「しおづかァ」
瑞垣は振り向かずに呼ばう。
「……はあ」
「あと、考えられんのは陸軍や」
「どうですかねえ」
と、とまた塩塚は顎に手を遣るが、眇められた目が昏い。心当たりが、あるのだろう。瑞垣は舌打ちと共に叱咤する。塩塚の顔は見ない。
「身から出た錆ぐらい何とかせえ」
おそらくそうだ。そうでなくとも、この得体の知れない後輩なら、其処はなにがしかの調べはするだろう。後輩記者の皮を被った何者かが、やれやれとため息を吐いた。
「仕方ないですねえ、阿呆な天保銭組の、センでしょうかね」
「……満州か」
陸軍も一枚岩でない。否、近頃では関東軍の独断専行が激しいと聞く。何れにせよ、此方は深入りしないのが吉だ。既に別方向では禍中に、むしろ渦の中心に居るのだし。
「さて、小張家に使いを出すか」
と独りごち、瑞垣は大きく伸びをしたのだった。
使いを出すと、小張家の家令から丁寧な返信が来た。達筆である。
「来たる●月●日に縁と共においで下さい」
とあった。見つけた”縁”と共に、ということは……瑞垣は熟考の上、琵琶の他に塩塚を連行した。同居人を彼処に連れて行く気にはなれなかった。というより、不安だったのやもしれぬ。
何れ、彼方には知られているような気はしたが。
塩塚は番犬、若しくは牽制だ。そもそも顔見知りではあるようだし、此方も都合がいい。
某日、夕刻
それにしても小張邸は盛況だった。あの広い庭に舞台が設けられ、宴の準備が整っていた。好事家としても著名な小張元少将のお屋敷だ、上海に居る邦人や、租界の外国人も招かれているようだ。見知った顔も幾つかある。
それにしても、と瑞垣は即席の舞台の脇を見る。和装の人影が幾つか、雅楽の奏者である。篳篥、龍笛、笙、太鼓、金物と一揃い。何れの奏者も狩衣姿だが、各人が雑面、一枚布に絵図が書かれた陰陽道の面だ、を掛けている。異様、ではあるのだが、薄闇に篝火が焚かれた庭によく馴染んでいる。此れが例の七宮様の伝手、だろうか。
尚、平素であれば出迎える日向の姿は無く、ごく普通の、それもおかしな表現だが、真面目そうな使用人が案内してくれた。いつもは敷地の広さと造りの豪華さのわりに人気の無い屋敷だが、今日ばかりは使用人の数も倍増しているようだ。
「そういえば、子爵様のお屋敷だったな」
「このお屋敷にこんなに人が居るの、初めて見ますねえ」
塩塚の言に頷くばかりだ。
瑞垣は見知った顔に声を掛けられては、携えた布袋の中身を訊かれる。古い琵琶が見つかったもので、と事実を答えると皆、一様に納得した。美術品蒐集家である小張家への持参品としては自然なのだろう。
(鳴らないがな)
と、胸の内で反芻していると、すっと周囲が暗くなるのが分かった。否、篝火が仮設の舞台に寄せられたのだ。はっと、舞台を見遣れば、いつの間にか影が二つ。あれは、と目を凝らしていると、ピィっと笛が鳴った。
静かに、舞人が二人、ゆっくりと現れる。
舞楽特有の足運びは、成る程、確かに神事の一部だと思わせる。荘厳な時間が流れる中、舞人が灯りの中に立った。予想通り、小張元少将と日向である。
さすがに御装束ではなくごく普通の小袖と袴だが、演者の美麗さが補って余りある。元少将と家令の二人が、ひたと正面を見て立っているだけでも、ため息が出る程だ。
笛の音が響き、すっと、舞人が腕を上げた。
招待客の視線を一身に集め、雑面の楽団が奏する曲に合わせ、二人が舞う。確か青海波と云っていたか……正直、瑞垣は舞楽に明るくないので、しかと鑑賞出来る訳でも無いが、二人が一糸乱れぬ動きで舞う姿に見入っていた。
そうするうち、肌に熱を感じて視線を落とすと、手にした琵琶の袋が僅かに光っている。まずい、と慌てて隣の塩塚を見るが、この隙の無い後輩でさえ舞台に集中している。周囲を見渡しても、誰もが舞楽に魅入られていた。
そっと胸を撫で下ろしつつ、瑞垣は琵琶を携えたまま舞台の袖に移動する。やはり、誰も彼を見てはいなかった。否、
今、此処で瑞垣に、琵琶に注視している者が「敵」だ。
瑞垣は周囲を警戒しつつ、琵琶を袋から取り出す。案の定、本体が幽かに黄金色を帯びている。其の光は舞楽に合わせ、ゆらゆらと揺れているような。それは、女の髪のようにも、見えて、
ピィ!!
不意に、調子っぱずれな音に、はっと瑞垣は顔を上げる。油断したつもりはなかったが、既に目の前に黒い影があった。失敗した、と歯噛みしながら琵琶を抱きかかえようとするが、刹那、彼方の方が早い、
ガッ
と鋭い音に、黒い影が傾いだ。
何かが肩に当たったか、小柄か、大きな釘のようなもの。見れば、その後ろ、延長線上に舞を止めた日向が居る。投げたのは彼だろう。隣では、小張少将も射貫くような眼差しで此方を見ている。
唐突に止んだ舞楽に宴の場は騒然とする、はずが、客や使用人、楽団は凍てついたように動かない。只、日向と少将、瑞垣と、目の前の黒い盗人、そして、篳篥の奏者が一人。
その五人の時間だけが動いていた。
つまり、この五人が資盛と琵琶弾きの娘の縁に連なる者だ。
篳篥奏者の顔は雑面に隠されて窺えない。肩を押さえて蹲る盗人も、篝火は逆光で目鼻立ちが分からない。男だろうが。舞台からは日向が盗人を、少将が篳篥奏者を注視していた。
まんじりともせず、睨み合う瑞垣と盗人の間で、然し琵琶の光が増している。もう隠し様がないほどの輝きだが、五人以外の人間は動きを止めたままだ。眩いばかりの光に、瑞垣も目を眇める。
一瞬の攻防の末、盗人の手が、琵琶に、
ばちん
見えぬ何かに弾かれて、盗人は今度こそ倒れた。瑞垣も衝撃に膝を着く。なんだ、これは。
「無粋な手で触るでないよ、そは厳島の巫女姫だ」
鈴の、鳴るような。
たしかにそれは、其の声は。
「やっと……来たね」
と、瑞垣が光の中に目を凝らすと、赤い袖が閃くのが見える。小さな白い手が伸びる。薄紅の爪が、桜貝のように。
嗚呼、これが
「久しぶりだ」
然う云って微笑む、赤い水干の少年、否、女が。
小作りの白い顔に猫のような瞳、腕いっぱいに抱えた琵琶に語りかけるように。短い黒髪がさらりと動く。
瑞垣がそっと息を吐いて伺えば、篳篥奏者だけでなく、舞台の二人も呆然と立ち尽くしている。特に少将は切れ長の目を見開いて、微かに唇が動いている。何か語りかけて……語る言葉はないか。呼ぶべき名も……ないだろう。
赤い水干の女は、一度、瑞垣に目を遣ると、琵琶を抱えたまま身を翻す。リリン、と鈴が鳴った。それから、まるで質量を感じさせない足取りで舞台の、二人の元に向かう。
時を止めた宴の場を、赤い光が進んでゆく。
舞台上の日向は、既に片膝を突き、顔を伏せている。その前を通り、小張元少将の前に立った女は、ふっと手を差し出した。男は女の顔と其の小さな手を見比べて、少し問うような顔をした。女は笑った。
すると、少将の身体が俄に発光した。あの、琵琶が発しているのと同じ光だ。光は少将自身にも見えるのか、彼は戸惑ったように自分の身体を見回している。そのうち、少将を包んでいた光が水干の女の手に集まっていく。光はそのまま凝って、俄に撥の姿を取った。
あれは、鳴らない琵琶だ。
然し、あの撥は……
「これでね、縁が復すんだ」
女は歌うようにそう云うと、撥を掻き、ばらりと音が、鳴った。
其の瞬間
琵琶と、撥は一際大きく輝いて、姿が解ける。目が、開けられない。瑞垣は思わず手を翳して光を避けるが、光は屋敷の庭全体に広がって、弾けた。
黄金色の光のなか、長い黒髪が風になびくように広がる。赤に白い花が縫い取られた衣と、合間に、柔らかな女の横顔が……それに寄り添うように、少し大きな人影が現れる。男は、左腕が欠けていた。それでも、残った右腕で庇うように女を抱える。
じょう、と、また琵琶の音が。
風が、舞う。
光が、奔流のように、二人の影に凝縮して、閉じる。
そうして、其処に一振りの剣が現れた。
あれが……天叢雲剣、か。
赤い水干の女は、光が凝って生じた剣を平然と摑んだ。瑞垣は、唯それを見ている。少将も、日向も、盗人達も。五人の目の前で、女は静かに剣を鞘から引き抜いた。その刀身は燐光を帯びている。
女は剣を掲げ、ぴたりと構えた、ときに。
ピーッ!
と、夜を割るような笛が。
はっと、瑞垣は楽人たちを振り返る。篳篥奏者は崩れ落ちるように座り込んでいる、其の隣り。雑面のまま、器用に笛を吹く者が居る。高く低く、まさに閃くように鳴る。そして、其の音に合わせ、女の赤い水干と剣が、舞った。
女の小さな身体がひらり、ひらりと。長い袖と裾が翻り、女が捧げ持つ刀身は銀の光を弾く。そうして、何処ぞから深く、琵琶の音が響く。
そうして、何処から吹く風に乗り、一枚、また一枚と白い花弁が落ちてくる。まるで雪のように。あとから、あとから。
無数の花吹雪の中で、赤い水干が舞う。
気付けば庭に一面の白い花びらが。
風が謳う。
琵琶の音に乗せて、少し掠れた、深い声が
嗚呼、これは鎮魂の舞だ。
然う思った。瑞垣は息を吸うのも忘れて、見入る。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
奢れる人も久からず ただ春の夜の夢のごとし
猛き者も遂にはほろびぬ 偏ひとへに風の前の塵におなじ
世界が、真っ白な花弁に埋もれる。
美しい、ただうつくしい、喩えようもなく。
息を呑むほど。
視界が霞む。
赤い水干が、無数の花弁の向こうに消えてゆく。
語る声が、琵琶の音が遠くなる。
待って、と、伸ばした手さえも、花びらに紛れる。
緋色はどんどんと遠ざかる。
風が一層強く吹き、白い光が視界いっぱいに広がった。余りに明るく、何も見えぬ。何も聞こえぬ。誰も……
そうして、誰も居なくなった。
はっ、
と、我に返ったときには全てが終わっていた。
舞台の周囲に散っていた客人は、ようよう時間を取り戻し、再び緩やかな喧噪が広がってゆく。客人達は口々に屋敷の主たちの舞を褒め、それを端緒に母国の話を三々五々、始めていた。小張元少将は舞台から折り、袴姿のまま、来客の対応に追われている。
あの、時が止まっていた間のことは、無かったことになっているような。
視界を覆っていた白い花弁は何処にもない。無論、あの剣を掲げ、宙を飛ぶように舞っていた赤い水干の影も見えぬ。楽人たちはいつの間にか二人減っていた。そして、瑞垣から琵琶を奪い取ろうとした男の姿も消えている。
あれは逃がすわけにはいかない。歯噛みしながら周囲を探るが、なんと塩塚まで居ない。瑞垣がどうしたものかと思案していると、近付いて来る影があった。
其の深い声に顔を上げれば、当家の家令が立っている。和装は初めて見るが、さすがに堂に入っている。額に浮かぶ汗の玉まで眩い。
「ご覧になりましたか?」
問われて、頷く以外になかった。そんな瑞垣に、日向は淡く笑った。
「あれで……よかったのですよ。無事に、資盛殿と琵琶弾きの娘が再び出会えたのですから。天叢雲剣など、元から無かったようなものです」
至極あっさりと云うが、半分は幻だったとはいえ、目にしたものの稀少さを思えば、瑞垣としては何とも言えず、小さく首を振った。
「やはり、どうやら陸軍と宮城の一部の企みだったようです。壇ノ浦に沈んだ剣の在処を、確かに言い伝えた一族が他にも……あったようで」
はっ、と瑞垣も顔を上げる。
「それでは、先程の……あの男達も?」
「ええ」
日向は簡単に頷いた。
「瑞垣さんから琵琶を奪い取ろうとした男は、陸軍の関係者です。今、塩塚君が追っているでしょう。肩に が刺さりましたので、逃げ切れぬ筈です。彼方の処遇は、任せましょう」
予想外のような、何とも予想通りであるような。瑞垣が言葉を探しているうちに、日向はもう一つの事実を告げる。
「篳篥の奏者は、宮城の、陰陽寮が何とかするでしょう。七宮様の配下は有能ですので」
陰陽寮……其の存在は、既に書物の中だけになったと思っていたが、本物は、まだ稼働しているようだ。瑞垣は、あの横笛の男、雑面の下、一瞬だけ垣間見た鋭い眼差しを思い出す。
「それでは、その、陸軍と宮城の一部は、壇ノ浦の宝剣を甦らせて、何を」
なにを、するきだったのか?
何を、望んで
鋭く光る、鈍色の刀身
錆の浮いた黒く重い鞘に包まれたそれは、もう、あの少年のような女が持って行ってしまった。
「天叢雲剣、は、武士の頂点の証」
静かに、日向がまるで囁くように口にした言葉は、宴の喧噪を寄せ付けなかった。瑞垣は小節に力を込める。
「……近日、摂政宮様の外遊が予定されています」
「えっ」
摂政宮展、つまり今、最も国の頂に近い者、だ。首長として、政治の全権を持っているが、勿論、軍事の全権も掌握している、筈である。ただ、伝統的に公家と武家の隔たりは大きく、軍事のトップとしての役割は余り、求められていなかった。今も、それが元で陸軍の独断専行を許している。
「だからこそ、此処であの剣が摂政宮の手に渡れば、真の武士の頂点たる証が次の帝の手に渡ることになります」
ぐっ、と瑞垣の喉が鳴った。
意味はあとからやって来る。
「外遊の際は周囲の警備も手薄になります。その際に、剣を宮様に渡せば……其の手に、王者の証を、兵どもの頂に立つ証を手にすることがあれば」
「摂政宮様が、陸軍の総司令官として君臨することになる……」
「ええ、それを画策していたようです」