学校からの帰り道、夕日がアスファルトを焼き付けている。
頭上から降り注ぐ昼間の日差しも辛いが、夕方になってもほとんど弱まらないのに傾くことで顔を直接狙ってくるこの時間は特に苦手だった。
駅までの道中、なるべく日陰を選んで歩く。
早く帰りたいと思いながらもその前に、寄るところがあった。
他の生徒も大勢歩く駅への最短ルートを外れ、目的地に足を向ける。
用事があるわけではない。ただ一種の運試しというか、賭けのようなものだ。勝率は三割くらい。高いのか低いのかなんとも言えないけれど、最近になって傾向が掴めてきて成績が改善されてきたので、感覚的には五分五分くらい。
今日もこの時間ならきっといるはず――ほら、やっぱり。
目的地――スーパーからレースのついた白い日傘が出てくる。夕日を反射して今は赤く見えるそれが、ふらふらと誘うように揺れながら歩いて行く。私はそれを小走りで追いかけて――そのまま一度、追い越した。
確信はあった。けれど、確認ができるまでは声をかけない。こっちは万が一のことを考えて慎重に行動しているつもりだけれど、こらえ性のないその人は気付いたら反応を隠せない。
「ぁ……」
呼び声にも満たないそれを、
私の耳は聞き逃すはずもなく。
「あれ、――さん。奇遇ですね。お買い物ですか?」
奇遇でも偶然でもないことくらいお互いに分かりきっているなら、果たして誰に対しての誤魔化しなのだろうか。
左手に日傘、右手に買い物袋を提げたその女性は目の前に現われたのが私だと分かると、大股で二歩分、距離を縮めてくる。
「ええ、あなたも今帰り?」
「そうです。ちょうどよかった、私も傘入れてくださいよ。西日がきつくて日焼けしそうで」
返事は待たず、傘の中に入り込む。少し身動ぎするだけで腕が触れ合うギリギリの距離に、彼女がの肩が緊張で強ばる。
「ちょ、ちょっと、狭いんだから、自分のを使えばいいでしょ?」
「今日は持ってくるの忘れてきてしまいまして。ねえ、途中まででいいですから」
「もう……しょうがないわね」
世間体を取り繕うためだけの拒みを見せて、でもすぐに相合い傘を受け入れる。周りの目を気にして変に距離を取るより、堂々と振る舞った方が他人というのは案外気にしていないということを、彼女も最近学んだようだ。
「今日は何を買ったんですか?」
「豚肉とキャベツよ。暑いから今夜は冷しゃぶにしようと思って。あなたは今晩どうするの?」
「私は最近ずっと素麺ばかりですよ。お中元でもらったのがまだまだたくさんあって。さすがにもう飽きてきました」
「ずっと同じのが続くと仕方ないわよね。大葉とか梅干しを入れたり、野菜と混ぜてぶっかけそうめんにしてみたら? 栄養のバランスも取れていいわよ」
「私がそんな料理作ると思います?」
素麺を茹でるだけでも偉いと思うんですけど、と唇を尖らせてみせると、それは確かにそうかもね、と同意が返ってくる。親譲りの生活力の無さは、彼女もよく知るところだ。
こういう年相応の振る舞いを見せると、彼女の肩の力が少し抜けるのが分かる。自分の娘と話しているのに近い気分になるからだと、いつだったか本人が言っていた。そういう時に限って、うかつな大人は口を滑らせる。
「だったらまた料理を教えてあげるから、うちにいらっしゃいよ。ちょうど今度の土曜なら夜まで誰もいないから」
「土曜なのに、一人なんですか?」
「夫は前の日から出張に行っているし、娘も部活の練習試合があるとかで朝から県外まで遠征なのよ」
「へえ。じゃあ、またふたりきりで教えていただけるんですね」
「ええ、そう……ね」
日焼けとは異なる火照りが、彼女の頬をさっと朱に染める。自分がいま何を「お誘い」しているのか、ようやく気が付いたみたいだ。あえてそこには触れず、あくまでただ家に遊びに行く体を崩さないように続ける。
「じゃあ、お昼前にお邪魔するので、一緒にお昼ご飯作りましょうよ。せっかくですし、さっき言ってたぶっかけそうめん? って言うの教えてください」
「え、ええ。いいわよ」
目の前に交差点が近付いてくる。ここを越えると、分かれ道だ。私は駅のある左に、彼女は自宅へ真っ直ぐ。
わずか十分足らずのお喋り。それだけでもこの約束していない偶然の逢瀬が、私は好きだった。スマホの小さい画面に文字だけのやり取りでは感じられないこの声を、呼吸を、体温を。ひとりじめできるこの時間が。
いつもならそれで満足して別れるのだけれど、今日は久し振りの「約束」を取り付けることができた。そのせいか自分でも意外なほどにテンションが上がってしまっていたみたいで。
赤信号で立ち止まった彼女の腕を引っ張り、ビルの陰にある脇道に連れ込む。驚いて声を上げようとする彼女の口を、自分のそれで遮る。日傘と買い物袋で塞がった彼女の両手は抵抗できず、されるがまま受け入れる。
「はっ……んぅっ」
しょっぱいのは汗の味。黄昏に沈む陽よりも赤い彼女の舌を絡め取り、蹂躙する。夕陽も呼吸も体温も、暑くて熱くてクラクラしそうだ。
たっぷり一分くらいキスを堪能してから唇を離すと、彼女の目はまだとろんと蕩けたままだった。相合い傘よりよっぽど今の方が抵抗すべきだということに気付かないこの人が、自分より二回りも年上だという事実が時々信じられなくなる。
「急に、やめてよこんな街中で……」
なんとか「大人」の威厳を保とうとそうたしなめるけれど、もじもじと擦り合わされているジーンズの膝は、もっと欲しいとねだっている。素直な下半身にあえて気付かない振りをして、事もなげに答える。
「大丈夫ですよ、ちゃんと傘で隠してましたから」
そうで無くとも西日が眩しくて、誰も周りのことなんて見ていない。夜より日没の方が、人目にはつきにくかったりする。
「信号、変わりましたね。行きましょうか」
「あっ……」
「どうかしましたか?」
素知らぬ顔で振り返る。まだ火照りが収まらない彼女は、察して欲しいと言わんばかりに口ごもることしか出来ない。
「いえ、あの、えっと……」
「土曜日、楽しみにしてますね」
それまではお預けですと、言外に込めて。
交差点を渡り終えて別れ、相手の姿が見えなくなるのを確認してから、鞄を開ける。中から取りだしたのは折りたたみの日傘。広げて、夕陽から顔を隠す。
「ずるい」とあの人は言うだろうか。――いいや、彼女だって私がいつも折りたたみ傘を鞄に入れっぱなしにしていることくらい知っている。それを忘れている振りをしていたのだから、今回はお互い様だ。
それとも、そう言い逃れの出来ない状況に自身が追い込まれるのを、望んでいるのかもしれない。あの、ベッドの上では責められたがりの年上の人妻は。