朝飯を食べ終えた肥前忠広が、係の仕事までの時間何をしようか考えながら縁側廊下を歩いていたところ、こちらに足の裏を向けて通路のど真ん中に大の字になっている男を発見した。クリーム色のゆるふわショートボブと白いジャージを見て大方予想はついていたが、ちょっとだけ近づいて見ると源氏の重宝改め審神者の重宝髭切であった。どんなろくでもないわけがあるのか、髭切が体を張って廊下を通行止めしている。
肥前は髭切と言葉を交わしたことがないが、関わりたくない類の男であることだけはよく知っていた。乱は「髭切さん?楽しくて可愛い人だよ!」と言っていたが肥前にとって愉快さはプラスの評価にはならない。視界に入る前にそっと消えようと引き返そうとしたところで、「あ、ちょっとそこの君」と声をかけられたので、今まさにこの世の終わりが始まろうとしていた。
「人違いです」
「別に誰でもいいよ。スマホ持ってるでしょ」
「持ってないです」
「たった今言われてポケットにしまってから持ってないって言う人いる?いいからこっち来てよ」
何故朝っぱらからよりによってトイレに向かう途中の通路を私的に通行止めしている男に、身を守るためについた嘘を咎められないといけないのだろう?舌打ちをしながら振り向くと、髭切は首だけを持ち上げて肥前の方を見て、手招きをした。肥前は、犬が苦手な子どもが散歩中の大型犬の前を嫌々通るような足つきで、いつ全速力で逃げ出してもいいよう重心を後ろに傾けながら、本当に嫌々近づいて行った。
「それで写真撮って、膝丸に『お前が行ってきますのチューを拒んだのでお前の兄はトイレの前を封鎖しています』って写真付きで送ってもらえる?」
何言ってんだこいつ……。
「何言ってんだお前。頭湧いてんのか?」
「本丸全体のチャットあったでしょ、あそこから膝丸選択したらいいじゃない。おねがーい」
「……」
チッ。
ピ、カシャ。
お願いされる傍から舌打ちと共にカメラを起動し、ついでにちょっと離れて廊下の障害物を撮影する。お願いも何も、肥前は一刻も早くこの男とのやりとりを切り上げたいのでさっさと膝丸を召喚するしかないのだ。写真は膝丸に送信した直後ゴミ箱にポイした。
「兄者ァ~~また人様に迷惑をかけて~~~!!」
かくして、出陣10分前に完璧な姿で玄関で待機していたであろう膝丸は、1分もしないうちに飛んできた。あまりの速さにぎょっとしている肥前のもとに駆け付けた膝丸は息のひとつ切らすでもなく、俺に任せろとでもいうように大きく頷いて見せた。
「すまないうちの兄が」
「早く片付けろこれを」
「ヤッホー」
「承知した。さあ兄者立て、具体的には10秒で立て、皆を待たせているんだ。俺がな!」
「え~」
膝丸は速やかに髭切の上半身を抱え起こしたが、髭切はこてりと首を傾けた。弟に抱きかかえられるまま腰から下は脱力し、尻を床から離す気を微塵も感じさせない構えを見せる。完全にスーパーのお菓子コーナーで親に引きずられて行く幼子そのものだ。お前恥ずかしくないのか弟の前で。そもそもこれが恥ずかしいという神経があるなら通りすがりの肥前忠広に「弟が行ってきますのチューをしてくれなかったから拗ねてる姿を写真に撮って送ってくれ」などとねだったりはしないとすぐさま結論が出た。
虚しく10秒が過ぎる。
「メッセージ見なかったのぉ?」
「……」
膝丸は一瞬、背中のリセットボタンを押されたかのようなまっさらな顔をした。それから息を吸って明後日の方向を見て、兄を床にきちんと座らせた。その前に少しかがんだかと思うと、兄の顎を掴んで上を向かせ、はむっ、と音がしそうなほど大げさに口づけをした。
「ンッ……」
不意をつかれた髭切の喉が鳴る。
は?????
肥前はそれをたった1メートルの距離で見せつけられ、疑問符で頭がいっぱいになった。朝から不審者に声をかけられて、しかもそいつの言うことを聞いてやり、身内を呼んでやったのになぜわざわざ目の前で行ってきますのチューなんて見せびらかされなければならないんだ?朝からなぜ、こんな目に遭わなければいけないんだ?
横で肥前が呆気にとられている中、十分に間をとってから膝丸が髭切を解放した。口を離すときもチュッと音がした。
「これでどうだ?まったくたった一度忘れたくらいで。しょうがない兄だな」
「ふわ……殺されちゃった……。ねえ朝から兄をぶち殺しておきながらこのまま行くつもり?」
「いや行くぞ俺は。いい子にして待っていなさい!」
「え〜ヤダ〜!」
そんなやりとりを尻目に、肥前は何も言わずその場から走り去った。こうなれば嫌悪も怒りも驚きもなかったが、突然どうしようもなくそこから立ち去りたくなった。たった今何らかの許容量を越えたのだろう。
三十六計逃げるに如かず、マジでロクなことがねぇ!
「えっなに?肥前も行ってきますのチューされてーの!?」
「声がデケェよやめろバカ!」
朝からそんなことがあったんだが皆そンな気が狂ったことしてんのか?ということを聞きたくてそっと話しかけたのに、相手を間違えたようだ。話の半分ほどで雑に解釈した御手杵が素っ頓狂な声で誤解を撒き散らすので肩をどついたが、槍の肩というのは筋肉でパンパンに丸く張っており、びくともしない。
「えっ?そうなの?肥前くんって意外と甘えたなところあるんだね!」
早速耳ざとく食いついたのは、長机2つほどは離れている燭台切光忠だ。たったさっきまで歌仙兼定や堀川国広あたりと明日の献立の話をしていたくせに、こんな端っこの話題まで拾わなくてもいいだろうに……。ただでさえ御手杵が大声で注目を集めたうえに、これまた声の大きい燭台切が割り込んできたせいで完全に話が膨らんでいく。「乱くんならお願いしたらきっと喜ぶよ!言ってあげて!」と燭台切が身を乗り出しただけで動いた机を横の歌仙と堀川が冷静に押さえた。
そもそもこれが何の集まりかと言うと、肥前と乱で言うと肥前、御手杵と青江で言うと御手杵、燭台切と鶴丸で言うと燭台切の方……例を挙げると際限がないが、連れがいる刀のうちのそちらの役割を担っている刀たちが夜な夜な飲み食いをするのが慣習となっていて、乱が同様に青江や鶴丸たちの集まりに顔を出している間暇なので、肥前もこちらに引きずられて来ているのであった。
「同田貫もしてもらってんのかぁ?」
「あ?」
御手杵が肥前とは反対隣を向くと、箸でつまみあげたピンポン玉大の唐揚げをさあこれから食らうぞという口をした同田貫が視線をこちらに向けた。その口のまま短く聞き返し、「同田貫も行ってきますのチューしてもらってる?」と御手杵が繰り返すのを結局唐揚げを吸い込み、もごもご咀嚼しながら聞く顔に食事を中断された不快さだとか、その割心底クソどうでもいいような質問内容に呆れた様子は見られない。膨らませた頬袋が縮んでいくまで彼はたっぷり間をとって、「たまにな」とすんなり返した。
「たまにか~」
「アイツ照れんだよあれで。部屋の中ならいいんだとよ」
「部屋の中でか~!」
御手杵は同田貫の言葉を反芻して何か一人でテンションを高まらせた。なんで嬉しそうなんだ。クソどうでもいいことを聞いておきながらその反応であってるのかと密かにハラハラしていると、御手杵ごしに同田貫と目が合う。
「お前も照れるタイプそう」
まさか同田貫から話を振られるとは思わず、照れるも何も「行ってきますのチューとか皆そんな気が狂ったことしてもらってんの?」と言おうとしていた身でどう返したらいいのかわからず、出足が遅れたところに突然御手杵に抱き込まれて持っていたコップのコーラが零れてビシャビシャになった。
「そ〜〜〜なの!照れ屋さんなんだよな肥前は!かっわいい!」
「うわァ〜もういい加減にしろ御手杵ェ〜……またかよ冷てぇ……」
御手杵は大きくリアクションを取るとき必ず持ってるものをぶち撒けて周りを巻き添えにするのだが、自分の持ち物に対して注意を払えないのだから他人の持ち物に注意を払って接触するなど到底できないのだった。
飲みの席で服をずぶ濡れにすることが重なってすでにここに来たことを後悔していると、同田貫が肥前の服に散らばった氷をだいぶ手荒に叩き落とした。が、中身がほとんど空けられてしまったので、肌着まで到達しているであろう濡れ具合を見て顔をしかめる。
「アー……じょぶじょぶなってんな」
「ごめんなぁ、ティッシュ使う?」
「ティッシュで済むわけねぇだろどう見ても。お前酔ってんのか?」
「え酔ってないよ。まだ一杯目だし」
「そうだなお前はそういう御手杵だよな」
同田貫がこういった言い方をするのは、彼らの所属する本丸が別だからである。ただ個体差はあれど、二人とも自分の本丸のお互いとの関わり方と大して変わりがないようで、やりとりを聞いていても齟齬がない。ちなみにこの同田貫の言うアイツとは隣の本丸の歌仙兼定であり、宗三左文字を伴侶に持つ先ほどの彼とは別個体である。隣の本丸とは言葉通りこの本丸に隣接する本丸のことだが、縁側to縁側で行き来できるほどの距離にあり、自然と密接な交流が結ばれているため、こちらで宴会を開けば向こうから、向こうが宴会を開けばこちらから誘い合わせの上混じるようになっていた。おそらく今ごろ乱たちも同じような集まりでお楽しみのところのはずで、そこにこの同田貫の歌仙もいるはずだ。
「シャツまで濡れてっから着替えてくるわ」
「おう」
「一人で大丈夫か?手伝おっか?」
「死ねバカティッシュ食え」
どちらかと言うと同田貫に言ったはずがいらない気遣いが飛んできて雑に切り捨て席を立つ。濡れた衣服と腹がくっつくとやたらに冷たいのでつまんで引っ張りつつ部屋を出ていこうとしたところ、障子戸が自動で開いた。
「うお」
「うわっ、スマン」
今まさに戸を横にスライドさせようと手を伸ばしたまま一瞬固まっていたが、目の前の相手も謝罪した相手が肥前だと知って一瞬固まった。スマンと言って開いた口のまま一度息を吸い、再び吐き出されたのもまた威勢のいい謝罪であった。
「今朝は本当に申し訳なかった!」
「いやっ……ここで謝んなよ目立つだろーがよ。目立ったわ」
とうに出陣を終えて着替えてきたらしい膝丸は肥前の顔を見るなり出陣の時と同じくらい緊張した面持ちをして、肥前の前髪がそよぐほどの勢いで綺麗に直角のお辞儀をして見せた。部屋の入り口で。謝罪はともかくとしてやっと『肥前ってなんか行ってきますのチューされたいらしいよ』とかいう不名誉な濡れ衣が有耶無耶になってきた件をまた蒸し返す存在が現れたことにげんなりして、思わず背後を振り返ってしまう。危惧の通り、ちゃんと全員に注目をされている。先ほどの件について前後を聞いていない燭台切に至っては「どうしたの?今朝?」とトラブルの気配に目を丸くしている。
「どうもしねえよ。いいんだよ。おれはいねえんだよここには」
「兄者には俺からよく言い聞かせておくから勘弁してくれ、こう……雑巾みたいにカッッスカスに絞っておくから」
「それ本当に言い聞かせンのか?いや本当にもういいんだって。つかなんでアンタがこっちなんだよ」
立っている人間の頭の先と足首のあたりを両手で掴んで体の前に持ってきて、ンギュ~と力いっぱい絞るジェスチャーをする膝丸がそれなりにここに居座る姿勢を見せるので、言外にお前は乱たちと同じ集まりだろうという旨を込めて聞く。そうという明確なルールなどはなく、一応誰であっても拒否する刀はいないだろうが、元々は相方の前ではできないような話が繰り出される場ということになっているからだ。主に向こうが。一応訳があって二手に分かれているので、敢えて逆行してこちらに来ていることにも訳があるのかもしれなかった。
肥前の配慮は膝丸の「兄者が向こうが良いって言うから」という一言で棄却された。
「向こうに仲のいい数珠丸殿がいるから交換しろとのことで」
追加の補足に全員の注目が解かれ、それぞれ手元の酒と肴に戻った。結局兄貴のわがままが通ってんじゃねえか。肥前もサッサと脇をすり抜けて本来の目的を果たしに部屋を出る。
とはいえ膝丸はこれでも言う時は言うし、絞るときは本当に兄が泡を吹いて周りが止めるまでやる男だ。少なくとも明日あたり手入れ部屋にブチ込まれることになるであろうことは確実で、少し胸のすく思いがした。やったぜざまあ見ろ。
肥前の部屋は正確には彼だけの部屋ではない。この本丸では基本的に来たばかりの者は大部屋に入れられ、特がつくと希望者から個室もしくは少人数の部屋に移動できるが、初めに入れられる大部屋で交友関係が出来上がってしまうため、多くはそのまま過ごすようになる。肥前はすでに該当の練度を迎えてはいるが、引っ越しが面倒で結局騒々しい大部屋の隅っこで寝泊まりしている。肥前が大部屋から出るということは、つまり乱と同室になることを公然と申請しなければならないため、他の連中からそういう目で見られるのがまだ照れくさくて二の足を踏んでいるのだ。まだそこまで開き直ることができない。いや、例え乱と付き合っています、カワイイだろおれのツレ、と堂々と言えるまで気が狂えたとしても、朝っぱらから他の奴の前で「オイ行ってきますのチューしてくれよ」なんて口走れる頭のおかしさは肥前のどこを絞っても出てこないだろう。やっぱ普段から雑巾みたいに絞られている奴は違うな。
自分がチューしてくれなんて乱におねだりしているのを想像してゾッとしながら着替え、「通路側も~~~らい!!!」と言いながら敷布団ごと滑り込んできた獅子王を飛び越えて廊下に出る。ちなみに大部屋はいつもこのような感じだが、慣れれば動物園のような盛り上がりの最中であっても差し支えなく眠りにつける。その証拠に反対側の角ではすでに布団を被った誰かが静かに眠っていた。
通りかかる多くの部屋がすでに暗いか、間接照明の優しい明りが漏れている程度の中、煌々としている部屋の前を抜き足差し足で通る。
「そこで大包平殿が耳まで真っ赤にして『手を繋いでも……?』なんて言うものですから!清純派……あまりにも清純派……!本丸に戻ったらもう片方の手に握っていたお醤油がメコメコになって中身が全部なくなっていましたが大包平殿の手を握りつぶさずに済んだのですから安いものですよね(早口」
「だからあの日の豚汁お味噌だったんだぁ~」
障子の向こうからは、同じ室内にいるかのような音量で大包平が聞いたら恥ずかしくて転げまわりそうな話をしている数珠丸恒次の声が聞こえる。間延びしたどうでもいい相槌を打ったのは髭切だろう。手前に座っているのだろうが、奥からも「彼ピの性癖ビンゴ大会~~~!!!一週間後一番ぶち抜けてたやつ優勝な!」とかいう鶴丸国永の声が聞こえ、肥前は音を立てず、心と気配を消し、足早にそこから立ち去ろうとした。できることなら視界に入ることなく一生を終えてしまいたい化け物たちの宴である。並みの男が中の者に見つかれば恰好の餌食になり、骨と皮だけになってしまうだろう。
一刻も早くここから立ち去りたい一心だったため、後ろから近づいてきた者に肩を掴まれるまで気付かなかった肥前は、思わずデカめの蛾が頬の真横まで飛んできた時のように勢いよく振り払ってしまう。驚きのあまり声すら出なかった。
「あ痛ぁ!」
「わ、ワリ。乱かよ」
「そうだよ~どったの?トイレ?ボクはトイレ!」
「自己紹介すなよ。酒くさ……」
蛾のように手をはたき落されたのを気にも留めない様子で、乱は顔の横で両手を小さく振った。どうでもいいが距離が近い。元から心も体もゼロ距離で接してくる方ではあるが、今は間違いなく出来上がっている。
「酔っぱらってんじゃん寝ろって」
「えーもうちょっと♡せっかくこっち来たんだし忠広くんも寄ってく?」
「勘弁してくださいお願いします」
気を取り直して握り直された向こうの手が思いのほか熱いのでちゃんと心配して言っているのだが、危うく中に引きずり込まれそうになりひとまず退散することにする。本来乱も向こう側の男なので平然と過ごしているのだろうが、肥前は「彼ピの性癖ビンゴ大会」とか言って盛り上がっている連中の中に放り込まれて生きていける人種ではない。しっかり握られた手をねじり解こうとするも、酔っ払いの極短刀の力が強すぎて難航するうち、引き寄せられて完全に引っ付かれてしまう。
「廊下なんですが~」
「だって忠広くんが冷たいんだもん。イチャイチャしようよ」
「日を改めろよ」
「今いい気分だから今がいいの。じゃあチューしよ?」
「困りますお客様」
さくらんぼのようなピンクの唇をすぼめて何の脈絡もなくキスを迫られ、顔を背ける。ここでウンと言ってまんまと口を吸われてしまったら、正気の沙汰じゃねえと唾棄していた連中と同類になってしまう。実際乱は今正気の沙汰ではないのだから自分が踏ん張るしかないのである。脇差と短刀という体格のリードがあるとはいえ、肥前は乱にあまり乱暴なことができないという弱みもある。
問題はそれを乱がしっかり察知していることだった。乱は肥前に抱き着いたまま彼を壁際まで追い込み、腕を背中から首に回し直した。そうやってぶら下がられると首の力だけでは抵抗できず、顔を逸らすことができなくなる。
「ンーーーーーーー♡」
「んむ」
逃げきれなかった肥前はとうとう乱に唇を貪られてしまった。そうなってしまうと肥前も乱の腰に手も回して支えてしまうし、うっかり目を閉じてしまい、ちゃっかり角度を変えておかわりまでしてしまう。さらに迂闊なことに温かい舌まで入れられそうになったので、そこは意地で歯を食いしばって耐えた。耐えたまではいいものの、
「僕もトイレ行ってこようかな~。ワオ」
呑気な声と共に障子が開き、咄嗟に思い切り首を横に振って乱のキスを振り切った。首からピキッと嫌な音がしたが構っていられない。
「もういいだろ」
「え~いいところだったのに。仕方ないなあ、今は見逃してあげるね」
「次も見逃してくれ」
「どうかなー。考えとくねっ」
やっと納得してくれたかと思いきや、頬にチュッと軽いとどめを刺されてしまう。無理に首を捻ったせいでエジプトの壁画のように横向きのまま固まってしまった肥前を尻目に、ある程度肥前といちゃつくことができてスッキリした様子の乱は障子を開けてこちらを見ている髭切の脇をすり抜け、魔窟へと戻って行った。そこまで見送ってから、髭切はのそりと廊下に出てきて肥前の顔の前で手を振った。
「生きてる?」
「いいえ」
「死んでる?」
「いいえ」
「壊れちゃった……ねえそっちに弟いるでしょ? 数珠丸寝ちゃったし、そっち混ざろうかな~」
「いえお構いなく」
「どういうこと?」
廊下に立ってるマネキンかアンドロイドになりきることでどうにかスルーしてトイレなりどこへなりと去ってくれないかと訳のわからない返事をしていたが、やり過ごせそうになかったので早口でまた適当な返事をして今度こそ早足で立ち去る。走ったら逆についてきそうで、戻る途中何度か振り返ったがどうやら撒いたのか、最初から追わなかったのか定かではないが、ついてきている様子はない。
飲み物が零れて着替えを取りに行って戻ってきただけなのにウン㎞マラソンをしてきたかのような疲労感がある。髭切に見られたとわかった瞬間全身の毛穴が開いたかのようなむずがゆさが広がり、いてもたってもいられずここまで来たが……。髭切は膝丸のこと以外基本的に興味がない刀だろうし、主な話相手である数珠丸も寝てしまったというし、起きていても大包平のことにしか興味がないから、推しの話以外で盛り上がることはないだろうが、ポロッと漏らされたらたまったものではない。膝丸に絞られる前に自分が口封じするしかないだろうか。
心を後ろに置いてきたままそっと戸を開けて中に滑り込む。ちょうど話の主導権を光忠が握っていたところらしく、ハイボールをあおってからグラスを持った手で大倶利伽羅を指さした。
「キスなんて挨拶でしょ挨拶」
最悪ださっきからトークテーマが変わっていない。飽きろよ。もっと話すことあるだろ。明日から一週間性癖掘り返されンだぞお前。
「おはようもするし行ってらっしゃいもおかえりもするでしょ」
「おはようとおやすみでいいだろ」
指さされたグラスを軽く手で払いながら、大倶利伽羅が返す。今度こそは話題に巻き込まれたくないのでそっと席に戻ると、同田貫が「おかえり」とスペースを空ける。見れば、最早我関せずといった様子でブラックペッパーまみれのウインナーを一口で吸い込んだところだった。パリッといい音がする。
脇から御手杵が割り込む。
「でもされたくない?チュー」
「どっちでも……」
「えーチューはいつだってされたいだろ!」
「明石くんくりちゃんにお願いされたら弱そうだし言ったらしてくれるよ」
「言うか。頭の病気だと思われるだろうが」
「確かに……言うね確実に……頭大丈夫?って言われるね……」
自分で振っておきながら反論に納得した様子で光忠が何度か首肯して見せる。真ん丸に見開いた目で大げさに肯定するのにイラついたのか、大倶利伽羅も自分で否定しておきながら、手元のほろ〇いを掴んで光忠に投げつけた。完全に八つ当たりだったが、会話をしていたのが肥前だったら肥前もそうしていただろう。光忠は顔色一つ変えず空き缶をキャッチし、クチャッと捻りつぶした。横から歌仙が「潰すなら洗ってからにしてくれ」と差し出したゴミ袋に吸い込まれる。
八つ当たりついでに「そもそもそんな正気を失ったことを頼んだりはしない」と大倶利伽羅が煽る。
「そんなことないよ!失ってないよ!」
「遠征の時離れがたくて宗三に口づけをねだっている僕ももしや正気を疑われている……?」
「大変申し上げにくいのですが……」
「目を見て話せ」
「申し上げにくいっていうか言っちゃってますからね」
またしても正気を失った話題を広げ始めた大倶利伽羅たちの前のゴミを回収している堀川が、ふと息を殺していた肥前と目が合った。いや微妙に目が合っていないのだが、肥前の方を見ながら何事か口を開こうとしたとき、光忠が懲りずに肥前に振る。光忠はそれなりに酒には強いのだが、少しでも酔いが回ってくるとそれに委ねて絡めるだけ絡んで来ようとする。今日はのっけから注目を集めてしまったのと、乱がそもそも光忠たちと同じ部隊で古い付き合いであることから、もともと捕まる運命だったらしい。
「乱くんもさ、ずっと肥前くんみたいに甘えさせてくれる子が欲しかったと思うし、イチャイチャしてあげなよ。喜ぶよ」
「だから~、しねえってンなことは。頭がハッピーセットかよ」
頭がハッピーセットだったわ。言った瞬間から高速でブーメランが戻ってきて突き刺さる。反射で言い返してしまったがついさっき髭切や光忠たちにどうこう言えないようなことをして(されて)しまったばかりであることが瞬時に思い出され、思わず視線が床の畳まで落ちる。
背後で戸が開閉する音がした。肥前含め近くの何人かが振り返ると、どこかへ行っていたらしい膝丸が髭切らしき男士を小脇に抱えて戻ってきたのであった。小脇に抱えるといっても、足の方がほとんど引きずられている状態で、半分ほど靴下が脱げている。
肥前が彼を撒いてから今までで何かが起こったらしい。肥前がこの部屋を出る前と同じように注目を集める形となった膝丸が「ちょうどトイレから戻る途中で会ったから絞った」と言うと、皆納得した様子でそれぞれの会話に戻る。
「生きてるの?」
「脈はある」
いや手入れ部屋にぶち込んで来いよ。と喉元まで出かかったが、髭切なのでやめた。なんなら目覚められると困るまである。口封じをする手間が省けたまである。
光忠ですらふーんと言ってハイボールを挟み、
「肥前くんだって乱くんにチヤホヤされてるとき満更でもなさそうだよ」
とほじくり返した。ほじくり返すな。今ちょうど話題が転換するいいタイミングだっただろうが。背中のあたりで嫌な汗が湧き始める。
「嬉しそうじゃないいつも」
「いいえ」
「あと肥前って乱さんとスリッパ片方ずつ取り換えッこしてますよね」
「いいえ」
「マジ?かわいーな。俺も青江とやろうかな。片足パッツパツなるけど」
「いいえ」
「壊れた機械みたいになっちゃったな……」
ひたすら畳を見つめ、この総攻撃をやり過ごそうと全部AIになったつもりで適当な返事を返す。悪夢ならここらで覚めて欲しい。公開キス以外ならなんでもしてやるから許してほしい。
そこで一番食い込んできて欲しくない男が、のっそりと体を起こした。
「てかそもそも君、廊下で乱ちゃんと濃厚キッスしてたじゃん」
肥前の呼吸が停止し、そこ一角に静寂が降りる。
「ああ、肥前のそれ、キスマークなんだ?ほっぺがうっすらピンクなので何かと思って」
「あっ逃げた」
堀川にとどめを刺され、肥前はそこからダッシュで逃げた。三十六計逃げるに如かず。人間、否刀剣男士とて、常に正々堂々真っ向勝負で困難に立ち向かっていけばいいというものではないのだ。
肥前はしばらく飲み会に顔を出すことが出来なかったのだが、肥前が廊下で乱といちゃついていたことなど大した恥でもない程度には頭のおかしい連中しかここにはいないため、彼が思ったほど皆の記憶に残ってはいないようであった。実のところこの後日談として大倶利伽羅が物は試しと出がけの明石に、「行ってきますのチューをしてくれ」と頼んでみたところ「頭の病院行ったほうええで」と言われたオチがついたのだが、肥前が知ることはなかった。それももちろん、光忠や歌仙など歴代の恋狂いたちに比べれば可愛い失敗程度のものであるため、そう話題にされずに終わったことも、彼は知らない。