あひるが帰ってきたのは、作戦を決行してから三日経ったころだった。
 その間私は、あひる小屋にいるあひるに一匹ずつ近づいて、彼らの中に人間が紛れ込んでいないか確認をしていた。あひるはいないと言っていたが、もしかしたら隠れて潜んでいるのかもしれない。地面に文字を書いたり執拗に鳴き喚いたりしてみたが、成果は得られなかった。あのあひるが教えてくれたことは正しかったのだと気付き、やることが無くなって暇になった頃、あひるが帰ってきたのだ。
 いつもの男は餌とは異なる時間に小屋にやってきた。特別な用事かと思ってみていると、男は両手であひるを抱えていた。そのあひるは新しくやってきたあひるなんかではなく、作戦を決行して小屋の外に出たあのあひるであるとすぐに分かった。どうしてそうだと思えたのかは自分でも驚いているが、人と同じように、あひるにもそれぞれある特徴に気づけるようになったのだ。
 男はあひるを丁寧に下ろすと、すぐに去っていった。昼の餌の時間まではまだ時間がある。私はすぐにあひるに駆け寄り、声を掛けた。時間は三日間もあった、どんなところを歩き、どんな景色を見たのか。そして何があったのか、早く教えてほしかった。ぐわぐわと声を掛けるが、あひるは目を合わせようともしなかった。じっと一点を見つめ続け、何も話さない。しつこく鳴いて見せても、うるさいと鳴き返されることもない。静かな足取りで小屋の奥へと向かうあひるに疑問を感じながら、ゆっくりとその後を追った。
 水を飲んだ後、体を水桶に入れて体を丸洗いする。体を震わせて水しぶきを吹き飛ばすと、あひるはようやく私を見た。とても鋭いものに感じられた。
『ごめん、おちついた。いや、まだおちつけてはいないけれど』
 帰って来てからのあひるの様子から、何かあったのだと言うことは察せられた。
『大丈夫。ゆっくりでいいから』
 あひるは少し待ってほしいと私に伝えると、小屋の中をゆっくりと歩いた。その間に他のあひるに突かれても少しも反応を示さない。相当考え込んでいるようだった。私はただ、帰ってきた彼の言葉を待つことしかできない。
 戻ってきたあひるの表情から、深い困惑は消えていた。その時が来たのだと思い、丸めていた体を伸ばして、あひるの口が文字を書くのを待った。
『こやのそとは、もうじゅうがうろついていることも、空からおれたちをねらうもうきんるいがとんでいることもなかった。こやのそとは、三日間では見切れないほど大きなたてものがひろがっていた』
 小屋の外に出たあひるはまず、小屋に連れ戻されることが無いようにその場から離れることにしたようだ。どこまで続いているか分からない廊下をとにかく懸命に走って、突き当りに来れば曲がり、十字路は感覚のままに進んだ。帰り道が分からなくなるほど進んだところで、小屋の外は人に取っても広すぎるほど大きな建物になっていると気付いたそうだ。廊下に部屋の扉は一つもなく、外の様子が見られそうな窓も見当たらない。壁の上部にだって備え付けられておらず、完全に日の光から遮断されていた。設置された明かりだけが頼りだが、等間隔で設置されているため場所の目印には一切使えない。前を見ても振り返っても同じような景色が伸びている。あひるはそんな空間で、三日間も過ごしていたらしい。
 つまり、三日間も時間はあったけれど、見て回れたのは複雑に入り組んだ廊下だけだったというわけだ。簡単に攻略できるほど容易いつくりはしていない。戻ることさえ危うく、永遠に終わらない迷路に捕らわれて気が可笑しくなりそうだった、と深刻気に教えてくれた。
『じゃあ、そのろうかをあるいているときに、あの人に見つかってしまったのね』
『いいや。じつは、迷っているうちにろうかをぬけだせたんだ』
 気が狂うほど歩き続けて、三日目に周囲の景色が変わったことに気づいたらしい。その時はそれが三日目であることすら気づいていなかったが、あひるの心も体も酷く疲弊し、終わらないと思われた迷路から抜け出せたことが一番嬉しかったようだ。廊下には窓が付いており、日の光が入ってくる明るい光景だった。左手には部屋らしき扉があり、廊下の奥には両開きの大きな扉があった。
『まどからみえるあおいそらが、ほんとうにまぶしくて、なきそうだった。ここからみえるあおなんかよりも、ずっとあざやかだった』
 あひるは真っ直ぐに歩き、一番奥の扉を目指した。ノブを回さないと開けられないタイプだったが、その時は運よく扉が少しだけ空いていたらしい。体を滑り込ませて中に入って、中がすごく静かなことに気づいた。
『さっきのろうかとは、くうきがちがった。しゅんかんいどうかなにかで、まったくちがうばしょにとばされてしまった気分だった』
『そこには、なにがあったの?』
 あひるはしばらく黙った後、『あまりきぶんのいいものではなかった』と教えてくれた。それ以上先を教えるのを渋っているように感じられたが、私には知る権利がある。
『わたしは大丈夫だから、あなたが大丈夫だったらおしえてほしい』
 彼自身にそう伝えたくて、じっと見つめた。人間だった頃の彼の姿が見えてしまいそうなほど瞳を覗き込めば、見えるのは私自身だ。
 あひるはゆっくりと頷くと、自身が見た部屋の光景を語ってくれた。
『へやは、むざんなじょうたいだった。ゆかには、あかくなった羽がちらばっていて、なんどもふまれているようだった。ぴちゃぴちゃとなにかがこぼれるような音がしていて、それは、天井につるされたはねをむしりとられたあひるが流した血が血だまりに落ちる音だった。白い羽ののこっているあひるもいたけれど、おりにいれられて死んでいた。くびがへんな方向に曲がっていたり、片足がなくなっていたり、とてもみれたものじゃなかった。へやの中はきっとなまぐささであふれていただろうけど、にんげんのときみたいに鼻がうまく利かなくてよかったと思う』
 あひるはそれ以上書かなかった。書かれた文字は蒸発してすぐに消えてしまう。それが、まるで現実ではないと空想の話だと言っているような気がしたけれど、あひるの表情がその納得をさせてくれなかった。文字は簡単に消えてしまう、けれど、それは嘘なんかではない。たしかに外に出た目の前のあひるが見てきたものなのだろう。
『あわてて逃げて、あのろうかにもどってきたところで、おとこにみつかった。だから、おれがあのへやを見たことには気づいていないとおもう。いったいなんのもくてきがあるのかはわからないけれど、ここで育てられているあひるは、あのへやにいくんだとおもう』
『どうして?』
『ほかににんげんのいしきをもっているあひるがいないかっていうはなしをしたとき、おれがうまくへんじをしなかったことには気づいていた?』
 首を縦に振る。今は追及しない方が良いのかと思い、深く聞かなかった時のことだ。
『ほかにもおれたちのようなあひるはいたんだが、そいつらはあの男につれられてこやのそとにでたんだ。せいちょうしたからこやをいどうしたとかそういうのだとおもっていたんだけれど、こんかいではっきりした。あの男につれられたあひるは、みんな、あのへやで殺されたんだ。食用か、羽だけ使われるのか、ようとは分からないが。つまりおれたちは、もともと“そういうつもり”でそだてられていたんだ』
『じゃあ、えさがそうぞうしているものとちがうのも』
『良いえさを食べさせて、きれいなあひるにするためだろう。へやがきれいでせいけつなのは、あひるのうつくしいみためを保つためだ』
 自身の体に目を向ける。一点の曇りのない白い羽。体を揺らせば柔らかく波打つ羽を見て美しいと喜んでいた私はもういない。この美しさは、自身を美しく魅せるものではなく、商品として魅力的なものにしか映っていなかったのだ。美しいあひるになることが出来て良かった? けれど私は、美しいゆえに、羽をむしり取られる運命が待っているのかもしれない。
『きれいな羽を持っているあんたにつたえるべきかまよったが、おれが見てきたものは以上だ。おれにももう少し、げんじつをうけとめるためのじかんがひつようだ』
 あひるは桶の水を全て飲み干すと、群がるあひるの中に紛れてしまった。今は温もりが欲しいのかもしれない。
 私は出来るだけ白い体を目に入れたくなくて、代わりに、白い天井を見続けることにした。
今日はおしまい
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