マリエルは昔から絵を描くのが好きだった。母も友人も先生も皆、彼女の絵を褒めた。いつしかマリエルは自分の絵をもっと色んな人に見てもらいたいと思った。十八歳になったマリエルは父の反対を押し切って、憧れの画家・アーヴィンのいる街へと向かった。未知の世界に飛び込んだという期待と不安で胸がいっぱいになりながら、街についたその日にアーヴィンの住む家を訪れた。
アーヴィンは世界でも有名な画家で、それを表すかのように彼の家は立派だった。よく手入れされた庭を抜け、洋館の前まで来ると震える手でドアノックハンドルを叩いた。扉が開き、現れたのはこの家の執事らしい老紳士だった。マリエルは緊張で頭が真っ白になりながらも、なんとか言葉を発した。
「あ、あの、アーヴィンさんに会いたいんですけど……」
「なるほど」と老執事はゆっくりとうなずき、「どういったご用件ですかな」
「私、アーヴィンさんの絵が好きなんです! だから、弟子にしてもらいたくって来ました」
声を上ずらせながら宣言したマリエルを、老執事は自分の孫を見るような目で見つめ、
「どうぞ、お入りなさい」
と、扉を大きく開いてマリエルを迎えた。
客間に通されたマリエルはふかふかのソファに座り、老執事が淹れた紅茶を飲んでいた。温かいものを飲んだおかげか、少しだけ緊張がほぐれた気がした。猫舌のマリエルが熱々の紅茶を飲み切って、手持ち無沙汰になったころに彼はやってきた。
白髪混じりの黒髪に伸び切った髭。目の下にはいかにも不健康そうな隈ができていた。アーヴィンが「ああ」と眠たげに声を発したのをきっかけにマリエルは跳ねるようにソファから立ち上がった。
「初めまして! 私、マリエルといってアーヴィンさんの弟子にさせていただきたく——」
「いっぺんに言うな」
「ああ、すみません!」
勢いよく頭を下げたマリエルを一瞥し、アーヴィンは向かいのソファにどっかりと腰を下ろして言った。
「俺の弟子になりたいんだって?」
「はい!」
マリエルの返事にはやる気がみなぎっていた。アーヴィンは一瞬困ったように眉を下げ、わしわしと後頭部をかいた。
「俺じゃなくても他に画家はいるだろう」
「それはそうですけど、私はアーヴィンさんがいいんです!」
マリエルはそう言ってからはっとなった。少し幼稚な物言いだっただろうか。何も言わないアーヴィンに不安になりながらも、マリエルはじっと彼の目を見つめた。
先に根負けしたのはアーヴィンのほうだった。
「……わかった。そこまで言われて追い返すのもなんだ」
「それじゃあ……!」
瞳を輝かせたマリエルにアーヴィンは待ったをかけた。
「ただし条件付きだ。絵を描いて持ってくること。期限は一週間。題材は何でもいい。それで君を弟子にするか考える」
これはテストだ、とマリエルは思った。改めて自分がいま対峙しているのはあのアーヴィンなのだという緊張が走った。きっと一筋縄ではいかないだろう。だが、まぎれもないチャンスだった。
「わかりました。それじゃあ、また一週間後に」
それからのマリエルは寝食も忘れてキャンバスの前にすがりついた。来る日も来る日もキャンバスに向かい、目を閉じた。そうすると頭の中にイメージが浮かぶ。どこかで見たような田園風景から、この世に存在しない空想上の生き物まで色々だった。
何度もこれでいいのだろうかと思った。しかし、ここにはかつてのようにマリエルの絵を褒めてくれる母も友人もいない。それは孤独な闘いだった。初めて絵を描くことが苦痛に思えた。絵を描く目的を見失いそうになる度にマリエルはかつて自分の絵を見て笑顔になった人たちのことを思い出した。
田舎の小さな村からやってきたという少女が来てから今日で一週間だ。アーヴィンは紅茶をすすりながら、つまらなさそうに新聞をぺらぺらとめくった。そこへノックの音が聞こえた。思わず腰を浮かせかけたが、応対は執事に任せることにした。
「アーヴィン様、マリエル様がお越しになりました」
執事と一緒に部屋に入ってきた少女はどこか頼りなげに見えた。それは少し痩せたからだとアーヴィンは遅れて気づく。
「絵はできたのかな」
「は、はい! できました!」
少女の目は異様なまでに爛々と輝いていた。執事がマリエルのキャンパスを用意し、かかっていた布を取り払った。
「これは……」
絵を見たアーヴィンはそれきり言葉を紡がなかった。幼いマリエルにとってはそれがいいのか悪いのか判断がつかず、心臓が張り裂けそうな思いでアーヴィンの言葉を待った。
「ダメだ」
彼が口にしたのはマリエルが受けたことのない批判の言葉だった。レンガで頭を殴られたような衝撃に今度はマリエルが黙り、アーヴィンはつらつらと話し出した。
「まず何が描いてあるのかがわからない。筆に迷いがあるし、色彩センスもよくない。だが——」
「わかりました!」気づけばマリエルは声を張り上げていた。「もう、わかりましたから……」
最初の一言でマリエルの心はずたぼろだった。この上、まだひどいことを言われるのだと思うと悔しさや恥ずかしさで涙が溢れそうになった。そしてこうも思った。わざわざテストを出したのは、夢見がちな田舎娘を嘲笑うためなのだと。
「私、もう帰ります……」
荷物を持って、席を立ったマリエルはできるだけ早足に扉に向かおうとした。それを阻むように執事が立ち塞がり、ゆるく首を振ってからアーヴィンに向かって「アーヴィン様」と呼びかけた。その声は低く落ち着いていて、どこか諭すような響きがあった。
アーヴィンは深く溜息を吐くと、「まだ話の途中だった」と口を尖らせて言った。
「でも私の絵、ダメだったんですよね?」
荷物を手に振り向いたマリエルが心ここにあらずといった感じで聞いた。
「ダメな部分もある。だが……いい部分もあった」
アーヴィンは困ったように頭をかいた。どうやって言葉にしようか迷っているようでもあった。
「アーヴィン様は少々難儀な方ですからな。それで今までに何人の女性を泣かせたことか……」
「その話はいい」アーヴィンは執事が余計なことを口走る前に話を中断させてから、「それでどうする? 君は難儀な画家の弟子になる覚悟がある?」
マリエルは目に溜まった涙を拭い、それから大きく頷いた。