その日はどこかお祭りのようだった。
港では、大きな船が桟橋をいくつも使って留まっていた。町には見たこともない装束の人がいて、レンデューム生まれの小娘には、全てが物珍しかった。
知らせがあってからしばらく、喪に服していた町が動き出していた。屋敷でも、仕事が増えた。泊まっている人のなかには、王子さまもいるらしい。どうしたらいいのかわからずに、陰鬱な気持ちを抱えているよりも、働いている方がずっとよかった。
それでも、これは何にもめでたいことではない。手を止めると、誰もがふとため息をついた。メイド長が一度、「赤ん坊の頃から知っているんだよ」と漏らしたのを聞いたことがある。
ホルム伯爵夫人と直接お会いしたことは、まだほんの数回だった。年のころは、自分の母親ほどだっただろうか。髪の色はもっと年嵩の人にも見えたけれど、見るからに生気があって、こんなに早く亡くなるなんて、思っていなかった。
「さあ、よその方に『奥方様』なんて言って、恥をかくんじゃないよ」
寂しさを隠した大きな声で、メイド長が皆に言った。
「本日ホルムにお帰りになるのは『皇帝陛下』だ」
*
ホルムに、もとい旧都に彼女を葬ることは、あらかじめ決まっていたことのようだった。
死の知らせとほとんど同時に、段取りが恐ろしい速さで定まっていった。ホルム伯爵ギュスタール公が、仮にも妻の死について、口を挟めることはほとんど無かった。
知っている。伯爵号の価値は、この数十年でずいぶん落ちている。大シーウァ時代の権勢にたのむ貴族は、ずいぶん落ちぶれた。かつてはひた隠しにされていたアルケア皇帝家との繋がりを示す家系図が、色々な場所から「発掘」されてきて、その真正性に大河神殿が太鼓判を捺す。そういうことが、当たり前に行われるようになっていた。
時代を変えた覇王が死んだ。前触れもなく。
「お館様」
物思いを巡らせていたギュスタールに、初老の執事が耳打ちした。
「……奥方様が、いらっしゃいましたが」
「言われなくとも顔ぐらい見る。熱病だったらしいじゃないか、あまり長居はしたくないがな」
「ええ、しかし、それがどうも……一週間も経っているとは到底思えないご様子らしく」
気付けば嘆息していた。
知れることはほとんど無く、理解できることは更に少ない。
そんな気分になるたびに、自分がちっぽけな子供のままであるような気分になる。
「魔術か」
「おそらく」
しかし、少なくともそう聞いて礼拝堂に足を向けることは出来る。何の権力も無い人間では、もはやない。
かつてグリムワルド夫人が死んだおりに、ギュスタールは葬儀に招かれもしなかった。
ウェンドリン・グリムワルドには、結婚しない理由が必要だった。ネスのテオルと同じように、あるいは正反対の原因で。
結果的に、彼女はネス公国から二人、西シーウァから一人養子を迎えた。いずれも確たる後ろ盾を持たなかったり、血族が現行の貴族とは言い難い人物だ。ギュスタールは、自分もまた同じようなものさしで彼女に選ばれたのだろうと思っている。
結婚式で受勲して、その日にはもう覚悟を決めていた。
まもなく殺されると思っていたのだ。いずれ彼女がこの地位に別の誰かを置きたくなった時に、あるいはウェンドリン以外の誰かがそう考えた時にも。
だから急いだ。いくさの痕も生々しいホルムに、故郷の働ける若者を呼び集めた。国ざかいの櫓の位置が変わるたびに、強面の同志を派遣した。自分と同じほど腕の立つ者を育てて、ウェンドリンの軍事力にレンデュームの戦士を必要不可欠なものとした。
その甲斐あってか、いくらかばかりの尊敬と、発言権と、ひょっとすると己の命とを、勝ち取った。
天秤の向こう側で浮いていたのは、貴族になった日に捨てた夢の名残だ。
独立を捨てた。自分ひとりだけウェンドリンと対等らしくなって、庇護を受ける道を選んだ。誇りを捨てさせた。ホルムで働く若者のほとんどは、もう山野林間の暮らしをほとんど知らない。彼らが地歩を固めるまでに、多くの家族を引き裂いた。かつてのホルム伯爵と同じように。
急いだ意味はあったのだろう。誰もが真のホルムの主人だと感じていた女が、こうも早くに死んだのだから。
今朝がた運び込まれた八葉の紋章の棺桶は、輪廻を示すしるしで豪華絢爛に飾り付けられていて、小さく派手な寝台のようにも見えた。中の死人が異常に清潔であるのだから、なおさらだ。
「……確かに」
南方遠征の最中に、処置の仕様もない急な熱病にかかって――という成り行きも忘れて、ギュスタールは亡骸をじっくり見つめていた。
病や、そう見せかけた毒でやせた様子もない。もっとも細い針一つ、どこかに刺さったようですらない。拭き清めたというだけでは説明が付かない死体だった。たった今穏やかに死んだ亡骸にすら、何かしら死の痕跡と生の名残があるのが普通というものだ。
――普通でないことに、こうした状態自体はある程度見慣れたものだった。石人を作る魔術にかかった人は、最初眠り込んだように見える。思わず手が伸びた。――冷たくなっているから、あの仮死状態とも違う。当たり前だ、死体なのだから。すぐに気付いたはずだが、確信が持てずにしばらくじっとしていた。
「……お館様」
案内した執事が、遠慮がちに声をかけた。
「心中お察しいたします」
察せるものか、と思ってしまった。ギュスタール自身も、自分が何を考えているのかわからないまま、ゆっくりと離れて姿勢を直した。紛らわしい。不愉快だ。自分がいれば、首でも落としてやったものを。
「爺。おれたちはこの礼拝堂の、あの梁の間に隠れたことがあったな」
「と、申しますと」
まるで幼少のみぎりの思い出話のようだ、と、気付いてふと笑いそうになった。この屋敷で育ったわけでもないギュスタールに、そんな微笑ましいことがあるわけもない。
「さきの領主の首を取るためだ。その日、こいつが待ちかねたように墓から這い上がってきた」
「……お館様、人の耳がないとも限りませぬ」
「聞かせておけ」
ギュスタールは、棺桶を見た。眠ったように死んでいる女を見た。
「どうせおれもお前も、畳の上では死ねんさだめだ」
*
「百と四十四だ」
数年前のことだ。
さる秘宝を求めて屋敷に押し入ったと宣う妖術師が、そんなことを言った。
「……分かるように話せ」
「おいおい、お前のヨメの話だぜ? ……冗談の通じない奴だな、やめてくれ。これでも痛いんだから」
もう既に殺した後だった。魔術で作られたハリボテが、裂けた頸動脈から鮮血溢れるのもそのままに、どこから出しているのか見当も付かない声で口を聞いていた。
「イチ・ヨン・ヨンの数字に固めるのが間違ってる。最古の神聖文字の記法を見れば明々白々だ。百と四十四、より正確には百八と三十六。十二を二つ、でもいいが、そっからは言葉遊びだな」
つるつると喋りながら、男は明らかに周囲を見回していた。再侵入のための経路を、あるいは何らかの反撃の糸口を、探していたのかもしれない。
先だって切り落とした足首から先は、瞬く間に泥濘のように形を失い、乾いて砂の山になっていた。ギュスタールが、返り血に塗れていたはず足を石畳に擦り付けると、やはりじゃぐりと音がした。
「お前は、さっきから」砂を噛むようにして言った。「"タイタス"の話をしている」
「……やれば出来るじゃねえか」
なぜか、男はそこで観念したようだった。彼はギュスタールの方を見て言った。
「タイタス一世の治世と生涯は二つに分割できる。いや、『二つある』。それを見に来た」
意味のありそうな言葉は、ほとんどそれで最後だった。
*
埋葬式の次第は、神官位を得た魔術師が是々何々と厳重に定めていた。ウェンドリンの亡骸は、間違いなく先祖代々の地下墓所に納めなくてはならない。二度滅びた帝国が、もっとも確かに守っていた場所であるから、と。
少し前まで、阿呆らしい迷信をやるものだ、と思っていた。しかし今のギュスタールの心には、かすかな納得がある。
本当なら、他の『現実的』な人々と同じように、今まさに陰謀を巡らせているべきだ。覇王が世を去ったのち、来たる乱世をどのように生きるか、考えているべきだ。
――自分は、恐れているのだろうか? それとも、期待しているのだろうか?
述懐する。かつて一人の賊が言っていただけの「言葉遊び」を弄している自分を、冷静な自分が呆れた顔で見下ろしている。
ウェンドリンは、二度失踪した。一度目はギュスタールと出会ってすぐ、二度目はかの戦争の真っただ中で。
そして二度とも、常ならぬ経験と共に帰ってきた。二度滅びた帝国と同じように。
棺は着々と進んでいく。いっさんに地下へと潜っていく。
ホルム伯爵夫人は、そのようにして死んだ。