俺がこの町に越してきたのはもう二十年以上も前のことだ。都心からやや離れた場所で、アクセスは悪いが自然があって子どもを育てるには適した場所だ。妻と二人の子供と暮らすには十分な広さの一軒家を建てたとき、俺の人生において大きな課題を一つこなした気がした。
 時は経ち、二人の子供たちはこの家を、そして育った町を離れた。二人で暮らすにはこの家は広すぎた。俺はいつからか、極力家にいる時間を減らすようにした。休日はもっぱら喫茶店に入り浸り、店に備え付けられている雑誌やら本やらを眺めた。昔ながらの喫茶店といった風情で元々あまり客入りが多いわけでもないらしく、マスターも気のいい人で日が暮れるまで居座っても何も言わない。居場所のない俺からすれば楽園のような場所だ。
 ある日、いつものように喫茶店の扉を開けると、まず耳に飛び込んできたのはジャズではなく喧騒だった。いつもは空席の方が目立つ店内に人がいた。女性数人だけのテーブルもあれば、男性と女性の二人連れのテーブルもある。何より俺が驚いたのが客層だ。
「ああ、すいませんね。カウンターへどうぞ」
 俺に気づいたマスターが声を張り上げ、また自分の作業に戻っていった。
 俺はすっかり面を食らっていて、よせばいいのにマスターが指し示した席へと腰を下ろした。すると隣の席の若い男がこちらをちらりと見た。俺が「すみません」というと男は何も言わずに手にしていたスマートフォンに視線を戻した。
 一体、何が起きたんだ。ここは俺のような年寄りが安寧を求めて来る場所じゃなかったのか。何がどうなって若者のデートスポットになったんだ。
「いやいや、お待たせしました。ご注文は?」
 俺の思考を遮るように慌ただしいマスターの声が聞こえてくる。俺は「ブレンドとたまごサンド」と短く答え、返事もそこそこにマスターは準備に入った。
 これまでもマスターと長話するようなことはなかったが、注文をするときや品を持って来るときは二、三言やり取りをした。それは次の瞬間には忘れるような他愛のない会話だったが、ないではないで物足りなさがあった。しかし、今のマスターに雑談をする余裕がないのは明らかだ。
 俺は一度席を立ち、雑誌が置かれた棚に向かった。この棚に新しい本が追加されるのは稀だった。全く読む気のない小説を手に取り、席に戻った。俺と入れ違いで隣の男が席を立つ。テーブルに置かれたアイスコーヒーは半分以上残っていた。その瞬間、俺はむっとなった。以前、マスターからコーヒー豆にはこだわっているという話を聞いたことがあるからだ。だからといって、彼を引き留めて「全部飲め」と言うことはしない。
 持ってきた小説をぱらぱらとめくる。昔から視力はいい方だったが、年のせいか最近は文字がかすんで見える。特に小さな字は最悪で、結局ページをめくる振りをして時間を潰した。いつもの倍の時間をかけて、やっと俺の前にコーヒーが置かれた。申し訳なさそうにするマスターに「ありがとうございます」と精一杯の笑顔で言うと、マスターは微笑み返してすぐに背を向けた。
 日が傾き始めてくるとようやく客足が減って、マスターの表情にも余裕が出てきた。俺は今しかない、と思って声をかける。
「なんだか今日は人が多いですね」
 なるべく嫌味な言い方にならないように言葉を選んだ。マスターは苦笑しながら言った。
「ええ。私もびっくりして、思わずお客さんに聞いちゃったんですよ。そしたら、ええと何といったかな……有名な人がうちのお店のことをインターネットで紹介してくれたみたいで」
「ああ、それで」
 マスターの言葉で俺はつっかえていたものが取れたような気分になった。いつの時代も有名人は人を動かす影響力を持っているものだ。
「それにね、最近はレトロブームっていって、こういう古い喫茶店なんかが若い子の間で流行ってるらしいんですよ」
 マスターはさらに付け足した。自分が得た知識を共有するような口振りだ。
「はあ……歴史はくり返すってやつですか」
「うちとしてはありがたいことなんでしょうけどねぇ」
 マスターは微妙な顔をして言い、それからテーブルに置かれた皿やカップを片付けに行った。戻ってきたマスターの手には食べかけのケーキや全く手つかずのものまであって、なんとも言えない気持ちになった。
 あの後、マスターと少し話をして店を出ると外はすでに薄暗くなっていた。途端にふう、と溜息がこぼれた。なんだか今日は妙に疲れてしまった。おそらくブームはしばらく続くだろう。そうなると休日の俺の居場所がなくなることになる。
 ——いや、あるじゃないか。二十年以上も変わることなく存在している俺の居場所が。
 家に帰る前に俺はケーキ屋に寄ってケーキを二つ買った。いつもより帰りの遅い俺を妻は怒った顔で迎えたが、箱の中身を見せるとびっくりしたような顔になった。それから俺を見つめて、
「モンブランは私が食べていいんだよね?」
「ああ、そのために買ったんだ。モンブラン好きだったよな」
「うん。好きだよ」
 箱を俺から受け取った妻の笑顔は出会った頃と変わらない。
 ケーキ冷蔵庫にしまっておかなきゃ、と思い出したように妻が言い、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら部屋の奥へと消えていく。その背中を見送ってから、俺はいつしか言わなくなっていた言葉を久しぶりに口にした。
「ただいま」
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向き
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2023/2/19 深夜の真剣物書き120分一本勝負
初公開日: 2023年02月18日
最終更新日: 2023年02月19日
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