何時からだろうか。
その言葉に初恋という名前を付けることだけははばかられて、だけれどこの物語にピリオドをつけるのも嫌で、走り続けた6か月間。
昼間の彼と出会って、まだ壱か月もたっていないころ。
俺は、とある少年と出会った。
この感情に名前を付けるなら、きっと、その少年の名前になる。
鳴宮湊。
それが、俺が知る中で最も鮮烈で美しい、感情の名前になった少年だ。
■。
湿気がむしむしと世界をつつむころ合いになった6月ごろ。
例年に比べてさらに早く、さらに厚く、そしてさらに熱気を増した空気が、弓道場を支配する。
どれだけ夏用の布地になろうと、表面積の多い服装は日本の暑さを和らげない。
武道と殺し合いの違いは、あくまでも礼に始まり礼に終わることだ。
まさか気崩すわけにもいかないわけで、部員たちは軒並み全員参っていた。
女子は着替えを取りに行く考えさえあるようで、顔を見合わせていた。
今日は夕方から雨の予定である。
「…」
森岡先生の顔色を窺えば、そうしなさいと言われているようにゆるく首を振られた。
ありがたいと思うと同時、顔に出ていたかと思うと少々気恥ずかしい。
彼らの前では涼しい顔でいたいのに、異常気象は残酷だ。
「おーい、おまえらー、今日は雨が降るらしいからそろそろ切り上げるぞ~。」
はーいという声の中、ええ、と明らかに不満げな声が漏れる。
「なんだ湊。不満か?」
「不満…というか…」
そういいながらも、湊はぶすくれた顔を隠しもしないまま、未練がましく的を見た。
部員たちが軒並みへばる中、ただ一人的前に立つ彼は、弓バカの多いこの風舞高校弓道部たっての弓バカであり、そして弓引きである。
生粋の弓引きを神懸かりと呼ぶか狂人と呼ぶかはさておき、彼は今でも弓を引きたそうで、うずうずとしながら相変わらず的をちらちらとみていた。
「…」
再度森岡先生の方を見る。
と、森岡先生も森岡先生で、苦笑していた。
部員たちも反応も様々だ。呆れるもの、あこがれるもの、しょうがないなあと顔を緩めるもの。
しかしコーチとしては、だ。
「ほら、いいから早く矢取りしてこい。安土整えるのも忘れないでな~。」
はーい。
8者8様、ぶすくれも混じった声の中で、重みを増した空気がさらに重みを増した気がした。
やばいなこれ、たぶん予報を待たずに振り出すぞ。
なんていう予感を思ってしまったから悪いのかなんなのか。
弓道部員たちは現在、全員軒並みそろって入口で立ち往生していた。
目の前には美しいくらいさんざめく大量の水。
豪雨という名にふさわしく、どこから来たのと言いたくなるような量の水、雫、雨は、そのまま軒先を伝い地面へと零れ落ちる。
その様はまさしく川とか滝とかそういうレベルである。
しかも飛び切りめちゃくちゃ激流な奴。
船下りとかすると命の危険が危ないレベルのあれである。毎秒命の危険を感じる。
そんな光景が、全員の目の前に広がっていた。
軒先にしっかり取り付けられているはずの雨どいは不穏な音を立てている。
ないと思いたいが、もしもこれが日付が変わるまで続くのであれば、翌朝弓道部員たちが見るのは無残な破片たちだろう。
と思わせるくらいにはとんでもない雨だった。
天気予報によると、これがやむまでは、少なくともこの時期でいうところのとっぷり日が暮れるまでである。
まさかそこまで親御さんを待たせるわけにもいかないのだった。
最初に覚悟を決めたのは海斗である。
「…ヨシ、行くぞ七緒!!」
「えっなにかっちゃん本気…ああもういっちゃった、待ってー!」
電車通学の二人は時間がたてばたつほどまずい。むしろ時間がたった後がまずい。
そういうわけで駆けだす二人を、今度はピロン、という音が呼び止める。
「…あ、ごめん、俺も!」
「え、遼平、傘は?」
「あ、あー…えっと、大丈夫!たぶん!」
そういいながら駆けていく大型犬を、誰も止められない。
彼はその恵体に恥じることのない猛スピードで豪雨をかき分け、走っていった。
…カバンを傘のように使っているが、あれ中身大丈夫なのだろうか。
後で話を聞く必要があるかもしれないな‥とも思いながら見送っていると、今度に動いたのは意外にも妹尾だった。
「二人とも、」
「え?」
「あら」
「更衣室探ってきたら傘があった。二人分。」
「あ、ああ~この前の雨の。」
「うん、そう。見当たらないから無くしたのかと思っていたけど、おいてあったみたい。乃愛は?」
「あ、ええ、私はもっています、今朝がた持たされまして‥」
そういいながらお互いの傘の確認をするかしまし娘参人組は、それぞれの確認をしていた。
「大丈夫か?」
「はい。正直様子を見てたけどやみそうにないし、無いよりはましなので。」
折り畳み傘でどこまで対応できるかはわからないがないよりはましだろう。
というわけで、彼女らは意を決して一斉にかけていった。
正直に言うと数十秒でもうだいぶダメそうであったが、コーチにできることは何もなかった。
女子高校生この世の特権階級に対して成人男性ができることなど何もないのである。諸行無常。
閑話休題。
「じゃあ、僕も帰るね湊。」
「えっ、一緒に帰らないのか?」
「いいんだよ。それに。」
正直ちょっとむかつくから、あいのりさせてもらおうとおもって。
と言ってにこやかに笑った彼の真意がどこにあるのかはわからないが、その笑顔はとにかく底冷えのするものだった、本当に。
そういいながら彼が追いかけたのは遼平の背中だったが、はてさて何があるのやら。
そんなこんなで、軒下には文字通り、湊と雅貴の二人きりが取り残されていたのである。
ちなみに森岡先生は腰が痛くなって早退している。
雨によって傷が痛むというのは本当らしい。
「とりあえず、帰るか。湊は自転車だよな?」
「え、ああうん、そうだけど。」
「なら車に乗っていくか?ちょっとくらいスペース開ければ、多分自転車も行けるだろ。」
「え、いや悪いよ。」
「…風邪ひかれたら困るのはこっちなんだぞ。」
ぶすくれたような言い方になってしまった。
これでは弟子を笑えない。
だが、当の本人は少し恥ずかしそうに顔をそむけた後、ふにゃりと笑った。
「…わかった。じゃあ、お言葉に甘えて。」
「おう、そうしろそうしろ。ほれいくぞー。」
とはいえ、目の前の豪雨は止む気配無く、むしろその勢いを徐々に増している。
そろそろ水のカーテンが水の壁になりつつある。おそらくもうそろそろ当たって冷たいというよりは痛いの域に達する。
此処から駐車場まではそう距離もないが0というわけでもない。
覚悟を決めて、二人は一歩先へ踏み出した。
瞬間後悔したが、隣の美しい瞳がこちらを向いて笑ったので、まあいいやと思った。
ばたん!と音を立て扉を閉めたころには、もうすっかりぐしょぬれだった。
傘はと言われそうだが、車なので甘えてしまったのである。まさかここまでとは思わなんだ。
今日はもう予定もない。このまま直帰しても構わない風貌だ。
だからこそ、この状況を過剰に憂うこともない。
一つ追加されたミッションをつつがなく終わらせれば、あとは安心して帰るだけである。
安全運転を絶対として進めば、難しくないミッションだ。
――本来ならば。
「…マサさん。」
バタン、と助手席の扉が閉じる音がする。
と、同時に、そっと左手に暖かいものが添えられた。
雨に濡れた程度では陰らない、美しい、暖かな子供の体温が。
その体温が、ぬるくなった水音が、ぽたりと垂れるのが、なぜか無性にもったいないと感じた。
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向き
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湊マサの話
初公開日: 2023年06月27日
最終更新日: 2023年06月28日
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