ぱたぱたと廊下を走る。こんなときに限って選んでしまった動きづらい和装が恨めしい。せめて松の内まではどうかと拝み倒してきた初期刀その他大勢のせいだと恨み節をつらつらと重ねながら、それでも冷たい板の間をなんとか駆けていく。
いつもならばったりだれかに出くわしてもいいはずなのにそれもない。いやここで織田の刀とかには絶対に会いたくはないけれど。そんなどうでもいいことを思いながら走った長い廊下の先。
ひとの気配のする一室に滑りこむ。と、あまりに勢いよく飛びこんできた審神者の姿に驚いたのか、大きく目を見開いた光忠とばっちり視線がかち合う。
助けて、という言葉が口をつく前に、彼は困ったように笑ってみせた。
「実休さんから逃げてきたんでしょう?」
ぶんぶんと首を縦に振る。そこまでわかっているなら話がはやい。
仕方ないなあとばかり手招きした光忠にあまえ、きょろきょろとあたりを確かめてからぴしゃりと襖を閉じきる。追いかけてくるような足音はいまのところない。それになんとか安堵して、ようやく大きく息を吐く。
そんな審神者の振る舞いに、光忠ばかりが苦笑した。
「なんとなく、ね。そんな気がしたから」
さすがこの本丸でも古株に数えられる男士ともなれば審神者がいわずとも悟れるものなのだろうか。ともあれ話が通じる相手が近くにいてくれてよかった。そう胸をなで下ろすものの、同時に苦々しい表情を浮かべてしまう。
いまのうちにどうにか対応策を考えたいところだが、ここにいるのは燭台切光忠ひとり。
彼とおなじ長船の祖――、光忠の作だ。
粟田口とはちがって兄弟という概念は薄いようだが、万が一ということもある。
突然やってきた長兄(?)と主である審神者であればどちらを優先すべきかは明白だと思いたいが、それでも彼の性分を曲げさせるのは気が引ける。
「一応聞くけど、なにか怒らせるようなことしたわけじゃないんだよね?」
そんなわけはないと、今度は大げさに首を縦に振る。それを見てうん、とひとり頷いた光忠は、それからふと考えるようなそぶりをしてみせた。
「僕も彼のことがわかるわけじゃないけど……。そうだね、なんとなくなら予想はできるかな」
「みっちゃん~~~!!」
思わず泣きつくと同時、閉め切っていたはずの襖がすぱんと開け放たれた。
あ、と声が転がり落ちる。頭上の光忠もまた、困り切ったような声をこぼす。
ぶつかった瞳は、静かだがなにか燃え上がるものを潜ませる紫のそれ。
「……光忠、」
「うん、ごめんね実休さん。主に何か用だったんでしょう?」
「みっちゃんの裏切り者!!!!」
「裏切るもなにも、僕はどちらの側にもついたつもりはないよ」
もっともすぎる正論の前にがっくり項垂れる。そんな審神者をはい、と実休に差し出した光忠は、やはり困ったような笑みを彼の兄に向けた。
「あんまり責めないであげてね。主、これでもナイーブなところあるから」
「怒ってるつもりはないんだけど」
「そんなに追い詰めないでねってこと。じゃあ僕はこれから厨番だから。主、がんばってね」
励ましにもならないそれを聞き流しながら、うんうんとひとり唸る。光忠が最後の頼みの綱だったのだが、こうもあっさり切り捨てられるとは思いもしなかった。
じたばたと多少もがいたものの、光忠は振り返ることなくすたすたと行ってしまう。それにがっくり肩を落とすと、そっと実休の手がそこに触れてきた。
反射的にびくりと肩を跳ね上げる。ぎこちなくそちらに視線をやると、やわらかな紫紺の瞳がこちらに向けられていた。
「驚かせてしまったかな」
ごめんね、としゅんとしてしまった実休に、ちがうと首を横に振る。
そんな顔をさせるつもりではなかったのだ。ただ、びっくりしてしまっただけ。
先ほど逃げ出してしまったことも含めて、そう謝罪する。
なんともきまりが悪い。だがそれはおそらく、お互いにそうだった。なんともいえないもどかしい時間に歯がみしていると、実休が先に口を開いた。
「僕も気が急いてしまったんだ。でもどうしても、君に言っておきたかった」
はじめて見たときから。
顕現したときから、その感情が、走り出していたことを。
どうしても伝えるべきだと、彼は思ったのだ。
しかし自分は逃げ出してしまった。知らないその感情への対処法を知らなくて、ただ彼を置き去りにしてしまった。怒られても致し方ない。それだけのことをしたのだ。彼の想いを踏みにじってしまった。それがどうして心苦しい。
「薬研くんに聞いたんだ。ここの刀剣男士たちはみんな、君のことを好いているって」
もちろんそれは単なる好意であって、恋慕の情とはほど遠い。
そのはずなのだが、まだこの本丸に来て日の浅い彼にはその違いがよくわからなかったのだろう。だからなおさら混乱してしまった。
……とはいえほかの本丸には、刀剣男士たちとそういう関係になった審神者もいると聞く。
それでは自分はどうなのだろう。よくわからないそれを、なんとなく放り出していたそれを。
まさか顕現したばかりの実休光忠から向けられてしまうとは、思ってもみなくて。
だから逃げ出してしまったのだ。頭数が増えるとともに増改築したこの本丸は思ったよりはるかに広い。審神者の力を使えばそれも造作もないのだが、まさかこんなことのために使うわけにもいかない。
それで必死に逃げて、逃げて。
たどり着いたのが、彼の「弟」である燭台切光忠のところであったというだけ。
運がいいのか悪いのか。どちらともいえないが、せめて彼と関わりの薄い男士でなくてよかったと思うべきなのだろう。
「迷惑、だったかな」
「そんなことは、ないですけど……」
尻すぼみになってしまう返答に、ますますなにかが拗れていく。
いやそれではいけないのだ。そう、なにかを振り払うように頭を振って。
わかりました、と腹を括る。見上げた先にある彼の顔を見る。
まるで捨てられた子犬のようなその表情に、胸に刺さるものを覚えながら。
「私、まだ実休さんのことよく知りません」
「うん、そうだね」
「だから私に教えてほしいんです。貴方のこと。これからどうしたいか、私にどうあってほしいか」
「……うん、」
「そうしたら、私も貴方に対してどうあるべきか、こたえられるようになると思うんです」
だから、と前置きひとつ。
「これからよろしくお願いします。実休光忠」
すなおに頭を下げる。そんなことで、先ほどの不始末が帳消しになるとは思ってもいなかった。
けれどそうしなければ、彼はきっと迷ってしまう。
自分自身の在り方に。身の振り方に。おなじ光忠の刀があれば、織田の刀が側にあれば、なおさらに。
その存在が揺らいでしまう。
それだけはけして、してはならない。
これにどう返してくるだろう。怖々顔を上げると、彼はいつもとさして変わらない、穏やかそうな顔をしていた。
「君に頭を下げられるとは思わなかったな」
「主、といっても、私自身できることはほとんどないので」
そんなことはないさ、と実休は首を横に振る。
「そんな君だから、きっとここにいる刀剣男士たちも力を貸してくれているんだろうね」
そうだろうか。考えるものの、思い当たるような節はなにもない。うーん? と首をひねっていると、実休はさもおかしそうに笑い出した。
「光忠のことは、ずいぶん信用しているみたいだけれど」
「それはぁ……」
胃袋をしっかり掴まれてしまったから、と正直すぎる本音をもらせば、彼は一度きょとんとして、それからふふっと笑みをのぞかせる。途端に気恥ずかしくなってぽかぽかと胸のあたりを叩くものの、そんな些細な抵抗で参るような刀剣男士であるはずがない。
当然ながらなんの意味もなさないそれにふふっと笑い、それからスマートな流れで手を取る。
「僕はここでは新参者だからね。知らないことがまだ沢山ある」
それと同じくらい、君のことも教えてほしい。
耳元でささやかれたそれに素っ頓狂な声をあげてしまったおかげでちょっとした騒ぎにまで発展してしまったのだが、それはまた、別の話だ。