「お嬢、お嬢」
はっと昼寝から目覚めたら、私の瞳を覗き込む銀髪の男性が視界いっぱいに広がっていた。先ほどまで、上司の無茶振りで何倍にも膨れ上がった調査資料をまとめていた。
つい最近、首都プラハに隠された地下通路が見つかり、その現地調査からプラハと共に帰宅したばかり。錬金術師たちが迫害を恐れてその研究成果を地下通路に隠したようだった。さすがと言ってはなんだが、至る所に趣向を凝らした細工や罠が仕掛けてあり、大いに手こずった。おかげで愛用していた作業着も、至る所にほつれや汚れが目立つようになってしまった。
その甲斐あって、今日まで錬金術師たちが隠したがっていた禁忌に近づくことがでいたのだけれど。
慌てて顔を上げると、先ほどまでテーブルいっぱいに広げていた資料の束たちは、隅に積み上げられていた。しかも、処理まで済ませて、丁寧に赤い紐で括られていた。
この紐で結ぶという行為は、まだ幼く事務作業を任せていた頃から変わらない、プラハの癖のようなものだ。紙紐でも麻縄でも、とにかく近くにあった紐で書類を束にする。事務処理を任されるようになってからは、プラハのその仕草に憧れて、見事私にも同じ癖がついてしまった。
久しぶりのプラハの家を満喫していると、どこからか甘い紅茶の匂いが漂ってきて、お腹の音が鳴ったのを感じた。
「はは、お昼にしましょうか」
プラハはいつも濃厚な甘さが特徴的なミルクを先に注いでから、その後に紅茶と順番が決まっている。どうやら、プラハに紅茶のなんたるかを教えてくれた先生が、ミルクを先に注ぐ人だったらしい。
天文学を象徴する星座の描かれたマグカップを差し出された。ありがたく口を湿らせていると、どこからかビターテイストなチョコが運ばれてきた。私の好きなラズベリーソースを添えて。甘いものが好きなスロバキアにはいつも蜂蜜だった。
「お疲れでしょう。いつの時代も、子らの想像力には目を見張るものがありますから」
その見つけた禁忌というのが、『国の化身を分裂させる実験』だった。いつの間に取られてしまったのか、私の髪や皮膚、血液に至るまで保管されていた。隠そうとしていた割に、大胆にも私の一部を所持するとは。
お察しの通り、国の体を複数に分けたところで、新しい国が発生するわけではない。それもそのはず、国を形作るのは国民であって、私たちのような化身ではないのだから。
それなのに、国の体を分裂させるとは、一体どんな目的があってのことだろう。付近に謀反の証拠などは一切見つからなかった。政変を起こすつもりでも、他国を脅かすつもりでもなかったらしい。錬金術師たちにぜひ話を伺いたいところだが、地下通路を作った者たちはすでに亡くなっている。何人かは捜索した中で白骨化した死体が残されていたのだけれども、資料によると発見したものの十倍もの人間がこの実験に関わっていたらしい。
「私の身近なところにも、この実験に加担した者がいたのでしょうか」
そう言ってチョコを口に運ぶと、プラハは不思議そうな顔をして訪ねてきた。
「分かりませんよ。もしかすると、この考えに賛同するものが現代にも潜んでいるかもしれません。まあ、もしそうであればお嬢の血液なんかは捜索の前に持ち出していたでしょうけど」
「それは、錬金術師の街の勘ですの?」
「さあ、どうでしょうか」
子供をあやすような仕草で、プラハは洗濯物を片付けに席を立った。
劣化しすぎた羊皮紙は角が欠け、文字も虫に喰われて見えなくなっていた。薬瓶はそのほとんどが駄目になっていたし、大鍋も底が抜け落ちていた。錬金術師たちが一体何を作っていたのかは、もう知る術がない。唯一残された手掛かりである白骨は放射線を当てて、その死因を探っているところだ。
『国の化身』というものが広く知られていない現代では、このような地下通路が発見されたこと自体、公表できない。たとえ見つけたとしても、歴史の中に捨て置くしか、できることはないのだ。
自分の預かり知らぬところで、もう一人の自分が作られようとしていた。その恐怖を誰にも明かすことはできない。国の化身たちにすら、伝えることは許されない。他の化身たちも同様の被害にあっていたのではないかという、あまりに大きすぎる不安の種となる。一種の国際問題にまで発展しかねない。恐怖は攻撃を生む。一度広がってしまった恐怖というものは、そう簡単に収まることはない。そんなことがあってはならないと、上司からの命だ。
自分の不甲斐なさと、国民から向けられる感情の正体に息が詰まりそう。探索中、一緒に行動してくれていたプラハのお陰で、今ようやく息ができている。しかし、そんなものはただ酸素ボンベから強引に吸引しているだけで、大気で肺を満たすのは、今は無理。はくはくと、酸素の足りていない魚のように、ただ口を動かすだけでもつらい。
国民の代表たれ、と教えられたその裏で、国民は自分を必要としていなかった。調査資料をまとめようと机に向かうことが、だんだんと苦痛になってきた。
「チェコ、何かあった?」
数日後、久々のスロバキアとのデートで、最初に言われたのがこれだった。可愛くした髪や、今日のために買った服を見る前に、顔色の悪さを指摘された。バレてはいけない、勘付かれてはいけない。そのために、体調を無視してまで待ち合わせ場所まで来たのに。
「熱……でもないな。喉は?頭痛い?」
伊達に長年同居していたわけではない、とその視線が物語る。何か言わなければ、誤魔化さなければと思うのに、咄嗟に言葉が紡げない。
「今日はもう帰ろ。俺んち来る?」
返事をする前に、強引にスロバキアの運転する車に乗せられた。
終始無言のまま、道の悪い道路を走る。スロバキアは私の顔を横目で見て、明らかに運転に集中できていない。人通りの多い中心部から郊外へ抜けてきたところで、ようやくスロバキアが口を開けた。
「チェコ、こっち向いて」
その指示通り運転席の方を向くと、スロバキアの顔が近づいてきた。優しさで包まれた、なんて事はなく。耳を塞いで、真っ直ぐに見つめられた。
「何があったのか知らないけどさ、そんな顔しときながら、俺にも言えないような事?」
「そんな顔って?私はいつも通りですわ」
「お前はいつも通りかもしれないけど、俺からしたら、なんかこう、覇気がないっていうか、調子悪そうって感じ?全然いつも通りには見えない」
こんな時にふと見せる仕草に絆されそうになって、そっぽ向いた。
「信号、変わってますわよ」
再び走り出した車に揺られながら、スロバキアに伝えるべきか悩んでいた。錬金術師たちが地下通路で活動していた時期は、スロバキアと共に暮らした幼少期と重なる。すなわち、スロバキアに被害がなかったとは断言できないのだ。しかし、伝えたとしても、スロバキアがそれを知ったとしても、スロバキアにできることなど一つもない。ただ不安にさせてしまうだけだとしたら、このまま黙っておいて、ことが済んだ後にでも言ってしまったほうがいいのではないか。
「ねえ、もしもの話ですわよ。もし、あなたがある重大な秘密を抱えていたとして。それを伝えて相手を不安にさせてしまうとしたら、あなたは秘密を明かすかしら?」
スロバキアは少し悩んだような仕草をして、唸った。
「それを告げたら、相手が昔の友人を疑わないといけなるとしたら?苦しい思いをさせるだけだとしたら?」
スロバキアの中で答えは決まっているようだったが、私の次の言葉を待って黙ったままでいた。泣きそうになりながら、『ただの例え話』と割り切って説明するのも、今の私には難しかった。
「今は黙っておいて、全て終わった後に言う手もありますわ」
「でも、相手がチェコなら俺は言う。別の人ならまた分からないけど、一緒に苦しむんだったら、チェコがいい。チェコに隠し事されるのは嫌だから、俺もチェコに隠し事なんてしない。チェコが頼れる相手でいたいし、チェコに頼られたい」
その為に二人になったんだから、と言ったところで、堪えていた涙が溢れてしまった。別に泣かなくてもいいのに、スロバキアも泣いた。二人でわんわん泣きながら、スロバキアの家に向かった。
家について、温かいコーヒーを目の前に置いてくれたことで、また泣いた。まさかまた泣き出すとは思っていなかったらしく、慌ててティッシュ箱を持ってきたり、目の前でおどけて見せたりしていた。ふかふかのソファでほっと一息ついて、ようやく話す決心がついた。
プラハで地下通路が見つかったこと、そこは昔錬金術師たちが使っていたこと、そこで『国の化身を分裂させる方法』を研究していたこと、そこに自分の血液などがあったこと。もしかしたら、スロバキアも被害に遭ってるかもしれないこと。
最後まで聴き終えた後に、スロバキアは何も言わず、優しく抱きしめた。それから、子供をあやすような声で、ゆっくりと話しかけた。
「話してくれてありがとう。もしかしたら俺の身に何かあるかも、って心配だったんだよね」
国民から向けられる不信感ほど、国の化身が恐れるものはない。なんてったって、自分の意思では死ねないのだから。国民の正義感、行動、思想、それら全てが国を殺すのだから。国家転覆の付属でついてきた結果とはまた違う、明確な意図を持って『国の化身を』害しようとした証拠があったのだ。
一連托生、竹馬の友。しばしば、チェコとスロバキアの関係はこのような言葉で表現される。だが本人たちはどちらかというと、『いつでも泣きつくことができる相手』という認識だった。それなのにチェコは今回の惨事を、スロバキアが問い詰めるまで、言うつもりはなかった。スロバキアは笑顔を貼り付けた仮面の裏で大層腹を立てていた。
ジリリ、と古い電話が音を立てた。スロバキアはチェコに一声かけて受話器を取った。電話の相手は、幼い頃に礼儀作法を教わった、プラハからであった。
『もしや、そちらにお嬢がいらっしゃるのではないかと思いまして』
プラハ自身も、この件に関してスロバキアを巻き込む気などなかった。しかし、チェコの行く先は、スロバキアの元以外考えられなかった。
「うん、そこのソファでコーヒー飲んでるよ。何かあった?」
何も知らないような素振りで返すと、ほっとため息が聞こえた。
『いえ、それならいいんです。坊ちゃんの元にいるなら。急に姿が見えなくなったものですから、総出で探しておりましたとお伝えください』
短い通話の後、スロバキアは己の未熟さに気付いた。国を分つとは、自分の知らないチェコになる、という意味であることを今更知った。
それから、慌てて電話をかけたのはスロバキアに『チェコの無事を心配していること』を伝えるためではない、となぜか理解できてしまった。恐らく、チェコが電話を代わっていれば、もっと別の内容を伝えるつもりであったと天性の勘が伝えている。それがチェコを苦しめるものであったとは到底思えないが、現状から救うものでもなかったのだろう。だからこうして、電話越しに言おうとしたのだ。
お揃いのマグカップも底が見え始め、微妙な空気が二人の間を流れた。チェコももう泣き止んで、前に進む覚悟ができたようだった。そんなチェコの様子にたまらなく不安になって、スロバキアはチェコの手を握った。
何週か経った後、二人はプラハの元へ向かった。今回の探索のリーダーであるプラハの元に、白骨の調査結果が届いたためであった。スロバキアの同行は伝えていなかったが、プラハはスロバキアの分のお茶も用意していた。
「結論から言うと、ただの石灰でした。お嬢の実験とは関係のない、また別のものに利用された石灰が永い年月のうちに小さく固まり、骨のように見えただけのようです。側にあった謎の液体が石灰を固めたようですが、その液体の正体までは把握できていないようです」
最後まで聞き終えた後、チェコが心配そうな声をあげた。
「では、誰の死体でもないのですわね?犠牲者はいなかったのね?」
「はい、お嬢。誰の死体でもなかったようです」
チェコは安心しきったように胸を撫で下ろした。国の化身の性というべきか、どれだけ自分が危ない目に遭っていようとも、真っ先に心配するのは子らの安全。横で手を握っていたスロバキアも表情を崩してテーブルに倒れ込んだ。
「しかし、未だ文書は解読されておらず、実際にどのような実験が行われていたか、その全貌は掴めておりません。これからですぞ」