パリっ子は夏が大好きだ。
なぜって、冬が寒いから。あまりにも寒いし、12月なんか年間降雨量の大半の雨が降る。それは時には雪になり、おしゃれを楽しめないその時期をパリっ子たちは嫌がるらしい。
だから、夏を楽しむのだ。その日も、天童は職場の同僚に海に行かないかと誘われていた。
「でも、ですヨ」
その日はもともと、恋人である牛島若利が天童のパリの家を訪ねに来る予定だったのだ。だから休みを取っていた。パリっ子にとっての夏の休みは全て海に行って海水浴をしたりバカンスでのんびりしたりするものらしいが、天童はまだパリっ子ではない。貴重な休みは自分か恋人のために使うのだ。
しかも、間の悪いことにその日は朝からしとしとと雨が降っていた。海に誘ってきた同僚はどうしているだろうかと考えながら、天童は一人キッチンに立っていた。
オリンピックを来年に控えたこの年、男子バレー日本代表は大変目覚ましい活躍を遂げていた。それ自体は大変喜ばしいことだ。今まで世界に歯が立たなかった日本バレーが、モンジェネのおかげでここまで成長したのだから。
そう、それ自体はとても喜ばしいことなのである。
しかし、天童には一つの悩みがあった。日本代表が強くなればなるほど、要するに、牛島若利率いる日本代表がメディアに注目されればされるほど。インタビューやら撮影やら密着取材やら……。牛島のプライベートの時間が少なくなるのである。先週、会うはずだった彼らだが、急な取材のせいで会う機会を逃しているし、今日もどうやら撮影が延びているとかでパリに来る飛行機を遅らせるという連絡が先程来たところだった。
キッチンのコンロの上には大きな寸胴鍋が載っている。それは今日朝から会うはずだった恋人のために煮込んでおいたハヤシライスだ。食べられなくはないが、どうやらそれは夕食になりそうなのである。
さて、そういったわけで、天童は突然の一人の時間ができてしまったのである。雨でなければ海に行けたな、なんて考えながらキッチンに立ったところであった。
天童覚はショコラティエである。それは、仕事であるが、そもそも好きなことだからショコラティエになったし、極めたいと思ったからパリにまで移住したのである。それだけの男であるからには暇になればキッチンで何か作ろうと考えるのもきっと自然な流れだったのだろう。
取り出したのは小麦粉。主食をこれ以上作っても恋人はいつやってくるか解らない。ならば、お菓子でも作るかとボウルとヘラを取り出したのである。
薄力粉と強力粉をそれぞれザルでこしてダマを取る。バターと卵は常温に。オーブンに予熱を入れ、型に敷き紙を敷いておく。
さて、このケーキが出来上がるのが先か、恋人が到着するのが先か?
そんなことを考えながら始まったクッキングは、想像以上に天童の恋人になかなか会えない焦燥感をうまく慰めてくれそうであった。
オーブンを開ける。熱気とともにキッチンに広がったのは、焼きあがりたてのケーキの甘い香り。キッチン横の小さな窓の外はすっかり静かになっている。火を使っているからだけでなく、暖かくなってきた室内を思うと、もしかしたら朝から降っていた雨がやんだのかも知れない。
アツアツの型からバターケーキを取り出したところで、ドアベルが鳴る。ちょうどそろそろだろうと思っていた恋人の到着だろう。ケーキをビニール袋に入れて冷蔵庫に入れたところで、天童はやっと玄関に恋人を迎えに出た。
「いらっしゃい」
「……いい匂いがする」
「ケーキ焼いてたからネ」
天童の遅い出迎えの理由をそれで察知したのか、牛島がそうか、と小さく呟く。テレビでは何度も試合の様子を見ていたが、こうやって久々に相対すると牛島の体格の良さを思い出す。パリっ子の中でも背の高い部類に入る天童が見上げる高さの牛島の口が何か言いたげに小さく開いた。
「遅くなってすまない」
「いいヨ。しょうがないヨ。若利くん、撮影とか苦手そうダシ」
「もっと自然な笑顔で、と言われても本当に困る」
「だよネ?」
ケタケタ笑いながら訪問者を招き入れる。育ちのいい牛島は洗面所できっちりと手洗いうがいをして、そして、それからやっと、恋人に数カ月ぶりのハグを求めた。
「3位入賞おめでとう」
「俺だけの功績ではないが、ありがとう」
長いフライトと空港からのタクシー内の冷房で冷えたのか、牛島の身体は少しひんやりとしている。いつもならば天童のほうがずっと体温が低いのに、と思っていたら、サッと唇を奪われた。
「おぉ。若利くん、積極的じゃん」
「先週会えなかったのがこたえた」
「だから今日にリスケしたジャン?」
「それなのにこんなに遅くなった」
「大丈夫、また明日も俺、休みだシ」
「よかった」
もう一度、抱きしめられなおされ、じわじわと牛島の身体が彼らしい温かさをはらんでいくのを天童はクスクス笑いながら感じていた。焼きたてほやほやのケーキみたいな体温になっていく恋人を抱きしめながら、そうだ、ケーキ、と天童が呟く。
「そうか、ケーキを焼いていたんだったか?」
「ちょうど今、冷蔵庫で冷やしてるトコロ。最後の仕上げ、一緒にやろう?」
「俺でもできるだろうか?」
「カンタンカンタン。前にも一緒に作ったケーキだヨ」
名残惜しくはあるが、久々の恋人から両手を放して、もう一度キッチンに戻る。冷蔵庫から取り出したバターケーキは、しっとりと冷たくなっていた。
そのケーキの表面に、砂糖とレモン汁を合わせて溶かした乳白色のグラスアローを流しかける。茶色だったバターケーキが雪を被るかのように真っ白にコーティングされていく。
「固まっちゃう前にいい感じにピスタチオ載せて」
「わかった」
天童の指の長い手とは異なり、力強さを思わせる牛島の太い指が細かく砕いたピスタチオを丁寧に白いコーティングの上に置いていく様は、なぜか天童をニヤつかせた。生真面目にまっすぐにピスタチオを並べていく牛島の横顔越しに、小さな窓の外に虹がかかっているのがちらりと見えた。
虹のふもとには幸福がある、だったか?
そんなことを思い出したら、天童は、いつの間にか恋人の横顔に軽いキスを落としていた。
すっと、牛島が振り向く。そのまま、もう一度、恋人たちはキスをかわす。
「もうちょっと冷やしたら、ケーキ食べヨ」
意味深に恋人の首に両腕を絡めながら天童が呟く。もう一度唇を奪われた時には、もうすっかりグラスアローは固まり、窓の外の虹も消えていた。
「出来上がりが楽しみだ」
「だネ」
君と食べるウィークエンドシトロン以上に美味しいものはこの世に存在しないから。