「影片!」
鋭い声で呼ばれ、影片みかはぱっと顔を上げた。部屋の中でぬいぐるみたちの席替えをしていたところだった。だが扉の向こうから響いた声音は、明らかに怒っている。これはなんだかよくわからないけれど、急いだほうがよさそうだ。
「はい、はい! 居りますぅ」
ドアノブをひっつかんで開けると、すぐ目の前に声の主が仁王立ちしている。形の良い眉を寄せ、切れ長の瞳がぎゅっと細められている。黙っていても威圧感があって下級生などはすれ違うたびに逃げるように視線を逸らすこの人は、いま、みかをぎろりと見下ろしている。険悪、といってもいい表情である。口を引き結び、なにか怒鳴る前兆のようにかすかにその唇が震えた。
「え、えと、お師さん、ただいまぁ」
今日はアルバイトがあったので帰ってきたのが遅かった。夕飯の支度だけされ部屋に引きこもっているようだった家主のことは扉の向こうから声をかけただけで終わってもそもそとご飯を食べシャワーを浴び部屋に引っ込んでいたので、帰宅後ようやく顔を合わせたことになる。
なので、ひとまず挨拶をしてみる。
家主であり一つ年上の先輩でありユニットのリーダーであり、みかの人形師である斎宮宗は、すっと息を吸いこみ、なぜか喉の奥でわずかに唾を飲み込んだ。
それから、少しだけ先ほどより落とした声で「――――君、洗濯機を回したね?」と確認される。
みかは、うん、と頷いた。
「お風呂借りたから、んと、お師さんのも洗ってよさそうなものは一緒にいれたけど。んあ、手洗いしなきゃなさそうなレースのやつとかはちゃんとよけてあるで!」
「ノン! まったくもって間違っているのだよ!」
ぴしゃりと叱られて、みかはおもわず体をすくめる。腕の中に抱いたままだったくまのぬいぐるみがぎゅうっとつぶれた感触がした。
「え、え、おれ、お師さんのお洋服間違って洗ってしもた!? ごめんなさい!」
「いや、僕のは問題ない。そうではなく――ああもう! 君! どうしてこれを洗濯機で洗うのだね!?」
何か言い淀むように一つ言葉を吞み込み、つまらせ、けれど結局、宗は片手に握りしめていたものを突き出してきた。
目の前のそれを見て、みかは瞬く。
「んあ……?」
それは下着である。宗の身に着けている繊細でぜったい洗濯機に入れないほうがよさそうなそれではなく、みか自身のブラジャーだ。
「……ちゃんとネットにいれたで?」
ええと、たぶん。さすがにみかといえどそのくらいはする。なのでそう言い返してみた。
結果、さらなる怒声が跳ね返ってくることになる。
「ノン!! 手洗いしろとここに書いてあるだろう!? 洗濯表示も読めないのかね!?」
びし、とタグのところを目の前に晒され、んあ~、とみかは瞬いた。
「んーと、だから、ネットにいれたらええんやろ?」
「君の頭はおがくずでも詰まっているのだろうね、ち・が・う! だいたいこういうものは洗濯機で洗うとワイヤーの形が崩れる、なんのための下着だと思って……」
宗のお小言はまだまだ続きそうだ。みかは、うっかりあくびをかみ殺した。無論彼が見過ごすはずもない。
「――君、あくびしたね」
「んえっ、え、えっとぉ……」
「なるほど、疲れているのだろう。アルバイトだなんだと余計な予定ばかりつめこんであくせく動き回り勝手にそのあたりで倒れているようだしね。あ、そう。そうかね」
「え、あっごめんなさい! お師さんの大事なお話ちゃんと聞いとるよ! えっと……手洗い……でもなぁ」
「でも?」
今日の宗はほとほとしつこい。いや、そもそも彼がしつこくないことなどないのだ。この徹底的にこだわるところが宗たる所以であり、みかはそんな細やかで神経質なところも尊敬し、愛しく思っているので怒られるのはなんにも苦ではない。ないのだが。
「おれの下着、どうでもよくない?」
「また! 『おれ』ではなく、せめて『私』にしろ。家の中はいいけれど、舞台の上でも間違えたら承知しないよ」
「んあ、ごめんなぁ、おれ……あっ、えっと」
もごもご言いながらくまをだきしめて、だんだん頭が混乱してきた。下着のお洗濯の話をしていたんだったか、一人称の指導だったか、えっと。
みかの頭がパンクしそうなのを見て取ったらしい、宗はためいきをつくと、みかの手を掴んで引っ張った。
「んあ、」
「おいで。洗い方を教えてあげよう。いいかね、一回見たら次は自分でやるのだよ、わかったかい」
「え、ええーでもおれ、やなくて私……んあ、落ち着かへん」
「……家では『おれ』でもいいよ。とにかく、ランジェリーは手洗いすること。そもそもどうしてこんな安っぽいものを身に着けているのだね? ワイヤーも堅そうだし、サイズもあっていないだろうこれは!」
「ええー?」
そんなこと言われても、とみかは首をひねるばかりだ。サイズがどうこう? 別につけていてなんとも思わないけれど。
「アンダーがこれでは大きすぎるだろう! 君は骨と皮ばかりなのだからこれでは意味がない、肩の調整もこの調子だとしていないね? ずいぶんゆるいんじゃないか」
「そうやろか?」
「……あとでつけかたを教えよう。まったく、僕はそこまで暇じゃないのだよ」
はあ、と深いため息をつきながら、宗はみかを振り向かずまっすぐ廊下を歩いていく。繋がれた手が温かいのと、お小言でもなんでも自分のために時間を割いてくれるということがくすぐったくて、うれしくて、みかはうつむいてにやける顔を隠した。
「ってことがあったんやけど」
次の日のお昼ごはんの時。友人の嵐にみかは何の気なしにその話をした。今日のお弁当はサンドイッチだ。忙しいときやめんどうなときは飴玉ですませることもあるが毎回それだと嵐の顔がどんどん険しくなっていくので、たまには相手にあわせて同じようなものを食べてみる。同じものを食べるのは、すこしだけ仲良くなれた気がして嬉しい。
「……みかちゃん、いろいろ言いたいことはあるんだけど」
嵐は、一通り話を聞いてくれた。途中でなにか声をあげそうになり、自分でぐっと拳で口元を抑え込むような動作を何度か繰り返してはいたがとにかく最後までしゃべらせてくれた。その相手が、ひとつ息を吸い、なにやら深刻そうに切り出すので、みかとしてもまじめに聞かねばなるまい。食べかけのサンドイッチをいったん置き、両手を膝の上に乗せてみた。
「うん、どうぞ」
「……まずねえ、一つ屋根の下に年頃の男女が一緒なんて、インモラルだわぁ」
「んと、離れに寝とるのはおれだけやで? お師さんは本宅のほうに寝とる。作業場は離れやけど」
ついでに離れに簡易キッチンもお風呂も洗濯機もあるので、ほとんど離れで済ませることも多いけれどそれは別に言わなくてもいいだろう。
嵐は「それでも!」と口を尖らせた。
「だって洗濯物までチェックされるんでしょう? それっていくら下宿させていると言っても越権行為じゃない? プライバシーの侵害だわ! みかちゃん、訴訟よ訴訟!」
「え、ええ、そしょー?」
そしょう、あ、訴訟、とみかがのんびり頭の中で変換しているうちに、嵐はさらに次の話題に移行している。手元のペットボトルをぎゅっとにぎると、やわらかいお茶のそれがべこっとへこんだ。
「だいたいねえ、女性の下着にああだこうだいう男は最低よ、サイテー! そんな男に耐えられなくなったら、いつでもお姉ちゃんの家に泊まりに来ていいからね、みかちゃん」
両肩を軽く抱かれてうるうる涙目で言われて、みかはあは、と笑ってしまった。嵐はどうやらなにか勘違いをしている、いや、自分の話し方が下手で勘違いを招いたのだろう。みかは誤解を解くべく、ええと、と口を開いた。
「んと、お師さんもな、なんやったかな、『直接肌に触れるものなのだから生地にはこだわるべきなのだよ』とかなんとか言うててな? レースが粗雑だとか生地が粗いだとか、ほんで、サイズもお師さんがいうとおりにつけたら、たしかにちょっと変な感じしたんよ~お師さん、つけとるとこ見てへんのにようわかったなぁ! さっすがお師さんは天才や」
みかとしては精いっぱい宗をほめたたえたのだが、こちらの肩をだく嵐の顔はどんどん曇っていく。
「……あまりプライベートに踏み込むのはお友達でもよくないとわかっているから、これ以上は聞かないけど、本当にみかちゃんそういうのいやじゃないの?」
「ん? うん! おれ、お師さんのお人形さんやし!」
にっこり笑ってそう答えるみかに、嵐はどうしたものか言葉を探し、結局のところ口を閉ざすよりなかった。
(それってみかちゃんのサイズを完全に把握しているってことだろうし、ていうか、その後実際に下着をつけて調整してもらったんでしょうし、い、いくらユニットの先輩でもそこまでする? していいの? 大丈夫なの?)
ぐるぐると頭の中で押し問答が始まる。だが結局、嵐に言えることはひとつだった。
「みかちゃん、なにかちょっとでも変なことされたり嫌だってかんじたらちゃんとお姉ちゃんに言うのよ。お姉ちゃんが殴りに行くから」
「ええっなるちゃんに殴られたらお師さんびっくりして死んでまうよ!」
みかは目を丸くして本気なのか冗談なのかわからないことを言う。昼休みは残り僅かになり、二人はその後急いで食事を終え次の授業に向かって、その話はそこでおしまいになっていた。
**
「お師さぁん」
こんこん、とノックのあとに控えめな声が聞こえてきて、斎宮宗は読んでいた本から顔をあげた。
「居るよ。どうぞ」
ソファに腰かけたまま答えると、一拍置いてドアが静かに開かれる。向こうに立っているのは、当然、影片みかだ。よく家の中で着ている伸びきったスウェットではなく、この間友人たちと一緒に買ってきたらしいふわふわしたルームウェアに身を包んでいた。白とパステル調の紫色のボーダーのセットアップで上はフードがついていて下は太腿が半分以上露出するショートパンツ。同じくもこもこしたハイソックスを履き、なんというか、一時期よりよほど女性らしさを隠さなくなったな、と宗は少しだけ感心した。この家に下宿させた当初は自分のことを「おれ」というし、来ているものはほぼ男物の体のラインがでにくいだらしないシルエットのものばかりだった。当然、宗の趣味ではない。趣味ではないが、個人の身の振り方に私的スペースでまであれこれいうべきでないこともわかる――外ではさすがにこちらの言うとおりにさせたが。
結果、みかは私服は相変わらず細身の男性なのかやせすぎの女性なのかわからない格好だ。別にそれでもいいと思う。宗は、そう思えるようになっている。
(だんだん影片に感化されてしまった)
今日の服装は、だから、少々意外だった。
「どうしたんだい、眠れない?」
いつもならもうベッドに入る時間だ。みかは、だがもじもじしたまま二人掛けのソファに近寄って来る。宗がすこし腰をずらしスペースをあけてやると、おとなしく隣に座った。
何か言いたいことがあるのだろう。それも言いにくい類の。宗は黙って相手の出方を待つ。みかは相変わらず俯き視線をさまよわせ、長袖の先で手の甲を隠すようにごそごそしていたが、意を決したように顔をあげた。長い前髪の裾から色互いの美しい瞳が煌めく。
この目が自分を見る瞬間が、何より好きだと宗は思う。考えている。何度となくあった、これからも繰り返されるであろう尊い瞬間。この視線が自分からそれることがあってはならない。そう強く信じている。
「……お師さん、あの、おれ」
「うん」
「……この格好、へん?」
「え?」
宗はぽかんとして相手を見つめ返した。みかは、相変わらず困ったような情けない顔をして宗をみて、自分の胸元に手を当てる。
「なるちゃんたちは似合うって言うてくれたんやけど……でもお師さんこういうの好きじゃなさそうやし……でもおれ、あんまフリルたっぷりのキャミワンピとかは似合わへんし」
「いや、君はなんでも似合うけど」
即答してから、しまった、と思って口をとじる。みかは、え、と表情を固まらせた。宗は、咳ばらいをしてごまかした。
「うん、まあどうでもいいじゃないか。だから、その恰好は、別に似合わないとは言っていない」
「そ、そっかぁ」
「……いいんじゃないのかね、なかなか」
頬杖をつき、ちらりと横目で相手を伺えば、みかはほっとしたように両手を組んで自分の胸に押し付けた。膝を揃えて座った太腿の白さがまぶしい。細い肩も首もかわらないけれど数年じっくり育てたのでさすがに肉はついてきた。女性らしい体つきを、たぶん、当初はこの子は忌避していたのだろうがいまはそれも受け入れられるようになったらしい。
(この子がどうして、そうなのかはわからない)
言いたくないのなら言わなくて構わない。宗は、自分が思う通り、自分が美しいと思う形を教えてやるだけだ。みかが嫌がるなら強要はしないつもりだったが、この子は何でも素直に受け入れてしまうから、結果として数年越しに理想通りの彼女となっている。本当にこれが相手の望みなのか、宗はいまだ、わからない。
「よかった」
微笑んで、それからみかの膝が少し動く。宗の足にぶつかるので、宗はさりげなく足をどけた。数秒置いて、またみかの足がぶつかる。
さすがにわざとだとわかるので、なに、と言う代わりにじろりと睨んでみた。相手は眉をさげたまま、にじりよってくる。
「……ねえ、本当にどうしたんだい、今日は」
「……あ、あんなぁ、なるちゃんたちと、買ってきたのこれだけやなくて」
「うん? そう、なにか見せたいものがあるのかね」
宗は体をすこしひねり相手に向き直るようにした。なにかお披露目したいならどうぞ、という許容の態度だ。対して相手はすこしひるんだように顔を曇らせるが、こちらが黙って待っているのを見て取って、きゅっと小さな唇を引き結んだ。
突然、みかがルームウェアのファスナーに手をかけた。
「な、」
宗はとっさに手をのばした。けれど、みかはさらりと身をひき、ファスナーを下ろし続ける。
じじ、とわずかな音が、妙に大きく耳に響く。
宗が硬直している目の前で、みかは前をすべて開いてしまった。
最初に目に付いたのは、ふんだんに使われたレースで覆われた胸元だ。アイボリーのレースが幾重にも重なり、胸の柔らかさを隠すようにながれ、下に落ちていく。すとんと平らな腹は前開きのキャミソールの裾に覆われて見えない。そのままためらいもなくショートパンツに手をかけたところで、さすがに宗は体を乗り出しその腕を掴んだ。
「こ、こら、待て! なにを」
「だ、だって」
対してみかはなぜか泣きそうな顔で必死に言い募る。
「お師さん、昔言うたやん、下着はちゃんとしたのを買えって。肌に触れるところだから大事だって」
「そ、それはそうだけれど」
宗は混乱しながら答える。掴んだ腕の細さとふわふわしたルームウェアの手ざわり。やわらかく、少女めいたその外見と裏腹に、ランジェリーはひどく大人っぽかった。ちぐはぐだ。この子はまだ二十歳になったばかりだ。いや、二十歳と言えば女性としてみるべきなのか? だがこの子は、だって、学生の頃からそばにいるのだから。
普段は理路整然とした思考回路が完全にパンクしている。勝手に暴走して手に負えないまま、宗の視線は結局その白い肌に吸い寄せられている。首は細く、鎖骨がくっきりと目立つ。そのまま下にふくらみがあることを知っている。直接触れることはない。採寸の時だって、ランジェリーのサイズをあわせるときだって、きちんと手袋をして、必要最低限の場所しか触れない。人形扱いしていたころも、人間としてともに歩み出した後も、宗にとって影片みかはとても大切なパートナーだ。
だから、だが、それで?
「……せやから、ちゃんとしたもん」
みかは思い切ったようにショートパンツを脱ぎ捨てた。キャミソールは腰骨を越える高さまでゆるやかなカーブを描いて揺れ、その下の揃いであろう下着まで見えてしまって、今度こそ宗は、赤面した。
「影片!」
「なあ、ちゃんと見て? おれ、おれ、頑張ってみたんよ。お師さん、こういうの、どうやろ。おれ、合格? ちゃんとできとる?」
「ご、合格とか、そういう」
狭いソファで、みかが伸し掛かって来る。つっぱねることなど宗にできるはずもない。押せば折れてしまいそうな華奢な体をそのまま抱き留めて、目をそらしたいのに結局相手から顔をそらせない。その肌の白さが目に焼き付いている。ふれたらさぞ柔らかいだろうその肌も、骨のくっきり浮いた腰や肋骨のあたりも、あまりに手の中で想像できてしまって、思わず唾を飲み込んだ。
「……お師さん、なあ、ちゃんと見て? 触って、たしかめて」
覆い被さるように膝立ちになったみかが宗の顔を見下ろす。もう背中の中ほどまで伸ばした黒髪が、こぼれて宗の頬に触れた。出会ったころの少年とも少女ともつかない、人間にも人形にもなり切れなかった影片みかとはちがう。くっきりと、成長し、成熟し、宗が磨き上げた宝石がいまここにある。
「お師さん」
泣き出しそうなその瞳を見つめて、宗は目を一度閉じ、嘆息した。それから、ぎこちなく手を動かし、はじめて、女性として相手を抱きしめた。
おしまいです!
ありがとうございました!