極東の四季の中で、私は秋が一番好きなんです。そう言われた時、外勤明けで疲労困憊だったことも相まって何と返事をしたかは覚えていないが、今現在、極東では長月と呼ばれる秋のさしかかり。茂った緑が黄色に染まり、赤に燃え、風に吹かれてはその身を飛ばす季節に極東へ旅行というかたちで訪れているのだから、きっと良い返事をしたのだろう。
ホシグマの勧めで泊まることになった旅館。古き良きを体現した荘厳な佇まいと手をかけたことが分かる庭園の美しいこと。龍門では見られないものばかりが新鮮で、子供のようにきょろきょろと落ち着かなくなってしまう。温泉というのも初めてだったし、五味を重んじる料理の数々は雑に胃に含めてはいけないようなものばかり。合わせがどうとか、帯紐がどうとかいう浴衣は手に余り、ホシグマに全て任せてこの歳になって着替えを手伝ってもらうという少しばかり照れくさい経験もした。清酒という米を原料にした澄んだ色の酒には馴染みはなかったが、私の好みを徹底的に把握されていては勧められるがままに猪口を傾けてしまう。スッキリとした飲み口と喉を焼く鋭さが心地良い。──良い休暇だ──ほんのりと思考と足が浮き始めた頃、一緒に飲んでいたくせに顔色一つ、声音一つ変えないホシグマから「もう寝ましょうか」と制止が入る。「まだ飲めるぞ」と眉間にシワを寄せてみても、「その顔は見慣れてます」と手を引かれて布団まで連れて行かれた。
ご丁寧に二つぴったりと寄り添うように敷かれた布団の一つに二人で体を滑り込ませ、仕事をさせてもらえない布団は冷たいまま夜が更けていく。向かい合っていた体勢をころりと変えられて、腹に回された手に引き寄せられればいつもと同じ寝姿だ。落ち着くとばかりに首筋に顔を埋められ、くすぐったい息を感じながら目を閉じる。心もとない布一枚を隔てた熱い体温は、酒の回りと共に眠気を運ぶ。──休暇ですから──ああ、まったくもって良い恋人に選ばれたものだ。
*
目が覚める。酔いも醒めている。いつものようにホシグマに抱きしめられていても慣れない布団のせいか、ふとした拍子に意識が浮上してしまった。首筋に感じる息はいまだ規則正しく、身じろぎをして元々睡眠が浅い彼女の眠りを妨げるのは気が引けた。
「…………」
時間を持て余す、というのは久方ぶりで、手持ち無沙汰で空間に宙ぶらりんになる感覚はなんとも居心地が悪い。ましてや、初めての場所だから尚更だ。明日も彼女との予定が入っている。余程楽しみなのだろう。「連れて行きたい場所があるんです」と珍しくそわそわと落ち着かない様子を見せたホシグマを「時間はあるんだろう」と嗜めたのも記憶に新しい。目を閉じていればいずれは眠れるだろうか。何もしないよりはマシだろう、とゆっくりと瞼を下ろす。背後のホシグマの呼吸に合わせて体の力を抜いていると──、
「もし……」
声がした。
反射的に目を開ける。視線だけを彷徨わせて声の方を探れば、中庭へ続く襖の向こう側。縁側となる場所にゆらりと影が佇んでいた。
──こんな時間に?
「もし……そこな方。いらっしゃいますか……」
声音は女性。妙齢と言って差し支えないだろう。女将にしてはこの時間に訪ねてくるのは緊急時でもあるまいに、非常識だ。
「もし……そこな方……」
揺れる影。開けるのを待つように襖の奥を右から左へ。左から右へ。あまりにも不審な動きに、思わず眉を顰める。
──誰だ、と声を上げようとした時、背中にくっついていたホシグマに口を塞がれた。
「応えてはいけません」
言葉の意味を図りかねていた私は、しー、と内緒話でもするように耳元で囁く声は場違いにもドキリとさせた。
「声も出さないでください」
だが浮かれる私を一喝するような真剣な声音は、威嚇するようなものへと変わり、それに比例して口を押さえていた手にも力が込められていく。起きていたのか、苦しいから離せ、と言いたいところだが戦場でよく聞く声を聞いてしまえば何も言えなくなってしまった。そして意味を考える。答えてはいけない、応えてはいけない。──何に?──影に。
喉が引き攣った小さい音を鳴らす。
「っ、」
「……よく我慢しましたね」
理解した。理解してしまった。
過去、それこそホシグマから聞いた話。その類のものは招かれなければ中へ入れない。応えてしまえば飲まれてしまう。
──まさか、相見えることになろうとは。
狙っていた私が気づいたからか、影はぐにゃりと輪郭を歪めその様相はたしかに人外のそれだった。壊れた機械のように繰り返される文言は耳障りな重低音から劈くような金切り声までを上下して直接的な害を与えようと試みる。──どうすれば良い。勝手が分からない。妖の類など初めてだ。力ずくの剣で切り伏せて済むものではない。順序を守らなければ詰む相手なんて。
「チェン」
「……!」
「目、閉じてください。声も我慢してくださいね」
焦り始める私とは裏腹に、先ほどよりも幾分柔らかくなった声のホシグマは言い聞かせるように私に告げると、するりと音もなく布団から立ち上がった。何をする気だとも言えなくて、離れていった彼女の手の代わりに自分の手で押さえていた口から間抜けな空気が漏れる。
枕元から、かちゃ、と小さい金属音。私の剣よりも繊細なその音は彼女が持参した刀。古来より妖を斬って祓ったとされるものだ。こんなこともあろうかと、なんてことがないように祈っていたのにこの様。備えあればというのも極東の言い回しである。畳を擦る足音が移動して、私の前へ。見慣れた背中を向けているのだろう。そう思ってほんの少し安心した瞬間、ドンッと床を踏み締める音と衝撃。驚いて目を開けそうになるも背中を丸めて力技で事なきを得る。再び衝撃。等間隔で踏み鳴らされるそれはきっと意味のある事なのだろう。
鯉口を切る。抜いた──鞘が落ちる──とん、と畳を鳴らし、そして。
『』
名状し難い叫び声。鼓膜を突き破りそうなほどの悲鳴。慟哭にも聞こえるその声は、数秒続いたのちに霧散するように消えた。
「もう目を開けて良いですよ」
恐る恐る瞼を上げれば、ちょうどパチンと納刀した瞬間のホシグマと目が合った。大きな月を背負い立つ鬼は、黄金の瞳に私を映し、やがて困ったように眉根を下げる。
「たぶん連れてきちゃったんでしょうね」
「……連れて来た?」
「憑かれやすいと、前に言ったことがあったでしょう。憑かれやすいし、好かれやすいんですよ。今のも迷子になってた時に私を見つけてついてきたっぽくて」
「じゃあ、なんだ。そこな方、って」
「おそらく私でしょうね」
「…………」
勘違いだったかという変な恥ずかしさと、勘違いで良かったという少しの安堵と、またお前は変なものに好かれてとちょっとどころではない嫉妬心が芽生える。
「さぞモテたんだろうな、お前」
「嬉しくないですよ」
「否定しないのか」
「事実ですし」
「龍門スラング」
「えっ? あっ、まさか嫉妬してます!?」
「うるさい。もう寝る」
おおよそ夜中に出してはいけない声量で私の肩を揺さぶり始めるホシグマの手を尻尾で払って布団を口元まで引っ張り、布に埋もれるように背を向ける。
「素直じゃないですね」
「お前は冷たい方で寝ろ」
「そんな……」
──それでもせっかくの休暇で旅行なのだから。
半分以上占拠した布団の中で、彼女の分のスペースを空けておいてあるのをいつ気がつくだろうか。
おしまい。
お疲れ様でした