第二章
気がつくと僕は、まっくらな世界にいた。
見回してみたけど、特になんにも見えない。
僕ひとりだけの世界。
お父さんは?
いない。
お母さん?
いない。
僕ひとりしかいない。
後は目の前におっきな、煙突。
あれ?さっきからあった?
思い出せない。
ただあるのはサンタさんが登る煙突。
あれ?…煙突?塔?
僕は混乱してきた。
あれは煙突じゃない、大きな塔だ。
僕は塔に近づいてみることにした。
さっきは煙突だと思ったのに、こんな大きな塔がいつの間に…。
もっとよく見てみよう。
ん?今度はなかなか前に進めない。
なんか遅い。
あっ。そうか。
僕、よちよち歩きだもんね。
えっ?どうして?
そう思ったら、一緒に声がもれた。
「あうー。」
なんだ?あかんぼうみたいだ。
あかんぼう?
僕、あかんぼうだ。
そんなわけはない!
だって僕は今日、誕生日で…
誕生日で…。
いくつになったんだっけ?
前にぷくぷくした手が見える。
僕の手だ。
前に手を伸ばすたんびに僕の手はやわらかくへこむ。
歩くたんびに、前に進むたんびに。
そして僕は気付いた。
僕は歩かされている。
なぜだか知らないけど、進むのを自分の意志で止められない。
僕は進みながらハシゴがついた塔に引き寄せられた。
そう、それにはハシゴがついていたのだ。
一歩一歩進んでいく。
そうしてついに僕はその塔に着いた。
威圧するような、迎えるようなそれは大きくて、でもそれはきっと僕が思っているよりももっと壮大で計りしれないものだった。
なのに僕は、それに対して静かに手を伸ばしていた。
静かに、でもはっきりと手を触れたそれの手すりはあっけないほどふつうのものだった。
特に冷たくもなければ、それほど心細くもない。
それより僕の手は、それがなんなのか、もうずっと前から知っていたみたいに、なんのためらいもなくそれを掴んでいた。
小さな手は僕自身が思っている以上に力強かった。
体を引き寄せるというより、塔をこっちに引き寄せんばかりの勢いで、僕は手すりを引っ張った。
僕とそれの距離はぐっと近くなる。
怖くはない、僕はなぜだか、僕の体はどうしてか、それがなにかを知っている。
なのに僕にはまるでそれがなんなのかわからなかった。
ただ動く体にまかせ、僕は委ねることにした。
引き返せないことだけはよくわかっていた。
もう一度ぐっと握り直すと、余韻を味わう間もなく僕は次の手すりに手を伸ばしだした。
僕はどうやらこれに登るらしい。
さっきより力強く、そして確実に僕は次の手すりを掴んでいた。
手すりが取れないか、そんな僕の心配をよそに、手すりを引き寄せんばかりの力強さはなおも変わらない。
そうして僕はいたずら猫が柱をひっかくような格好になった。
それに甘えるようでもあるし、反発するようでもある、そんな格好だ。
でもそれはどうやら僕を受け入れたらしい。
現に僕は受け入れられるままにこうして手すりを握っている。
望むか望まないかなんて別なんだ。
僕だって望んだわけではないんだ…と思う。
そうしてまた僕は次の手すりに手をかけていた。
両膝でたったまま、僕の体はだんだんと縦になっていく。
ふと僕は小さな不安を感じた。
このまま登るんだろうか。
もう二、三つ手すりに手を伸ばしたら僕の小さな体は完全に伸びきってしまう。
そうしたら次から僕の体はどうなってしまうんだろう。
支えられずに肩がとれちゃう。
とれたらどうやってくっつけたらいい。
くっつくはずがない。
でも僕の体はそんなことを心配していないようだ。
もう次の手すりに手を伸ばしている。
それにまた力強い。
なにかに対して確実に向かっていくことに挑むように、それは変わらず力強かった。
また少し、僕の体は縦になる。
それはゆっくりと船が縦になって沈んでいくみたいだ。
ブクブクと音を立てるように。
僕は小さく慌てている。
なのに、僕のなかのなにかはそれを全く気にしていない。
確信に満ちて、僕は変わらず、力強い。
また次の手すりへ手が伸びる。
もうあと次の、その次の手すりまで、僕はこのままでいられるだろうか。
いや、いられなくちゃ困る!
だって肩がとれちゃったら…
そう思ったら、もう僕の手は次の手すりに手をかけている。
それを握ったら、僕の体は完全に縦になっていた。
ここでいったん、止まるんじゃないか。
登るのはひと休憩だ。
僕は一瞬、本当に都合のいい期待をした。
それが本当につまらない期待だったことは明らかだった。
僕の手は、次の手すりにすでに手を伸ばしていたからだ。
届きっこない。
だってそれはわかりきったことじゃないか。
僕は目をつぶりたかった。
でも、それを見届けなければいけないように、目は見開いたまま、その手すりをじっと見ていた。
もう手すりが近い。
だめだ、肩がとれる。
指先が触れる。
手すりを掴んだ。
…肩はとれていない、僕は無事だ。
でも体はいっぱい以上伸びたはずなのに。
と、小さな変化は僕の予想に反してまったく別のところで起きていた。
一番下の手すりに、右足をそっとかけていたのだ。
あぁ、だからか。
僕はふと残念な気分になった。
残念?なにかを期待していたのか?
変な気持ちだ。
ドキドキしていた気持ちが冷めて、僕はその後にがっかりしていた。
当たり前のことじゃないか。
そのがっかりの間に僕の左足は次の手すりに足をかけていた。
そう、足をかけていたのだ。
手すりを持ちながら二本足で立って。
僕は自分の中に小さな、しかしとても重要な変化を知った。
僕はもうよちよち歩きの赤ん坊ではなかった。
僕は成長している。
そう、最初に手すりによりかかっていたより、少し余裕がある。
力もさっきより力強い。
僕は、正直自分の変化に戸惑っていた。
なのに僕の戸惑いを無視するように、僕は新しい手すりに手を伸ばしている。
その動きに迷いはなかった。
そしてその迷いのない一歩は、まるで僕の体がずっとそうしてきたように、この先に何があるのかを知っていて、それを求めるように力強かった。
そう、僕の体は知っているのだ。
僕の知らない、この先の何かを。