今シーズン二度目の積雪だった。
まだ根雪になるほどではないが、そこそこしっかり積もったため、一朝一夕では溶けない。特に車道の端に寄せられた雪は、踏み固められた上、磨かれて殆ど黒い鏡のようだった。これをブラックアイスバーンという。
何が起こるかというと、
「あああああああ」
と、奇声を上げて坂道を滑り、というより転げ落ちていく後輩を見ながら、まあそうだろうと思っていたと深津一成は頷いた。注意を促すのを忘れていたのは秘密だ。
「ちゃんと足元見れ、って言ったべ」
「こいつが覚えてるわけないベシ、予想通りベシ」
同道の河田にそう言いながら、自分は注意深く雪が凍った部分を踏みしめて下る。深津が坂の中程に辿り着く頃には、沢北もようやく身を起こしていた。
「な、なんですかこれ、凍ってるじゃないすか!」
「ブラックアイスバーン、雪道にはつきものベシ」
しかも、駅から学校までの道程にあるこの坂は、海からの風をまともに受ける方角にある。一度溶けた雪が凍る上に、駅と商店街の間にあるため結構な通行量がある。
つまり、おそろしく危険性の高い坂道だった。雪に慣れていない沢北が容易に歩ける道ではない。
「いつもの感じで歩ける道じゃねえ、気いつけろ」
「この長さでけっこうな高低差があるベシ、おそらく斜度……15度はあるベシ」
「ん? そんなもんか? 17度ぐらいねえか?」
「確か平面図での距離に、この坂の長さがだいたい……さわきた、計算するベシ」
と、深津と河田が坂道の傾斜について検討する横で、まだ雪道の上で尻餅をついたままだった沢北は今にも泣きそうな顔で、
「その前に、助け起こしてくれても良くないですか?」
と文句を言うのだった。
「もう、既に凶器と同じだと思うんですよね、この坂」
初転び以来、何度目になったか、またも坂を転がり落ちた沢北が雪に埋もれたまま、無駄な愚痴を言う。反射神経も体幹も破格な少年だが、とにかく「注意深く歩く」ということが出来ない質で、雪道には最も不向きであろう。結局、この坂は転ばずに歩けたためしがない。少なくとも深津が同道の際には。つまり殆どいつも。
「お前に学習能力が無いだけベシ。いい加減、雪道の歩き方ぐらい覚えるべし。こんなところで怪我でもしたら、目も当てられないベシ」
来週からは冬の選抜、全国大会を控えている。捻挫などされたらたまったものではない。深津は大きなため息を吐きながら、沢北の隣りにしゃがみ込む。助け起こしたりはしない。
「……深津さんはなんで俺と同じスピードで歩いてるのに平気なんすか……」
「鍛え方が違うベシ、ブラックアイスバーンはとにかく、足の接地面と角度が重要ベシ。道路面の氷のを計算しながら、摩擦が最大になるよう、最適な場所に足を」
「すいません、日本語、話してもらっていいですか」
死ぬほど失礼なことを言うエースの頭をポカリ、と叩き、深津はようやく彼に手を貸してやった。
「冬が終わるのと、お前の制服の尻が擦り切れるのと、どっちが早いか見ものベシ」
「っ……! こ、今度こそ!転ばないで下りて見せますよ、ただの坂道じゃないですか! 俺だってやればできる、」
と、一歩踏み出した沢北が、「ああああああ」とまた声を上げて、坂の一番下まで滑り落ちていくのを見ながら、一生無理ではないかと思う深津だった。
「いつか、じゃない、ぜったい来シーズンこそは! 一回も転ばずに下りて見せますからね!!」
と、三月の雪にまみれながら宣言した少年は、次の冬にはもう、この街にはいなかった。
あれから一年か。
と、深津は昨年と同じ、冬の選抜を控えた時期に、同じくこの坂に積もった雪を少し眺めた。今年は暖冬だと云うが、実は暖冬ほど雪は多くなる。また、延々と続く雪との戦い(主に雪かき)を思うと、少しげんなりもする。
それでも、もういない彼の思い出が、何とも言えない味わいで、深津は商店街ヘ下る坂にいつものように足を、
あっ、
と、思ったがもう遅い。次に衝撃が来た。こんな、ただの雪道で転ぶなど何年ぶりだろうか。あまりに久々すぎて、本人にもまだ信じられない。溶けた雪と降ってくる雪が交じる坂道の途中で尻餅をついたまま、しばらく深津は絶句していた。
ああ、なるほどこれは……痛いより冷たいな、と。
ぼんやりと考えて居ると、通りすがりの車から「兄ちゃん、大丈夫か!?」と声が掛かった。深津がしばらく動かないので、どこか傷めたのかと心配されたらしい。「大丈夫です」と声を張りながら、おそるおそる立ち上がる。そうだ、捻挫などしていたらシャレにならないのだ。
こんなところで、と。
妙におかしくなって、ははっ、と声が出た。沢北のことを散々、からかっていた自分が、と。ミイラ取りがミイラになったな、と尻についた雪を払った瞬間、
えっ?
不意に、涙が溢れた。
あまりに……予期せぬことに、深津本人も理解出来なかった。頬に、生暖かい感触が。そんな。だってあの夏の敗戦後にも、IH後に帰寮してからも、彼が旅立つ日にも……一度もこんな、涙など出なかったのに。
こぼれた涙が顎まで到達するとき、びゅお、と音を立てて風が吹いた。氷の礫が顔に当たる。ああ、これは、涙まで凍りそうな。
「ああ、そうか」
覚えず声になった。あいつが、雪のこの坂道を下ることは、もう無いのだ。
もう二度とないのだ。
次のシーズンは一度も転ばずに下ってみせると、言ったのに。
深津は、慌てて顔を擦る。そのままにしておいては本当に凍る。こんなところで、そんなことで、涙など流したところで……
知っている。
涙では彼を引き止められない。
「そんな……やわな男じゃないベシ」
そして、その必要も無い。
深津はゆっくりと坂を下りきった。顔を上げる。
背筋を立てて、真正面を向く。来週からは選抜が始まるのだ。沢北がいなくなった山王は弱体化した、などと、口さがない奴等が言っているのは知っている。それが妄言だと、自分たちは証明しなければならない。
圧倒的な強さで、頂点を奪取しなければ。
そうして、
『来た、見た、勝った』
とだけ書いたハガキを、彼に出さなければならないのだ。
王者、最強山王のキャプテンとして、深津は足を踏みしめて、位置につく。そうだ、転ぶ前に駆け抜ければいいのだ。学校まではもう1kmもない。
深津はそうして、スタートを切る。
涙が凍る前に、冬を駆け抜けろ。