「道行享子さんと連絡が取れなくなりました」
受話器を下ろした七梨の言葉に、事務室内の緊張感が一気に高まった。
「玉簾さん、道行さんのGPSからロスト地点を解析してください。申し訳ありませんがアカネさんは今日のところは帰宅してください。どなたかに送っていただきますので」
人外(グレーゴル)の遺体取引が裏社会で行われている。
先日発生した吸血鬼型グレーゴルの騒動以来、トクシはその実態解明に乗り出し、享子は情報収集に当たっていた。
一ヶ月ほどの調査の末、取引を仲介していたある会社を突き止め、警察と協力して立ち入り捜査を計画していた矢先の事だった。
グレーゴルの遺体取引は、現在のようにその人権が認められてから表向きには禁止されたが、非合法的には今でも高値で売買されている。その利用目的は様々だが、一体の吸血鬼型の遺体から採取された遺伝子を基にアカネが造り出されたことからも、その利用価値の高さは容易に伺い知ることができるだろう。
「定時連絡が2回続けて無かったら、非常事態が発生したと判断するとあらかじめ道行さんと取り決めてあったんです」
アカネの保護者でもある芹川細流が本業(製薬会社研究員)から帰ってくるまでの間、彼女に付き添うことになったのは先月からトクシに事務員として入った有明旭だった。
それまでトクシの事務は副室長の七梨が一人で担当していたが膨大な業務量にパンク寸前となり、ようやく正規の事務職員を募集することになって採用されたのが旭だった。
20代前半の元フリーターという経歴ではあったが、物覚えもよく、馴染むのも早かった。特にアカネは早いうちから懐いていた。
「芹川さんが帰ってくるまでまだ時間もありますし、先に宿題を終わらせてしまいましょうか」
「あ、それじゃあ数学で教えてほしい問題があるんですけど」
細流の帰りが遅い日は旭が代わりに夕食を用意することもあるため、慣れた手つきで買い出した食材を冷蔵庫に片付けていく。
アカネを引き取ってしばらくは細流もなるべく定時に帰るようにしていたが、元よりグレーゴル症状の緩和薬開発で多忙にしていることの方が多く、公私ともに支障を来すまでに時間はかからなかった。旭が業務後もアカネの面倒見を買って出なかったら、過労で倒れていたかも知れない。
「享子さん、大丈夫ですよね?」
数学の問題集を鞄から取り出しながら、自分に言い聞かせるようにアカネが問いかける。
「並の人間が相手なら、たとえ男性であっても道行さんが力で負けることはないでしょう。明日、最後の定時連絡があった場所に行く予定です」
「私も何かお手伝いできませんか?」
「それは……副室長も芹川さんも許さないんじゃないでしょうか。あくまでアカネさんは事務補助員ですし、道行さんが調べていたのは違法な取引をしていた会社です。何が起こったか分からない以上、危険な目に遭うかもしれません」
「でも私もトクシの一員として、みんなの役に立ちたいんです」
そもそもなぜ中学生が事務補助員をしているのか、細流とはどのような関係なのか(同じ名字だが親戚ではないらしい)、トクシに入ってまだ一ヶ月足らずの旭は知らない。だがこの少女は口癖のように「みんなの役に立ちたい」と言う。そこにある種の必死さが込められていることを、旭は感じ取っていた。
「それなら明日は朝から、事務所に来ませんか? 現場に同行するのは許してもらえないと思いますが、私以外全員出払ってしまうので、事務所が手薄になってしまうんですよね。」
みんなが任務に集中できるよう留守を守ることも、立派な役目だと思いますよ。
まだ中学生なら納得してもらえるだろうか。
まだ不満は残っていたようだが、ひとまず「分かりました」と宿題に取りかかってくれた。
その後は夕食も二人で済ませ、細流が帰宅してから入れ替わるようにして旭も自分のアパートに戻った。
翌日、享子の捜索に七梨や他の相談員を送り出してから、約束通りアカネが事務所に現れたことに旭は安堵した。
享子の捜索には副室長の七梨と享子のパートナーである鈴音澄、護衛として人狼型グレーゴルの狼河るうとその主人の玉簾珠琉が向かった。他の相談員もそれぞれが抱える案件の調査に出かけていたり、細流のように本業の方に行っていたりしていた。
事務室には旭とアカネの二人しかいなかった。
「旭さん、郵便物の仕分けできました」
「ありがとう。じゃあ個人宛に来たものはそれぞれのレターケースに入れておいてくれますか」
トクシにおけるアカネの肩書は事務補助員だが、仮にも中学生に住民の個人情報や機密情報が含まれる書類を処理させるわけにもいかず、雑務を任せるに留まっていた。
「旭さん、次は何をしましょうか?」
「あっ、えっと……じゃあ、しばらく留守番をお願いできますか? 副室長から連絡が入るかもしれないのですが、急ぎで郵送しないといけない書類があるので、郵便局に行ってきます」
「わかりました!」
そそくさと出て行く旭を見送り、アカネ一人だけになった。
電話番はこれまでも任されたことがあった。その時に教えられた受け答えのメモを眺めながら、旭の帰りを待っていた。
旭がトクシに入った時から、彼女には見覚えがあった。その匂いにも、どこか懐かしさを感じた。だが記憶の中でその二つが結びつかず、絡まった糸のような違和感をずっと拭えずにいた。
トクシに拾われた時、アカネは事故に遭った影響で記憶を失っていた。それは今もまだ全ては回復しておらず、「アカネ」という名前も本来彼女のものではない。
そんな彼女の記憶には、焼き付いて消えない人物が二人いる。一人は彼女の名前の由来でもある吸血鬼。そしてもう一人が、「助手さん」だ。
助手さんはアカネがいた研究施設で、実験体の子ども達の面倒を見ていた若い女性だ。しかしアカネを施設から逃がそうとして失敗した彼女は、仮死状態だった吸血鬼を蘇生させるためにその血を全て抜き取られた。
旭と初めて会ったときから、彼女に助手さんの面影が重なって見えるような気がしていた。
助手さんの顔は、あまり思い出せない。だから旭が彼女と似ているのかどうかも分からない。一緒に彼女に面倒を見てもらっていた他の子達なら、あるいはもっとはっきり覚えているのかもしれないが。
実験体にされた子どもは他にもいた。その中でアカネは「六番」と呼ばれていた。6番目に作られたから六番
アカネが「六番」なら少なくとも他に5人の実験体がいるわけだが、その中でも「五番」とは特に生み出された時期が近かったこともあり、一緒に過ごす時間が一番長かった。
研究施設の崩壊後、アカネ以外の実験体がどうなったかは依然として知れない。吸血鬼は他の子も全員逃がしたと言っていたけれど。
どこかで自分と同じように誰かに助けられて生きているのか、それとも……
口の中に血の味がよみがえる。吸血鬼の――自分たちを生み出す元となった「オリジナル」の血を飲み干したときの味を。
本物の吸血鬼の血を飲んでも、偽物は偽物のまま、何も変わりはしていない。
♪~
事務室の固定電話が鳴り響く。一瞬高鳴った心臓をなだめ、3コール目が鳴り終わる前に受話器を持ち上げた。
「はい、こちら特別市民相談室です」
「もしもしアカネさん? 有明です」
「旭さん? どうかしたましたか?」
「すみません、忘れ物をしたみたいで。少し探してみてもらえませんか?」
「すみませんアカネさん。郵便局に行くついでに銀行で記帳もしようと思ったんですが、肝心の通帳が無くて……鞄に入れたつもりだったんですが、もしかしたら何かのはずみで机の下に落としたかもしれなくて」
受話器を子機に替え、旭の机の下をかがんで探すが、それらしい物は見つからない。
「うーん、ぱっと見た感じ無さそうですけど」
「もしかすると転がってすき間に入ったのかも。申し訳ないですが、もう少し奥まで見ていただけますか?」
這いつくばってすき間を覗くが、やはり無い。
「やっぱり無いですねー」
ふと、旭が息を呑んだ音が聞こえた。
「アカネさん……ごめんなさい」
通話が切れる。瞬間、背後に立つ人の気配に気付いた。突然現れたように感じた。それくらい、全く気付かなかった。
旭ではない。細流でも、他のトクシの誰でもない。
だがアカネにはそこに立っている「誰か」に心当たりがあった。それが一瞬の隙を作った。
両足に激痛が走る。切られた、と頭が理解する前に感じた。
両足の腱を切られた。だがその後の追撃が来ない。どうやら相手はアカネを今すぐ殺すつもりは無いらしい。
狭い机の下で痛む足をかばいながら身体を反転させ、侵入者に向き合う。机の天板に遮られて顔は見えなかったが、その下の身体にアカネは先ほどの心当たりが間違いではなかったと知った。
「この血の匂い、そして味……よりにもよってお前に先を越されるとはな、『六番』」
「生きてたんだね……『五番』」
包丁に付いたアカネの血を舐め取りながら、侵入者――五番がのぞき込んでくる。年の頃はアカネと変わらない、中性的な顔立ち。最後に会ったのは、助手さんに連れ出される直前だったか。
五番はアカネの前に造り出された実験体だ。一番から四番までは身体欠損や精神面など何かしら不具合を抱えていたが、五番は初めて五体満足で生まれた個体だった。しかし吸血鬼としての能力は一番低く、直後に生まれた六番(アカネ)の方が高い完成度だったため、比較対象にされやすかった。
「あの日、蘇った吸血鬼が暴れて『病院』を滅茶苦茶にしている隙にボクらは逃げ出したけど、一人で別室にいたお前だけはいつまでも出てこなかった。だからとっくに死んでしまったものと思っていたんだけど、よく生きていられたな。それに、どうやってあの吸血鬼を食べることができたんだ?」
「違う。あの人に私は助けられたの」
「助けられた? お前はあの惨状を見なかったのか? みんなみんな、あいつに殺された。ボクらも、命からがらやっとの思いで逃げ出すことができたんだ」
「でもあの人は――紅子(アカネ)さんは私を助けてくれたの。だから私は今、ここにいる」
「紅子? あの吸血鬼のことか? そうか、血を全部吸い尽くしたからか」
吸血鬼は全ての血を吸い尽くした人の魂を受け継ぐという。
紅子とはアカネがいた研究施設を崩壊させた吸血鬼であり、アカネたち実験体の子どもに植え付けられた遺伝子のオリジナルだ。「助手さん」の血により仮死状態から復活した彼女は人としての理性を失っており、吸血鬼の本能のままに血を求め、殺戮を行った。事態を重く見たトクシは彼女の殺処分作戦を決行し、最期はアカネがその血を全て吸い尽くすことで決着した。
「そんなことより、久し振りの再会なのにいきなり切りつけるなんてどういうこと」
吸血鬼の回復力により出血は既に止まっていたが、切られた腱はまだ治っておらず、動けるようになるまでにはまだ時間がかかりそうだった。
「”そんなこと”じゃないよ。大事なことだ。お前が、吸血鬼の血を吸い尽くしたというなら」 五番がアカネの血に濡れた包丁を目の高さに持ち上げる。どこの家庭にもありそうなごく普通の包丁だ。「ボクがお前の血を吸い尽くす」
包丁がアカネの左肩に向かって振り下ろされる。躱しきれず、服が裂け、肉が切れ、噴き出す血を手で押さえる。怪我は大きな問題ではないが、状況は圧倒的に不利だった。突然の再会を喜ぶ余裕など欠片も無い。五番は私を、私の身体に流れる吸血鬼の血を狙っている。
「痛っ……なん、なんでこんなことするの?」
「なぜ? お前は、ボクたちが生み出された理由を忘れたのか?」
「それは……人工的に、吸血鬼を造り出すため」
「そう。ボクらは吸血鬼になるために生まれてきた。そして今この世で一番吸血鬼に近いのがお前なら、吸血鬼になるために、ボクはお前の血を吸わないとならない」
「そんな、もう『病院』はないんだから、そんなことに囚われる必要なんて無いはずだよ! あなたも私も、自由に生きていけばいい!」
「…………随分変わったな、六番。まるで『人間』みたいな事を言うじゃないか」
「私は人間だよ。少なくとも、人間であろうとしている」
「それは皮肉のつもりか? 人間にも吸血鬼にもなれないボクらへの!」
再び包丁がアカネを襲う。頬や腕などあちこちを切りつけられながらも、なんとか包丁を持つ手を掴んで抵抗する。だが机の下に潜り込んでいた体勢の悪さも相まって、五番の力に押されていく。
「どうした? オリジナルの力はそんなものじゃないだろう?」
「くっ……そっちこそ、こんなに力、あったっけ……?」
吸血鬼の血を吸い尽くしたアカネの身体は、本物の吸血鬼に近付くはずだった。しかし細流の開発した抑制薬により、人外化を遅らせている。そのため今でも一般人と変わらず昼間でも活動でき、学校にも通うことが出来ている。
だがそれらを差し引いても、五番の力がこれほどアカネを圧倒しているのには違和感があった。実験によって生み出された吸血鬼の子ども達は、それぞれが異なる吸血鬼の力を持っていたが、五番はその中でも初めて人としての理性と吸血鬼の力の両方を兼ね備えた成功例だと言われていた――六番、すなわちアカネが誕生するまでは。
生まれてすぐ干涸らびて死んだ一番を除くと、二番から四番までは高い吸血鬼の力を持つ一方で人としての理性に欠けていたり、欲求をコントロールできずに暴走を繰り返していた。その中で五番は吸血鬼としての能力こそどの個体よりも劣っていたものの、人外としては十分な力を持ちながら理性も兼ね備えていた。そして六番は、五番と同じく理性を保ちながらも五番以上に高い能力を持って生まれた、傑作だと賞された。あらゆる能力測定において、五番はアカネに勝つことが出来なかった。
だが今の五番の力は明らかに以前より強くなっている。わずかな血の味と匂いだけでアカネの身体に吸血鬼の血が混じっていることを見抜いた鋭敏な感覚は、四番を彷彿とさせた。そしてこの膂力の強さは三番に匹敵する。そして五番が何度も口に出した「ボクら」。アカネの脳裏に、一つの仮説が浮かんだ。
「五番、あなたまさか他のみんなの血を……?」
「ふん、やっと気が付いたのか。そうだよ。ボクは三番と四番を食べた。二番とは途中ではぐれたけどね」
「どっ、どうして……!?」
「どうして? ハッ、そんなことも分からないなんて、『病院』を出てからよっぽど恵まれた環境にいたんだね。『病院』で生まれ、世間のことなんて何一つ知らずに育ったボクらが突然外に放り出されて、まともに生きていけると思うかい? それも、定期的に血を吸わないとならないこんな身体を抱えて」
吸血鬼が蘇ったあの日、『病院』にいた人間はみな吸血鬼によって殺された。武装した警備員も一人残らず。ただ、実験台にされていた子ども達だけは吸血鬼の手で『病院』の外に逃がされた。仮死状態から蘇生させられた吸血鬼は理性を持ち合わせず、破壊衝動と吸血欲のままに行動するただの怪物でしかなかったはずだった。しかし蘇生のために注入された血がアカネを逃がそうとした「助手さん」のものであったため、その想いが吸血鬼を動かしたのだとアカネは推測している。アカネが逃がされたのは一番最後で、その前に他の子達は逃がしたと吸血鬼は言っていた。
「あのときはお前だけ離れた別室に連れて行かれていたから、ボクらは一緒に外に出された。でも行く当てなんてあるはずもない。ボクらはすぐ途方に暮れた。『病院』は森の奥深くにあったけど、その近くを流れる川を見つけることができたから、森に生えていた野草や木の実と川の水で飢えをしのぎながら、とりあえず川下を目指すことにした
「病院」から森の外に続く道も整備されていたが、そこを歩いていったアカネは途中で車に轢かれ、追っ手に拉致されかけていたところをトクシに保護された。追っ手から逃れるために森の中に入った五番達だったが、そのせいで何日も町に出ることができず、さまよい続けることになった。
「二番はボクらの中で一番吸血欲が強かったから、三日と経たずに喉が渇いたと我を忘れて暴走を始めた。ボクらは二番を川に突き落としてなんとか逃れることが出来たが、無我夢中で走り回ったせいで道を見失ってしまった。また二番に襲われるかも知れないという恐怖で川にも近付くことが出来ず、遭難状態になったんだ。どこを歩いているのかも分からず、お互いの血を飲みあって吸血欲を紛らわせ、飢えをしのぐだけで精一杯だった。当然、そんな状況が長く続くはずもない」
最初に動けなくなったのは三番だった。身体能力は最も高かったが、その分エネルギーの消費も激しく、「病院」の実験でも度々貧血を起こしていた。四番は感覚が鋭く、わずか一滴の血だけでも誰のものか区別することが出来たがその反面、太陽やニンニクなど吸血鬼の弱点と言われるものだけでなく刺激が強いもの全般に弱かったため、日の光が十分に届かない森の中でも日中は十分に活動できなかった。その結果、三人は身動きを取ることすら出来なくなってしまった。
――このまま、足手まといになるくらいなら。
――一人だけでも、生き延びる可能性に賭けよう。
「――血を吸い尽くすことで相手の能力を得られると知ったのは、その時だ」
三人分の力を手にした五番と、薬で力を抑えているアカネ。それがこの力の差だった。
「その後すぐ運良く道を見つけて森を抜け、町に出ることができた。そこでしばらく人気の無い空き家や路地裏を移り住みながら時々『食事』していたら偶然、この『町』に吸血鬼が現れたって話を耳にしてここまで来たと、まあそういうわけだ」
アカネは言葉を失っていた。力が抜けそうになるのを必死に堪えながらも、頭の中では五番に言われた「恵まれた環境」という言葉が重くのしかかっていた。
ずっと心の中のどこかで、自分は「不幸な境遇」だと思っていた。ただそれを「自分一人だけ」だとは考えていなかった。トクシには様々な過去を抱えている人がいて、アカネが知っているだけでも皆なにかしら傷痕を負っている。そんな中でトクシに受け入れられた自分は「不幸な境遇」にいても幸運な方だと思っていた。そして密かに願っていた。「病院」にいた他の子達も、自分のようにどこかで人として受け入れてもらえるところで平穏に暮らせているように、と。
今なら分かる。とんだ傲慢だ。上からの、「恵まれた環境」からの目線だ。なにが「不幸な境遇」。ずっと、どこでも誰かに助けてもらっていたじゃないか。「病院」での実験続きの日々では助手さんに面倒を見てもらい、彼女がいなくなり独りぼっちになったところを吸血鬼によって救い出され、路頭に迷いかけたらトクシに保護され、人として家族として細流に受け入れられた。自分はずっと、人に恵まれてきた。不幸比べなんて、不毛なことでしかないと分かってはいるけれど、それでも思わざるを得ない。五番達の方が、自分よりずっと辛く苦しい思いをしてきたんだ。そんなかれらに、私が何かを言う権利なんてないんじゃないか。
「どうした? まさかこれで全力を出しているつもりか?」
上から覆いかぶせられ、五番の力に押し負けるのもこのままでは時間の問題だと思われた時だった。
ガチャッ――
「アカネ――あれ、いないの?」
細流の声。何故、今日も本業の方に行っているはずなのに。
突然の来訪者に五番の気が逸れる。その隙をつき、アカネの足が五番の体躯を蹴り飛ばした。
「うッ」
「なっ!? あなた、何? こんなところで何しているの……!?」
細流の視界に、机の下から五番が転がり出る。その手には血に濡れた包丁を握ったまま。アカネの姿は見えていない。
「あなた! アカネに何をしたの!?」
「細流さん逃げて!」
咄嗟に叫ぶ。だが、それが失敗だった。
「アカネ! そこにいるのね!?」
アカネの意図に反して、細流が駆け寄ろうとする。もしこの場にアカネがいなかったら、あるいは居場所が分からなかったら、細流は凶器を持つ相手に決して近付こうとはしなかっただろう。しかしアカネの声が聞こえたのは、その凶刃のすぐ近くからだった。苦痛の色が混ざった声は、その刃を染める赤色がアカネのものだと細流に確信させ、そして冷静さを奪うには十分だった。
五番にとってもこの事態は予定外だった。まだしばらくは誰も来ないはずだったのに。確か「細流」は六番の保護者をしている人間の名前だったはずだ。トクシの相談員だが、見る限り手元に武器となるようなものは何も無い。今なら、「排除」することは十分可能だ。
包丁を握り直し、助走なしの跳躍だけで、不用意に近付いてきた細流に飛びかかる。咄嗟に身を庇おうとして前に出した右腕を切りつけ、その勢いのまま馬乗りになって押し倒した。アカネの時と違い体格差があるので、力任せに抵抗されたら簡単に押し返されかねない。倒れた衝撃で息を詰まらせている隙に息の根を止めるべく、両手で包丁を掲げ、青い血管が透ける首めがけて振り下ろし――かけた瞬間。
「ガアアアァァァッ!!」
化物のごとき咆哮とともに、五番の細い身体が吹き飛ぶ。その衝撃は巻き込まれた重い事務机ごと壁に叩き付けられたほどで、埃が舞い、書類や文具が散乱して様子を伺い知ることができない。
「細流さんヲ、傷付けるノハ許さナイッ!」
「アカネ――っ?!」
物凄い速さで五番に体当たりを喰らわせたアカネの顔を見て、細流は息を呑んだ。紅く染まった両目、唇からはみ出た歯は鋭く尖り、まるで血を吸う鬼のごとき様相。
ずっと懸念していた事態がついに現実になったのだと細流は理解した。
アカネの身体を流れる吸血鬼の血の活性化。試験段階の薬でこれまで抑えていたが、細流の危険にその枷がついに外れた。
「ウッ、グゥ……ッ」
呻き声を漏らし、ふらふら揺れる身体を自分の両腕で抱きしめるようにうずくまる。
「アカネっ、大丈夫……?」
「来ナイでッ!」
駆け寄ろうとした細流を悲鳴のような声で制止する。やがて細流も気付いた。何度も喉を鳴らしてもなお口の端から零れ落ちる、アカネの唾液に。
「これ以上近付かれタラ、耐えレなくナルから……ッ!」
普段は病院から支給される献血用の血液パックで定期的に喉を潤していた。しかし、吸血鬼の血を飲んでからはそれだけでは満足できず、生き血を求めるようになっていた。その衝動もずっと薬で抑えてきたが、それが解き放たれた今、吸血衝動は意識を吹き飛ばしそうなほどに強く、アカネを襲っている。しかも細流の血は、アカネに宿る吸血鬼が生前ずっと渇望していた。包丁で切られた傷から溢れる血の匂いだけで暴れ狂う衝動を抑え付けるアカネの理性は、はた目には分からないが喩えて言うなら飢えた野生のライオンの目の前に餌を置いた状態で待てをさせるようなものだった。
「早クここカラ離れテ、怪我ノ手当ヲ……ッ」
「ッッッッッッッッアァ~~~~~~~!! 痛ッッてぇなぁっ!」
立ち上がった五番が事務机を投げ返す。掠るすれすれの距離でそれを躱したアカネだったが、机の影から飛び出してきた拳の連続は完全にはさばききれず、頭を庇うように両腕を上げた防御で耐え、後退しながら距離を取ろうとする。攻める五番の動きも先刻までとは比較にならないくらい素早く、アカネと同じくその両目を紅く染め、これまで吸った同胞の血から得た吸血鬼の能力を最大限まで引き出していた。
「ほらホラホラホラ!! もっとお前の本気を出して見ろよ六番!!」
「ッッグ、こンンのッ!」
先ほどアカネに体当たりされた衝撃で五番の手から包丁は離れており、格闘術の心得もない二人の戦いは素手による単純な力と力のぶつけ合いとなる。吸血鬼の血を吸ったアカネの方が能力的には上回っているが、それはまだ完全には覚醒しておらず、今や実験体の集合と化した五番の方が能力的には劣っていながらもそれを十全に使いこなしているため、この場における両者の力は拮抗状態にあった。
右腕を殴られれば左腕で顔面を殴る。鼻血を吹き出しながら今度は腹を打つ。たまらず胃液を吐き、嘔吐きながらうずくまった無防備な背中に踵を落として床に倒す。追い打ちにもう一撃踏みつけようとした足を今度は逆にしがみついて転がす。二人とも転がった勢いのまま体勢を立て直すため距離を取り、それぞれ机やソファの影に身を潜める。荒い息の音だけが響く。互いの位置は分かっているが、相手が次にどう動くかを窺い合い不用意に動けなくなる。細流も、戦いの間は巻き込まれないために下手に逃げられずにいたが、膠着状態に陥っている今ならチャンスかもしれなかった。しかしそれがこの戦局にどう影響するのかを考えると、固唾を呑んで見守ることしか出来なかった。
先に仕掛けたのは五番だった。
「なあ、六番。お前が吸血鬼の血を吸い尽くしたと聞いたときから、ずっと腑に落ちなかったことがあるんだ」
「…………?」
「銃を持った人間に囲まれてもあっという間に皆殺しにしていた吸血鬼を、どうやってお前は倒したんだ?」
細流の脳裏に、あの日の光景が蘇る。二度も恋人を亡くした。それも、二度目は自らの手で終わらせた。だが一人では出来なかっただろう。トクシが、アカネがいなければ、自分は今ごろ彼女に血を吸われて、彼女の一部となっていたかもしれない。それでも後悔はしていなかったはずだ。彼女と一つになれたら、私は――
「私一人の力じゃナイ。そレに、倒しタわけでモない」
「ならどうやって」
「託さレタの。あの人に」
「フン。自分が後継者に選ばれたとでも言いたいのか」
「そウ。でもそれは『吸血鬼』の力のことジャない。あノ人が命を賭けテ守ろうとシタものヲ、こレからは私ガ守ルノ」
「なるほど? どこかおかしいと思っていたけど、だいぶ吸血鬼の影響を受けているみたいだな」
細流がアカネに初めて会ったとき、彼女は記憶のほとんどを失っていた。自分が何者かも分からない状態だった。吸血鬼との遭遇によって研究施設から逃走した時などおよそ半年前後の断片的な記憶は思い出すことができたが、今もなお全ての記憶は戻っておらず、回復する傾向もない。ただ新しい生活にはさほど支障を来しておらず、思い出したところで楽しいものでもないと想像がつく(実験の影響でそもそも記憶が定着していなかった可能性がある)ため、積極的に思い出そうとはしていなかった。むしろ生まれ変わった気分でこれから新しいものを見聞きして、記憶を積み重ねさせていけば良いと考えていた。
だが、もし、そのアカネの大きく空いた記憶の器に吸血鬼の記憶が注ぎ込まれたとしたら? 彼女の人格形成、感情、価値判断に大きく影響を与えるであろうことは想像に難くない。
細流にはわからなかった。彼女の意志は、果たしてどこまでが本当の彼女のものなのか――
「ソれは、私ニモ分からナイ。でも、細流さんハ私が守ルって、『私』がそう決めタから、ここでアナタに負けるわけにはいかない!」
ガンッ!! 机が宙を舞う。アカネが、隠れていた机を投げ飛ばしたのだ。時間にしてわずか数秒のはずだが、ゆっくりと放物線を描き、五番が身を潜めているソファの真上に落下する。当然、それを避けようと五番もその場から離れようとする――が、それはただの虚仮威しに過ぎない。宙を舞う机に五番が注意を向けた一瞬の間、床を這うようにアカネが素早く距離を詰める。不意を突かれた五番は、それでもすぐに反応して拳を振り下ろしたが、紙一重でそれを躱したアカネのカウンターパンチが鳩尾に入った。
「ガッ……!」
呼吸が止まり、身体を折りたたみ膝を着く五番。アカネはその背後に回ると、後頭部をわしづかみにし床に押し倒した。腕と足を押さえ、背中にのしかかり身動きが取れないようにすると、肩口に顔を寄せ、頸動脈に歯を突き立てた。ごくり、ごくり、と大きく喉を鳴らして五番の血を吸っていく。
勝負あった、と細流は確信した。血を吸われるたびに五番の身体から力が抜けていくのが見て分かった。吸血鬼にとって血はエネルギーであり、魂そのものだ。人間は3割以上の血液を短時間で失うと命の危険があると言われるが、吸血鬼は1割も失えば身体を動かせなくなる。ただしその回復力は、半分以上の血を身体から失っても数滴の涙だけで復活できるほどであるが。
「アカネ、もうそろそろ離しても大丈夫よ」
数分経っても口を離さないアカネに声を掛ける。五番にはこれから聞かないとならない話がいくらでもある。何故アカネを襲ったのか。どうやってアカネの居場所が分かったのか。五番の服は明らかに最近買ったものだと分かる新しいものだった。施設から抜け出してこれまで一人で生きてきたのなら、身なりに気を遣う余裕などナーナクったはずだ。おそらくこの子の背後には、協力者がいる。
細流の呼びかけに対し、アカネは返事をしなかった。
「アカネ? もう離しなさい、それ以上は死んでしまう」
「ちっ、違……、身体が、動かナイ……ッ!」
違和感に気付く。アカネは体勢こそ五番の頸動脈に噛み付いたままだが、既に血は飲んでいなかった。ならばなぜ口を離そうとしないのか、怪訝に思いよく見ると、金縛りに遭ったかのようにアカネの身体が固まっていた。なんとか動かそうとしているようだが、指先がわずかに震えるだけだった。
「くそっ……まさかボクが負けるなんて……」
アカネの下から五番が這い出す。血を飲まれたのは最初の一口二口だけだったようで、疲労感を見せているが身体は動かせるようだった。
「今日は引き下がるが、次は絶対にお前の血をいただくからな」
そう吐き捨てると、五番は窓から飛び出した。
「あ、待ちなさい!」
細流が慌てて追おうとするが、すぐに五番の姿は見失った。後に残されたのは床に這いつくばった状態で身動きの取れなくなったアカネと、散乱した事務室だった。
追跡を諦め、アカネの様子を確かめるが、見た目には何の異常もない。だが細流が動かそうとしても床にぴたりと手足がくっついたかのように、びくともしなかった。
しばらくすると、扉の外から足音が近付いてきた。
「アカネさん、ごめんなさい! 遅くなりました……って、何ですかこれ!?」
駆け込んできたのは旭だった。部屋に足を踏み入れるやいなや、その惨状に目を剥く。
「い、一体なにが……まさか地震!? それとも台風が通ったんですか……あ、アカネさんに細流さん!」
おそるおそる中に入ってきた旭が二人を見つけ、慌てて駆け寄る。
「アカネさん、怪我しているじゃないですか!? こんな、ひどい……ごめんなさい、私が一人にしたばっかりに」
アカネの状況に気が付いた旭の耳には、細流の言葉も入っていなかった。涙を浮かべ、抱きつく。旭の影がアカネを覆う。すると、それまで固まっていたアカネの身体が床から離れ、旭の腕の中に収まった。
「え、あれ、」
「ごめんなさい、アカネさん。本当にごめんなさい……」
「あの、旭さん、痛いです……」
「わわっ、ごめんなさい! 怪我してるのに私、ごめんなさいっ」
旭が慌てて身体を離す。その様子に緊張が緩んだアカネが「ぷっ」と吹き出した。いつの間にか、その目は普段の黒に戻っていた。
「旭さん、さっきから謝りすぎですよ」
「あ、その、電話が途中で切れて、何かあったのかと思ってずっと心配していたんですけど、まさかこんなことになっているとは思わなくて……一体何があったんですか?」
「あの有明さん、説明は後でするから、とりあえず室長に連絡してくれるかしら。アカネの手当もしないといけないし」
「は、はい! すみません、すぐに!」
細流に肩を叩かれ、びくっと跳ねるように旭が立ち上がり、アカネから影が離れる。内線用の電話機は壊れており、仕事用の携帯電話にかけるも話し中だったため、直接走って呼びに行くことになった。
「今度はすぐ戻ってきますから!」
そう言い残して旭は隣の本館まで向かっていた。
待っている間、細流は散乱した什器や事務用品などの中から救急箱を掘り出し、アカネの手当をする。かなりの量の血を流していたが、切られていた足の傷はほとんど塞がっていた。これまで薬で抑えてきたアカネの吸血鬼化が進んでいることの証だった。彼女のように人外になって苦しむ人を減らしたくて、そのためにずっと心血を注いで研究に没頭してきた。その成果が彼女の亡霊を撃ち抜き、アカネの人外化も止められていたはずなのに。でも、もしアカネの吸血鬼化が進まなかったら、今ごろ二人とも無事では済まなかっただろう。この子を守るために、保護者として引き取ったつもりだった。だが彼女の言うとおり、実際は自分が彼女に守られている。もし、このまま吸血鬼化が進み、吸血衝動をおさえられなくなったら、あの人と同じようにアカネは*私を守るために*自らの命を絶とうとするかもしれない。私はまた、どうすれば”彼女”を失わずに済むだろうか。
アパートの部屋に帰り着いたのは日付が変わる五分前だった。
道行享子の「拉致」だけでなく、芹川アカネを狙った人造吸血鬼型グレーゴル実験体による襲撃まで発生し、トクシは混乱に陥っていた。道行さんは無事奪還し、襲撃者も撃退に成功したが、どちらも実行者を取り逃がしており、副室長の七梨さんは上層部への報告や後処理、対策の検討に追われ、まだ新人事務職員でしかない私も現場対応に駆り出されたり、上がってくる報告を資料にまとめたりとこの時間まで残業を余儀なくされた。いや、むしろこの時間でも家に一旦帰れるだけマシな方で、滅茶苦茶になった事務室の復旧が明日以降しか出来ないから今日のところは切り上げたというのが正しい。それでも非番の相談員の人たちが手伝いに来てくれなかったら、朝までかかってもおかしくない仕事量だったけれど。
怪我をした道行さん、アカネさんたちは治療と検査のために今夜は『町』直営の病院に入院することになり、細流さんが二人に付き添っている。
他にも厄介なことはいくつもあるけれど、全部明日の私に任せることにしてデスクに置いてきたので、今日の私は手に提げたビニール袋の中のコンビニ弁当とチューハイで一日を締めさせてもらおう。
2階建ての安アパートにエレベーターなんて代物はあるはずがないのだが、疲れ切った身体には階段を上るだけでも十分堪える。デスクワークばかりで体力が落ちているとは思っていたけれど、せめて休日にウォーキングくらいは始めた方がいいのかもしれない。
「ただいまー……っと」
真っ暗な部屋の中に向かって言う。単身者用のワンルームから返事は無い。鍵とチェーンロックをかけてから靴を脱いで上がる。
トクシに採用が決まったときに紹介された物件だったが、最近リフォームしたばかりのため築年数ほどの古さは感じず、家賃も相場よりかなり安く抑えてもらえたので、とても助かっている。
壁のスイッチを付けると今朝脱ぎ散らかした服や靴下が散乱したままの部屋が照らし出された。テーブルにコンビニ袋を置いてからそれらを広い、洗面所に向かう。洗濯機の中に服を入れ、ついでに今着ているものも脱いで全部放り込んでから、朝7時に洗濯が終わるようタイマーをセットして、シャワーを浴びるため浴室に入った。
風呂とトイレは別だが、かといってそんなに広いわけでもないので、省スペースの収納グッズを色々と探し回ったものだった。浴槽も足を曲げないと入れないくらい小さいので、お湯を溜めるのは時間があってゆっくり湯船に浸かりたいと思ったときだけで、普段はシャワーだけで済ませている。だから浴槽の蓋も大抵折りたたんで隅に置いているのだが。
その蓋が、浴槽の上に広げられていた。
よく見ると床にも濡れた跡が残っている。
「……………………」
昨日もシャワーだけだったから、蓋は畳んだまま触ってすらいない。カビ防止のために浴室の換気扇は付けっぱなしなので、一晩も経てば水滴も乾ききっているはずだ。誰かが、私のいない間にシャワーを使わない限り。
息を殺して、浴槽に近付く。大人一人なら身体を丸めれば隠れられるくらいの大きさ。本当は今すぐ浴室から出て服を着直したかったが、今この浴槽に背を向けたくない。意を決して、蓋に手をかけ、ゆっくり持ち上げて中をのぞき込むと――
「――きゃぁっ!?」
蓋を跳ね飛ばし、中から影が飛び出す。思わず尻餅をついた私に、影がのしかかってくる。咄嗟に身を庇おうと両腕を上げたが、両手首を掴まれ、上にひねり上げられて拘束された。そして影が顔を近付けてきて――
「――なんだ、お前か。遅かったじゃないか」
「誰のせいでこんな時間まで仕事する羽目になったと思ってるのよ、月」
腕から手を離し、お腹の上から影――もとい月が降りる。年の頃はアカネさんと変わらない、中性的な顔立ち。唇のすき間から覗く尖った犬歯。昼間、アカネさんに殴られたときに口の端を切ったのか、傷痕が赤く残っていた。
吸血鬼型人造グレーゴル開発計画実験体ナンバー5――五番とアカネさんに呼ばれていた少女が、全裸で私を見下ろしていた。ちなみに「月」とは私が付けた名前だ。有明月。朝に残された夜の象徴。
「今日実行に移すことは前から計画していただろう?」
「でも結局失敗したから、こっちが後処理しなくちゃいけなくなったんでしょ? なのに急に襲ってくるなんてひどいじゃない」
「お前が帰ってきた音で目が覚めたから、寝ぼけていたんだよ」
「こんなところで? 服も着ないで、風邪引くわよ」
「血の匂いでここを嗅ぎ当てられるわけにはいかないから、途中の川で身体を洗ったんだ。服はそこで捨てた。ただそのせいで帰りは全身に直接日の光を浴びることになってしまったから、しばらく暗闇の中で身体を冷やしていたんだ」
確かに、よく見てみると全身が日焼けしたように赤くなっていた。月の身体は完全な吸血鬼ではないとはいえ、日光にしばらく当たるだけで火傷を負ってしまう。
「はぁ、わかったわ。上がったら薬塗ってあげる。シャワーはちゃんと浴びたの?」
「水を浴びただけで痛くてたまらない」
「じゃあ背中流してあげるからこっちおいで」
「髪もやって」
「はいはい」
月を椅子に座らせ、膝立ちになって背後に回る。手の平にボディーソープを出し、なるべく摩擦が減るよう、よく泡立てる。首筋には二つの小さな穴が残っていた。アカネさんに血を吸われた跡だ。他の傷はおおむね治癒しているのに、ここだけがまだ痛々しい。
「っとそうだ。洗ってもらう前に」
背中に触れようとしたのと同じタイミングで振り返ってこちらをじっと見つめてきた。その瞳が意図するところを察して、上げていた腰を下ろし、やや前かがみになって彼女に首を差し出す。気分は斬首を受け入れる死刑囚というより、命を捧げる生け贄に近い。
「コンビニでプリン買ってきてあるよ」
「それも食べる。でもその前に、さすがに今日は血を流しすぎたから」
お互いを抱きしめ合うように、身体を密着させる。冷たい肌と対照的な熱い吐息が首筋にかかってこそばゆい。
注射を打つ前のアルコール消毒のように舌が何往復かする。曰く、消毒というよりむしろ痛みを麻痺させるためのものだそうだ。まるで蚊みたいね、と言ったら機嫌を損ねてしまったことがある。
「ふっ……ん……」
そして、二本の牙が皮膚を突き刺し、血管を破る。一瞬の痛みは彼女の唾液と混ざってすぐに快感へと置き換わる。滲み出る血を懸命に舐め取り、吸い付く姿はまるで赤ん坊のようで、「血を吸われている」という本当なら恐ろしい状況であるはずなのに、この子を守らなければ、という気持ちがいつも湧いてくるのだ。もしかしたらこれが吸血鬼の「魅了」という力の影響なのかもしれないが。
だとすると今日、アカネを襲撃するために電話で彼女の気を引いていた時、うっかり「ごめんなさい」と漏らしてしまったり、五番に傷付けられた彼女を見て罪悪感で胸がつぶれそうになったりしたのは、実は彼女にも知らないうちに「魅了」をかけられてしまっていたのだろうか……なんて。
芹川細流じゃあるまいし。