまう。ああもうみっともない、と思うけれど、性格の良いこの子はそれ以上追及もせず、ただ黙ってこちらの手に自らの手を重ねて、撫でてきた。ひんやりとした、か細い手だった。
「おれ、好きな絵本があるんよ」
「そう――――どんな?」
彼の方を振り向くこともできず、けれど相手の話の先を促してやる。みかは素直にその先をつづけた。
「んとな、さむーい冬の中で、動物たちが食べ物をさがしとるんよ。ほんで、余分に見つけたこうさぎが、ほかのともだちのためにその食べ物をもっていくってはなし。でも、その友達は留守で、留守のおうちに食べ物を置いていったら、その友達も食べ物を探しに出かけとって、ちゃんと自分の分を確保して帰って来るんよ」
「あ、そう」
宗は知らない絵本だった。だから、そっぽをむいたまま頷いた。そうっとすこしずつ首の角度を戻してみる。みかは気づいているのかだとしてもそんなそぶりはみせず、淡々としゃべり続けた。他人から聞く本のあらすじというのは、その説明する人の主観が強く混ざって来る。読んだ本人が印象に残った場面が、ストーリーが基本となって説明されがちだ。宗はそう考えながらも、遮らずに先を促した。
「ほんでなぁ、だから、帰ったら余分な食べ物があるやん?」
「まあ……そうなのだろうね?」
「ほしたらその子が、また別の友達にもっていくねん。でもその友達もやっぱり留守で、ほんでその子もちゃんと自分の食べ物を探して帰って来るからその持ってこられた食べ物は余分やねん」
「ああ……」
なんとなく筋が読めてきた。そういう繰り返しが物語にはつきものだ。相手のためにと思った食べ物は、だが相手は必要とはしていなかった。その循環がさらに続いていく。皆の優しさはどこにいくのだろう、とぼんやり思って話を聞いていたが、みかのはなしはあっさりと終わる。
「ほんで、最後に最初に食べ物をもっていったうさぎのところに、それがもどってくるねん」
「情けは人のためならずだね」
つい格言めいたつまらないことをつぶやいてしまうが、みかはにっこりと笑って宗を見上げた。睫毛が長く、震えている。そろそろ眠たくなってきたのだろうか、しどけなくこちらの腕にもたれかかった体温は温かい。
「せやねえ。おれ、このはなしごっつすきで。みんな自分以外のだれかのためにってやさしさをちょっとずつまわして、結局最初の子のとこにもどってくるんよ。ほんで、そのこがな、なにがあったかすぐにわかるんよ。ともだちがもってきてくれたんやなって。その信頼が、ええなぁって……家族やなくても、そう、このおはなし、みんな一人で暮らしとるんよ。ひとりひとりががんばっておうちを守ってて、でも、自分以外を思いやれるっていうのが、ええなあって……」
きゅ、と袖をつかんだみかの指先を、宗はおもわず見つめてしまう。彼にとって「家族」という言葉がひどく特別だとわかっている。そう簡単に与えてやれないものだとも、理解している。彼の今までを思う。幼い頃の彼の気持ちを思う。その後の彼を思う。
いま、ここにいてくれること。赤の他人であったはずの宗の隣にいてくれること。そのことを、考えている。
「君は、いつも君自身よりもほかの誰かを思いやりがちだ」
「ほんなことないけどなぁ」
ふにゃふにゃ笑って少し眠たそうにしている顔を見下ろし、その細い肩を見て、ふいに胸にこみあげてくるなにかを抑えきれなくなった。この子は身一つでここに飛び込んできた。なにもかも、自分の分の取り分すら顧みずすべてを宗に捧げようとした。
(その献身に、僕は)
両手を伸ばし、彼の肩を抱く。みかがびっくりしたように体をぎこちなく硬くしたのを感じながら、だきあげ、抱きすくめ、腕の中に閉じ込めてしまう。肩口に吐息がこぼれ、みかの鼻先らしく硬さがぶつかった。
「お師さん?」
「……僕は、たまにたまらなくなる」
「んあ、な、なにが」
「幸せに暮らしました、なんてエンディングをみるたび、その中に自分は入れないだろうと思っているだろう君のことを思い浮かべて、胸が苦しくなるのだよ」
「んえ、んあ、あの、」
抱きすくめた肩は、背中は、ひどくうすっぺらくたよりない。その奥にたしかに息づく鼓動や温もりを感じながら、宗はその肩口に顔を押し付けた。膝の上に抱き上げ、みかはおずおずと体勢をかえこちらに従う。人形よりはるかに重く、けれど、温かい。
「僕は――君も一緒に幸せになればいいと思う。ともに食べ物をわかちあうでもいい。一緒に子犬を分け合うのもいいだろう。寄宿舎でもひとりぐらしの家でもかまわない。この家でも日本でも、ねえ、影片。君にあげられるものなら何でもあげたいのだけれど」
自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。宗は戸惑う。衝動だけが先にある。この子をすくいあげなければ、いいや、手放してはいけない、と。寂しい思いもつらい思いも、もうじゅうぶんさせたのだから。それでもついてきてくれたのだから。これからはハッピーエンドだけだ。それ以外何も必要ない。
しばらく腕の中でじっとしてたみかは、おずおずと顔を動かしたようだった。宗が腕を緩めると、みかが狭い隙間を潜り抜け、ふっと微笑む。
「お師さんが居れば、おれはどこでも、いつでも、幸せやで」
「……そう」
宗は、ついそう答えてしまった。欲のない子だね、と言いたかった。けれどうまく舌が動かなくて、かわりに抱きしめた腕に力を込めた。ベッドサイドのホットワインはもうすっかり冷めてしまっているのだろう。