―――外は、雨が降っていた。
天気予報晴天100%、星は見えずとも雲一つないと、予報されたにもかかわらずだ。
否、厳密にいうのであれば、雨が降っているのは、今日この場所、そして、今日この時間のみだ。
しかし誰も、その理由を知らない。
突然の雨に見舞われた方々は、至極当然の結果として、時に雨やみを探して走り、時にどさくさにまぎれて雨を楽しみ、時にうっとうし気に、服に付いたしずくを払った。
―――そしてそれは、地下であっても例外はなく。
否むしろ、地下であるからこそ…というべきか。
水の流れ込んでくる土中に人間が作り出したコンクリートの箱と通路は、しかして湿気と邪気だけを運び込んでくる。
人間たちは、基本水だけを重視して、邪気をないがしろにしていた。
それはそれとして、この空間はそれらとは無縁の場所だった。
夜の雨というのに、この空間には、それらがひとかけらもなかった。
大通りと再開発、そして巨大な交通網の中心点であれば、人間によって踏みつぶされたのだろうと納得も行くが、しかし、いまこの場所にはそれすらなかった。
あるのは、無機質に飾り立てられたコンクリートと清めに清められた商店街のごとくのストリート。
そして、ストリートのさらに端にある、未だ建設途中のビル敷地に入った新しく作られたばかりの飲食店群だけだった。
中華、cafe、見たこともないような異国の料理。
そんな者たちが味気なく並ぶ店店のうちの一つ。
そこに、今日この日、雨が降っている「理由」がいた。
黒い無機質な素材で作り上げられた店内は、見ようによっては流行りのキレイさに流された、空っぽな設えに見える。
しかし、それらとは比べ物にならないほど隔絶した何かが、そこにはあった。
それは建築家たちのなせる美か、そうでなければ、日々掃い清める者たちのなせる業か。
それは誰にもわからない。少なくとも今この場では。
わかることと言えば、天候の影響か、人入りがそこそこ、日々と比べて少ないことと、此処のすしが、”さすが”と言わんばかりに美味いこと。
そして、扉も壁もない、全くバリアフリーも泣いて喜ぶ外から直行立ち食いカウンターにて、二人の男女が寿司を食べていることである。
「…」
【…】
訂正。
厳密には、男が寿司を食い、女がそれを満面の笑みで見ているという、異様な光景が繰り広げられている。と、言うことである。
□
一貫から注文できるとは言え、ここに来る者たちは、大体寿司を5貫以上は食べる。
贅沢にも小腹を満たすためから、がっつりと寿司で腹を満たしたいものまで、その客層は、ここに来る者たちと同様、様々だ。
しかし、目の前に広がる光景は、その客層のどれと比べても、驚くほどにまったく合致していなかった。
それもそうだろう。
寿司屋に男女が来て、あまつさえそれを見るだけ等なかなか遭遇しない。
女が1,2個だけ注文して、あとは全く注文しないのも異様さを描き立たせた。
男が食べ、女が眺める。
その光景ははっきり言って異様で、もしもこれを遠目から観察されようものならどうあがいても、どう控えめに言っても、一種のカルト的|儀式、そうでなければホストに貢ぐ破産寸前女。
かろうじて犯罪関連になっていないだけで雷管もしくは導線に火がついていてもおかしくない爆弾事案を危惧して警察に通報するものが出ても何らだれも攻められない、そんな光景であった。
余りの地雷さに、店主だけがカウンターに立ち、女将が配膳を担当し、あとの複数人は厨房の奥で縮こまることしかできない。
それでも、店内の誰もそれを止められなかったのは、簡単な話だ。
女の顔が、あまりにも美しかったからである。
顔立ちの話ではなく、表情が。
世界中の美しいものを、目の前に並べられても人はこのような顔はできまい。
そう思わせるほどに美しく、きれいで、見惚れるほどの。
これを見れた自分は、なんて幸福で晴れやかなのだろうと、心の底から思わせるような、そんな幸福そうな笑み。
寿司屋の店主なんてしている以上は、人の幸福そうな笑みなど腹いっぱい見れるものだが、さてはて。ここまでの極上は、人生で一度見れればそれでいいレベルの物である。
無造作に結んだ、ワックスのついてない髪。
どこか乱雑ささえ感じさせる着こなし。
何よりも、ゆがんだ骨、いびつな筋肉、余分な脂肪の織り成すシルエットは、どこか彼女の周囲に狂気じみたものをまとわせる。
そして、そのすべてを打ち消してもなお、有り余るほどに。彼女は今、幸福そうに笑っていた。
全ては目の前の男の食べるさまを見て。
一種、倒錯的ですらあるいびつさがどうあがいても打ち消せない状況下だが、男も男で、大概異様だった。
女のほほえみをものともせず、そして特に語ることもせず。もくもくと食べ、お茶をすすり、その様を堂々と女に見せつけているのも、むろん異様と言えば異様だが、それではない。
否、厳密には、「それも込みで」異様、というべきだろうか。
所作。
青年の所作は、まるで一つ一つが芸術品のように美しく、よどみがない。
年齢にそぐわない美しい所作は、その一つ一つが、まるで祓いの儀式のようで、思わず目が眩むほどだ。
断じて青年と呼べる年齢代の人間が身に着けておかしくないものではない。
しかし、その一つ一つを丁寧に丁寧に行う青年は、周囲の…厳密には、女の視線など、まるで気にするべくもないと言いたげに、一つ一つを口に運んでいた。
―――ひょっとしたら、約一名の目線があまりに強すぎて、もしくは呆れて、声も出ないのかもしれないが。
そう。そういえば、おかしいと言えばそれもそうだった。
彼は一度も声を出していない。
にもかかわらず、気が付けば、彼の言葉を聞いていた自分がいる。
まるで彼が声を出した場面だけをすっぽり記憶喪失しているかのように、彼の声を、誰も聞いていないのだ。
だが、それは大した問題ではない。否、問題ではあるのだが。
悲しいかな、いかような場所であろうとも、飲食店にとって最も忌むべき存在は、暴れる客、無銭飲食をする客、そして犯罪を犯そうとたくらむ客なのだ。
閉店時間ぎりぎりに駆け込む客に関しては、当店ではノーカウントとさせていただきます。
何が言いたいかというと、行儀よく静かに、そしてたくさん食べてくれるのならば大歓迎なのである。
声が聞こえないくらい、何するものぞ。
何より、その青年は―――非常に美丈夫だった。
美丈夫という言葉が彼のために拵えらえたと言われても、納得するくらいに美丈夫だった。
隣に立つ女が、飾らぬありのままの、粗野だが輝かんばかりの美しさだというのであれば、男はそこただあるだけの、しかし誰もが見ずにはいられないような美しさをたたえる青年だった。
伏せられた瞳はどこか憂鬱を思わせるが汚らしくなく、
伸ばされた髪も、どこか瑠璃のような清潔さがぬぐえない。
何よりその体躯は、まるで神が自分専用理想の贄としてこしらえましたと言われても納得ができるほどに美しい。
黄金比ってこういうことかあ…と、1000人中10000人が振り返るような完璧なバランスを保った体躯とどこか裏腹に、心のどこかで不安定さが不安をあおる。
良くも悪くもなんというか。
身もふたもない言い方をするのなら、女が飛びつきそうな男だ。
というかそのせいで、幾名かの店員を封じ込めることに苦心しているのだった。おそらく今でも、とある戸棚では荒神がその封を蹴破らんとしているだろう。どこまで持つかは店主にはあずかり知らぬことだ。
それはそれとして。
そんな異様な、見目の整った青年と、それをニコニコと見守る女の二人組。
それはあまりに異様だったが、それと同じか、それ以上に。
幸福そうな光景だった。
そのご利益在ってか、客入りの少ない雨だというのに、店内はそこそこ人がいる。
雨音を肴に、静かに寿司を食べる光景は、はっきり言って、絵になる者だった。
そしてそれを暖かに見守っている者も。
その様は、これから夜の街に繰り出す男女というよりは、
寡黙な男子高校生の息子と、それを見つめる肝っ玉母ちゃんというべきものだった。
―――そう呼ぶには収まりきらないものがあるのも事実だが。
否、しかしそれをここで指摘するのはやはり野暮という物だろう。
まあ、いろんな意味で|けしょう《・・・・》臭い女よりはましだろうて。
そう思いながら店主は、もくもくと寿司を握った。
そろそろ30貫は超えるだろう。
夜はまだ、時間的には始まってすらいない。
□
そんな折に、女が動いた。
「…っと。」
カウンターテーブルに行儀悪く肘をつき眺めていた女は、ふと何かを思い返したかのように、自分の懐に手を突っ込む。
出したのは、黒い懐中時計。
蓋を開かずとも時間を確認できる、いわゆるナポレオンスタイルの手のひらより小さいサイズ。
紫の下地に、まるで蓋に隠れるように忍ばされたダイヤモンドカットが美しい、小さなそれをみて、女は一瞬、思案に暮れるように上を見あげた。
そして、すぐにその時計をしまい込む。
針は夕食時にピッタリ時刻を指していた。
しかして、彼女はまた、ゆったりと先ほどまでの姿勢に戻った。
人によってははしたないと笑うだろうが、どうしてかそれが、異様に似合う。
【―――なに。】
「なんにも。」
一度視線がそれて圧を再認識してしまったのか。
どこかむくれた赤子のような顔で投げた問いは、微笑みにバッサリと融けて消えた。
それに呆れたのか、そもそもいつものことなのだろう。
しばし|見つめ《ガン付け》あっていたが、
【……そうか。】
「そうさ。」
どうやらそれだけで決着が付いたらしい。
男が食事に、女が観察に戻った。
女の顔は、相も変わらずふわふわと微睡むようなほほえみであった。
男は相変わらず寿司を食べていた。
否、少し違う。
どこか眉間にしわが寄っていた。
フシギなことに、ただそれだけのことなのに、なぜかガラッと変わって見えた。