哀しい、という感情は、果たして人間にとって必要なものなのだろうか。
例えば。喜びや楽しみというプラスの感情は、人が生活し続ける場所についてのジャッジに大きく関わる。その感情が得られる場所は人間にとって安全な場所であり、そして人生を豊かにもする。人はなぜ生きるか、などの哲学的な思考にもたびたび例題として上がるが、それらポジティブな感情は必要だ。そう結論付けてもいいだろう。
ならば、怒りはどうか。私論だが、怒りは喜びや楽しみよりも、人間にとっては役に立つ。少なくとも、人間が生き延びるにあたっては、だが。人間が怒りを覚える場面にはなにがあるか。それは、個の居場所が、ひいては個の居場所に関連するなにかが侵された場合に起こり得る。自らの生きる場所を奪われることに対する警鐘。それが怒りとして表出すると考えるならば、怒りの感情は生きるためには必要不可欠だ。
で、あれば。やはり、哀しみという感情は人間にとって必要なものだったのだろうか。決して人生を豊かにするポジティブなものではなく、怒りのように自らを守るものでもない。どちらかと言えば、喜びや楽しみの反対側にあたるものでは、とも考えられる。
ならば、必要ないのではないか。心底、そう思う。
大切な人を一人失った。それだけで、今や小さくなってしまった世界にこれほどに大きな影響を与えてしまう。こんな感情、なければ良かったのだ。
竜野はデルウハが袖口にナイフを仕舞うのを眺め、目を細めた。
「部屋、片付けるの下手だよね」
「そ、それ以外のことが出来すぎているから相対的にそう見えているだけです」
「はいはい」
「なんですかその雑な返事は。そもそも片付けるための物もそれほどない部屋なんです、必要に駆られていないだけで、物が増えれば僕だってもう少し」
二度目。はいはい、と同じ言葉で流す婚約者は、ベッドに無造作に広がっている白衣を拾い上げると笑いながらハンガーにかけた。確かに、それほど物が多くあるわけではない部屋の中。だからこそ、正しい位置に収まっていないものには違和感を覚える。理解してはいたが、竜野はふいっと顔を背けた。
カチャン、とハンガーがかけられる音。ふう、と息を吐いてベッドに腰掛けた。それに釣られるよう、婚約者がその隣に腰掛ける。少し疲れたスプリングで揺れるベッドに、竜野は眉を寄せて唇を濡らした。ベッドに置いた手。今日はつけ爪をしていない爪の先が、竜野の手の甲に重なってさりさりと撫でた。ぴく、と揺らしてしまった手を押さえるよう、婚約者の指が絡まる。
「白衣、それも私が片付けようか?」
「……自分でできますよ」
「ええーどうかな」
手の甲をさりさりと掻く感触が、これまでの二人の触れ合いを思い出させる。これまでと同じ、今日もそれがされるだけだ。いつもと同じ。婚約者の手が白衣の裾を摘むのも、いつもと同じだった。
ベッドサイドに足を下ろす彼女が、サイドテーブルに置いたコットンを手に取った。薄いアルコールで指先の油脂を丁寧に拭き取り、どこについている目で確認しているのか、蛍光灯に翳した手をひらりと動かす。何度も見た、彼女の手だ。
うまく言葉を紡げず、竜野はタオルケットを肩まで引き上げてごろりと寝返りを打った。
いつもと同じだというのに。今は、よく知るあの手に触れられるのが、とても。
身辺整理だとか心の整理だとか。哀しいという感情には、常に整理整頓が求められる。まるでそこに存在してはいけないもののようだ。出しっぱなしにして人目に触れることを許されない。どこか奥底にしまい込んで、隠しておくべき感情。
喜びや楽しみのように、この身にいい影響をもたらすものではない。怒りのように、この身を守るためのものでもない。しとしとと滴る雨のようで、じっとりと湿気を増して、まるで錆付かせるように少しずつ、少しずつ心を腐食していく。
何一つ片付いていない心の中。ゴミの山が散乱している心の部屋。片付けてくれる者ももういないのだ。彼女にあるかもわからない目を、自分は既に探すことができないでいる。彼女と同じ手を、握り返すことができずにいる。
喜び、楽しみの感情はまるで陽だまりのレジャーシートのように広げて散らかしていたというのに。
デルウハの袖の中。今日もしっかりとそこに隠されているのを横目で確認する。
彼の心は、散らかることはあるのだろうか。既に整理整頓もできずにゴミの山となった自分を見て、何を思うのだろうか。
耐えられない。そう言った口の奥。きっと片付いていない部屋が見えていただろう。
完成