トラヴィーは日が昇るのと同時に目を覚まし、いつものように家のポストを見に行った。その足取りは実に軽やかなものだ。
つい先週、世を騒がせていた〝魔王〟が勇者によって倒されたと報じられた。魔王の手下に怯え、家に閉じこもり気味だった人々も少しずついつもの暮らしに戻りつつあった。それは靴職人として働くトラヴィーにとっても喜ばしいことだ。
鼻歌混じりにポストを覗くと、新聞と見慣れぬ手紙が入っているのに気づいた。何の気なしに手紙を裏返してみると、押された封蝋にぎょっとなった。
「これって……〈SoS〉の……?」
〈SoS〉とは世界の秩序を守るために設立された組織の名だ。町に現れた魔獣を討伐する人員を派遣したり、もちろん〝魔王〟を倒すための人選をしたのも〈SoS〉だ。トラヴィーは思わず首を傾げた。〝魔王〟が倒されたというのに、この上ただの靴職人に何ができるのだろうか。
家に入るだけの時間も惜しい。トラヴィーはポストの前で封蝋を剥がし、手紙の内容に目を通し始めた。文字を追うごとに眉間の皺が深くなっていく。
「なんだって? 僕を……」
トラヴィーは混乱した頭のまま、家の中に入って行った。
「ついに来たのね、アル」
洞窟の中にエリザベルの緊張した声が響いた。
「ああ! それにしても、まさかこんな場所があったとはな……ほとんど俺たちの村の目と鼻だぜ」
アルと呼ばれた青年が洞窟の中をぐるりと見渡しながら言った。エリザベルはちょっと困ったように眉を下げる。
「よっぽど魔力を抑え込むのが上手いやつだったんだろう。お手柄だな、アルバート」
アルバートの言葉に返したのはルドウィンだった。アルバートの肩を軽く叩き、薄く笑った。
「まあな! あー早く戦いたいぜ! 今度は骨のあるやつだといいんだけどな」
ルドウィンに褒められ、気をよくしたアルバートはおもむろに腰にさげた剣を抜いた。それを素振りのようにぶんぶんと振り回すのを「ちょっと! 危ないでしょ!」とエリザベルが諫めた。
そのとき、地鳴りのような音がして地面が揺れ始めた。上からはぱらぱらと砂や小石が落ちてくる。
「おい、あれを見ろ!」
ルドウィンが目の前にある湖を指差した。アルバートとエリザベルが遅れて面を上げると、湖から今しも〝何か〟が姿を現すところだった。水飛沫を上げながら、噴き上がった水柱の上に立っている人影を三人は見た。
「おやおや……誰かと思えば、勇者さまではないですか」
ようやく地面の揺れがおさまったとき、水柱の上にいた男が静かに口を開いた。
「お前だな! 魔王の手下を操ってるとかいう悪いやつは!」
威勢よく口火を切ったのはアルバートだった。すでに剣を握り直し、戦闘体制に入っている。
「仕方がないでしょう。魔王様が志半ばで倒された今、その役目を担えるのは私以外にいなかったのですから」
男はアルバートをいなすように、やれやれと首を振った。仕方がなくやっているとでも言いたそうな口振りだ。エリザベルは「何よそれ!」と声を荒げ、ルドウィンも黙ってはいたが冷たい眼差しを男に送っている。
「確かに。あの魔王は弱かったよな。本気で殴ると二、三発で倒せそうだったから途中から手加減してたし」
「何……?」
アルバートの一言に男がさっと真顔になった。ぴりっと周囲の空気が重くなったのを感じ取ったエリザベルが慌てたように口を開く。
「ちょっとアル! 挑発してどうするのよ!」
「何だよ。別に本当のことだからいいじゃんか。お前だってちょっと思ってただろ?」
「十分強かったわよ! あんたが強すぎるの!」
アルバートとエリザベルが軽い口論を始める中、男は押し黙ったままだった。嵐の前の静けさ。唯一、口論に参加していなかったルドウィンだけが異変に気づき、叫んだ。
「二人とも! 来るぞ!」
男は自分の足元以外にも数本の水柱を作り上げた。それは徐々にゴーレムのような形になって男の前に進み出た。
「貴様らの冒険もここで終わりだ。この場所を見つけてしまったばかりにな!」
男が合図を送るのと同時に水のゴーレムは三人に襲いかかった。剣を握るアルバートの瞳が爛々と輝き出す。
トラヴィーが目を開けると、そこには見慣れぬ天井が見えた。首を動かして周囲を見回すと、白い壁にガラス張りの棚には瓶が入っていた。そういえばどこか薬品の臭いがする。
扉が開き、白衣を着た女性が入ってきた。彼女はトラヴィーを見るなり目を丸くしたが、すぐににっこりと微笑んだ。
「トラヴィーさん、どうですか? 体の具合は」
「全身痛くて死にそうです……」
体の痛みに泣き言をこぼすトラヴィーに白衣の女性はくすくすと笑った。
「〝勇者様〟と戦ったんですから、無傷で済むわけないでしょ」
「それにしても、もっと回復魔法でサポートしてくれても良かったんじゃ……あいててて」
体を起こそうとしたトラヴィーは脇腹の痛みを感じて呻き、白衣の女性に促されてまたベッドに寝かされた。
「そんなことをして〝勇者様〟に勘づかれたらそれこそ大変なことになりますよ。それに最初からそういう契約だったでしょ?」
「…………」
契約という言葉にトラヴィーはあの日〈SoS〉から届いた手紙の内容を思い出した。
この世界の勇者は封印の過程で記憶を失くした〝魔王〟であること。そして、戦闘狂である魔王が再び記憶を取り戻すことのないように〈SoS〉は〝魔王〟を〝勇者〟に仕立て上げた。
そして先週、〈SoS〉が用意した偽物の魔王を倒した〝勇者〟だったが、その戦闘は満足のいくものではなかったらしい。〝勇者〟は「まだどこかに強いやつがいる」と旅に出た。慌てた〈SoS〉は新たな〝敵〟を作ることにした。そこで白羽の矢が立ったのがトラヴィーだった。
「〈SoS〉はあなたに特訓をつけてくれたんでしょ?」
「でも、あんな短期間じゃほとんど意味ないですよ。そもそも僕は魔力が高いだけで、魔法を使うのは苦手なんですって」
「はいはい。文句は〈SoS〉にどうぞ」
トラヴィーが愚痴っぽく喋り出すのを白衣の女性は聞き流しながら、掛け布団をトラヴィーの胸のあたりまでかけ直した。
「それじゃあ、また様子を見にきますね。そのときに書類にサインを」
白衣の女性が業務的な口調で告げ、部屋を後にした。一人きりになった部屋でトラヴィーはぽつりと零した。
「割に合わないよなぁ、この仕事」