少年は水木という苗字であった。そのイントネーションは「み」を強く言うものでは無く、「ず」をやや強く、しかし、比較的平坦に発音する「みずき」であることを少々周りは呼びづらそうにしていた。
また、水木少年の変わっているところは、生まれつき左の耳の一部が欠けていること、それから、左目に傷のようなアザがあること。それらは成長するにつれて徐々にハッキリと目立ってくること。それが水木少年の、そして、彼の両親の心配するところだった。その傷はまるで虐待でもされているかのように見えるからだ。水木少年の母は思い悩んだ。それは、一時は夫と、息子の整形手術についてさえ話し合ったほどだ。
だから、彼の両親は少年が物心ついたころに彼に問いかけた。
「その顔と耳の傷、なくす手術をしてみるのはどうかしら?」
少年にとっては耳の傷も目の傷も生まれたときから自分にあるものだ。すっかり慣れ親しんだそれが無くなるというのが、やはり少し、もの寂しかったのだろう。
「これは僕の顔の一部だよ。変えないで」
それに、手術ってなんか、怖い。
幼い子供にそんな選択を迫ってしまったことに両親は後悔した。母は「普通に産んであげられなくてごめんね」とすすり泣きながら息子を抱きしめ、父はぎゅっと母子を静かに抱きしめていた。
少年はただ、そんな自分の両親を不思議そうに仰ぎ見るばかりしか出来ずにいた。
少年にはもう一つ、秘密がある。
少年の住む団地の一番奥の一階の部屋。そこはいつもジメジメとしけっぽく、どうにも入居者が長く続かないのである。そんな評判の悪い部屋に、ある日、一人の男と男の子が引っ越してきた。男は顔立ちは若々しいにもかかわらず、その髪が真っ白で、しかも着物を着ていることから年齢不詳に見えた。男の子は、男と同じような長さの栗毛色の髪で、年は大体、水木少年と同じくらい。多分、小学校低学年くらいと思われたが、トラ柄のちゃんちゃんこを着ていてこちらもどこか浮世離れしている雰囲気であった。特に、二人はどちらも前髪が長く、左目がよく見えないのである。にもかかわらず、唯一見えているその右目が、ぎょろりと丸く周囲を見渡すものだから、引っ越してきてすぐに団地の中では有名な『片目親子』というあだ名が付けられていた。
「新しく越してきた田中です」
団地の同じ棟というだけで大して部屋が近いわけでも無いのに、なぜかその親子と思われる男と子供が水木家に挨拶に来たとき。水木少年は、その二人を見てぎくりと胸が跳ねる音を聞いた気がした。しかし、少年にとって、なぜそんな衝撃が身体を貫いたのかさっぱりと検討がつかない。強いて言うならば、秋も終盤にかかっている時期だというのに、その男と子供がどちらも裸足で赤い鼻緒のそろいのゲタを履いていたのが寒そうに見えたからかもしれなかった。
「水木です。よろしくお願いします」
「水木、さん・・・・・・」
挨拶に出ていた母の発音する「みずき」のイントネーションを全く間違わずに繰り返す着流しの男の姿を見上げながら、水木少年はざわざわと背筋になにかが走って行くような奇妙な感覚を覚えていた。そんな感覚は生まれて初めてで、いくら目の前の男が大人にしても長身の部類で威圧感があるからとか、普段着で着物を着ている大人を初めて見たからとか、そういう理由ではなさそうであった。そして、先程から何も言わずにじっと水木少年だけを見ているちゃんちゃんこを着た少年のまん丸の瞳が。『片目親子』の由縁のその、右目しか見えないその目が。なぜか水木少年には直視できずにいた。
「これ、鬼太郎。あんまりまじまじと見るでない」
「すみません、とうさん」
「息子さん、おいくつですかの?」
着流しの男が水木の母に問いかけたのに、なぜか水木少年は「答えないでくれ」と思った。しかし、母はそんな息子の気など知らずあっさりと7歳なんです、と応じてしまう。
「ならば鬼太郎と同い年じゃ。同じクラスになれると良いの?」
「はい。とうさん」
「近頃の小学校はクラスの数が少ないからきっと同じクラスになりますね」
よろしくお願いします、と丁寧に頭を下げる母似ならって、水木少年も軽くぺこりと頭を下げるしか無い。じいっとそっくりなまん丸の目で少年のつむじを見てくるのが嫌というほど水木少年には感じられていた。それなのに、少年がその頭を上げると、その奇妙な親子は水木のことなど全く見ていなかったかのように視線をそらすのである。その様子があまりにもわざとらしくて水木少年はまた、一人、背筋が冷えるような思いをしていた。
「よろしく、水木くん」
鬼太郎と呼ばれていた子供までも「みずき」の発音を全く間違わずに発音することに、差し出された右手のその冷たさに。水木少年はやはりどこか怖じ気づきそうになっていた。
水木家の両親は、共働きである。そのため、水木少年は鍵っ子であった。
学校からの帰り。友達と遊んできて、そうして家に帰る。玄関の鍵をガチャガチャと開けていると、なぜか最近決まって聞える音があった。
からん、ころん。
ゲタの音なのである。それも、団地の階段を上がってくる音。
最近では慣れっこになりつつある水木少年は、もう既に中学生になっていた。
からん、ころん。
音は、水木少年のいる階で階段を上るのを止める。そうしてまっすぐに水木少年の住む305号室に向かって進んでくるのだ。その頃になれば、相手が誰だか、その手に何が持たれているのかが水木にも見えるようになってくる。
「おじさん、今日は、何?」
小学生のころに会ったそのままの姿形の『片目親子』の父の方。田中と名乗っていた着流しの男が両手で鍋を抱えてやってくるのだ。
「筑前煮を作ったのでお裾分けじゃ」
「おじさんちは煮物が多いね」
「そうじゃのぉ。わしに料理を教えてくれたやつが得意じゃったからな」
「へぇ? それって奥さん?」
「いや。違うが大事な相棒じゃ」
「ふぅん?」
初めに鬼太郎の父がこうやって『お裾分け』を持ってきたのは彼らが引っ越してきて数日後のことだった。初めのうちは恐縮していた水木家の両親もあまりの頻度に最近は慣れっこになり、この『お裾分け』を当てにするようになりつつある。おかげで、今日の夕飯にと母が作り置きしていったのは白米とキュウリの漬物だけだった。
「今日もお母さんは遅いのかの?」
「父さんも母さんも遅い予定だよ」
「そうか。うちの鬼太郎も遅くなると言うとった」
「遠くの中学なんか行くから」
鬼太郎は奇妙な同級生だったことを水木少年はよく覚えている。勉強も体育もよく出来過ぎた。まるで何度も同じ授業を受けたことあるかのように何でもかんでもさらさらとやってのけた。その割に、背は伸びないし、顔立ちもいつまで経っても幼いままであった。もちろん、声変わりもしない。
「僕は、中学受験をするから水木くんとはずっと一緒にはいられないな」
そう呟いたのが水木の覚えている鬼太郎の最後の言葉だった。とても仲が良かったとは言いがたかったが、何かにつけて「水木くん」と近くに寄ってくる鬼太郎と小学校では行動を共にすることが多かったので水木少年は少なからずショックを受けた。鬼太郎と同じ中学に行きたいから、と中学受験をしたいと両親に告げるにはあまりにも遅い時期であったし、何より、鬼太郎の頭の出来の良さを知っていた水木が彼に追いつけるとは到底思えなかった。
「まぁ、鬼太郎の代わりにわしと仲良くしてくれ」
そう言って『お裾分け』だけで無く、水木の家に上がり込んで一緒に夕食を食べるようになった鬼太郎の父をなぜか水木は断れきれずにいた。
「今日は白米と漬物しかねぇよ?」
ぶっきらぼうにそう告げる水木に「かまわんかまわん」とニコニコと微笑む男は、なんだってこんな赤の他人の少年との夕食を嬉しそうに、楽しそうにするのか? 水木にはさっぱり解りはしなかった。