Echoへの道程を歩いていると目の前から、ちゃっちゃ、ほっほ、と見慣れた人が走ってくるのが見えた。
「あら」
「お疲れ様です、佐伯先輩」
私の声かけとも呼べないそれに応じるように、小糸さんは速度を緩めて立ち止まる。ラフな格好にスニーカーと、如何にもランニングの途中といった格好だ。
だけどそれよりも……とばかりに彼女の足元へと視線を向ける。
「小糸さん、犬飼ってたの?」
それに答えるように、小糸さんがリードを持った茶白の柴犬は、へっへと荒い息を零していた。
私の当然の疑問に、小糸さんは苦笑を漏らす。
「いえ、友達ん家の犬ですよ」
「ふぅん。どうしてあなたが?」
「部活の大会があるらしくって。それでご両親も観戦に行くってだから、わたしが今日一日預かることになったんです」
「そういうことね」
流石にこの時期だと高体連とかでどこの部活も忙しいものね。
それにしても、他所の家の犬を預かるなんて、小糸さんは本当に人がいい。ちょっと憎たらしいくらいだ。
「はい。佐伯先輩はどちらに?」
「散歩がてら、Echoに行こうとかとね」
「そうだったんですか」
小糸さんにはそれで通じる。小糸さんもあの喫茶店を気に入ってるらしく、お店で顔を見ることもちょくちょくあった。
とはいえ、相席することはそんなにない。お互いに一人で楽しみに来たのだし、それに小糸さんの場合は燈子とか叶さんとかと連れ合ってることが多い。
……なにより私は、この子のことをまだ完全には折り合い付けれていないのだから。
と、私たちが話し込んだことで退屈したのか、柴犬が私の足元にすり寄ってじゃれ付いてきた。
初対面のはずなのに、あまりの人懐こさに私の方が戸惑ってしまう。
「えぇっと」
「苦手じゃなければ撫でてあげてください」
困惑して、どうすればいいのか小糸さんに視線で訊ねると、彼女はそう言って促した。
再び柴犬に視線を落とす。まん丸とした瞳は、きらきらと期待するような目で私を見上げていた。
恐る恐る柴犬の頭に手を伸ばすと、吠えられることも噛み付かれることもなく、大人しく触れることができた。そのまま撫でてみると、気持ちよさそうに目を細めて尻尾を振り始めた。
最初は勝手が分からなかったけど、こうなれば私も安心したもので、次第に猫と同じように撫で回すようになった。段々興が乗ってきたので屈んで本格的に構ってやると、柴犬も寝転がって腹を見せる。本当に人懐こい子だ。
「佐伯先輩は犬飼ってないんですか?」
と、頭上から小糸さんが言葉を投げかけてくる。
「そうね。猫なら二匹いるけど」
「猫かぁ」
「なんで残念そうなの」
「佐伯先輩、ドーベルマンとか飼ってそうだなぁって。番犬みたいな」
「なにその期待は」
「いやほら佐伯先輩なんで」
……そろそろいい加減に、この子の私に対する認識を改めさせた方がいいのかもしれない。
「あなたの中で私ってどうなってるわけ?」
「お金持ちのお嬢様」
「あのねぇ」
「そういえば猫は血統書とか付いてるんですか?」
「付いてないわよ普通の猫よ」
「そうなんですか。うーん、でも猫もいいですねぇ」
正直まだまだ問い詰めたかったのだけれど、折角逸れた話題を掘り返すデメリットと天秤にかけた私は、小糸さんの振った話に乗ることを選んだ。
「猫、いいわよ。なんて言うか……気ままなのがいいのよ。触りたくても触らせてくれないなんてこともあったり、その気じゃないのに膝の上に乗ってきたりとか」
だからこそ、この柴犬の無防備さに戸惑ってしまったのだけれど。犬と猫ではこんなにも違うのだろうか。それともこの柴犬が特別人懐こいのか。
「そういう話聞くとペット飼いたくなるから止めてくださいよ」
同じようなことを燈子も言ってたわね。その割に燈子の方から猫の話を振ってくるのだけど。
「小糸さんは特になにも飼ってないの?」
「ですね。小さい頃はカブトムシとか毎年飼ってましたけど」
その言葉に小糸さんに視線を向け、想像してみる。
「容易に想像できるわね」
「……なんか馬鹿にしてません?」
流石、そういうのは分かるみたいね。
「ところで小糸さんはどっち派?」
「佐伯先輩?」
「犬派? 猫派?」
「……犬派ですけど」
諦めたのか、溜め息を吐いてから小糸さんはそう答える。
さっきの分をやり返せた私は満足して、ふっと小さく笑った。
「なんとなくそんな感じするわ」
「どんな感じですか、それ」
まぁ友達から預かった犬と散歩してるくらいだし。
「佐伯先輩は……まぁ話を聞いてる感じ猫派ですよね」
「まぁね。燈子もだけど」
ちくりと、悪戯心というにはやや棘のある言い方をしてしまったけれど、小糸さんは特に気に留めた様子もなく苦笑いを浮かべた。
「でも嫌われてるみたいですね、猫に」
「ウチに来た時も、逃げられたり無視されたりしてたわ」
燈子は猫みたいなのに猫に嫌われるなんて、とおかしく思ったのを覚えている。いや、猫だから猫に嫌われるのだろうか?
……あの思い出は、なおも私の記憶の中で輝いている。
同じ輝きをもう得られなくとも。いずれその輝きが薄れていくとしても。
今の私にとっては、そうなのだ。
そんな私の言葉を聞いて、小糸さんは笑いながら言った。
「猫好きなのに本人犬っぽいですしね」
――犬っぽい?
「……え?」
「え?」
振り返ると、小糸さんもきょとんと見返していた。
犬っぽい? 燈子が?
「……あなたにはそう見えるのね」
私の知る燈子とはまるで違うイメージに、私は一人呟いた。
……私にとって、燈子は猫だ。
気ままで人の足元に擦り寄る猫――なのにこちらから触ろうとしたらするりと手を擦り抜け逃げ出す猫。警戒心の強い、美しく気高い黒猫――
目を瞑る。
彼女の語るイメージは、私の知る燈子とは違う。少し考えてみても上手く想像し切れなかった。
――それでもやっぱり、私が好きな燈子であることには変わらなかった。
厄介だなぁ、と自嘲する。もう届かないと分かっているのに。
「佐伯先輩?」
小糸さんの呼びかけに吐息を零し、私は立ち上がる。
「なに?」
「……いえ。そう言えばEchoに行くんでしたね」
小糸さんは困ったように笑う。
具体的なことは分からないだろうに、きっとなんの沈黙だったのか察したのだろう。本当に聡い子だ。そういうところは好ましく、また小憎らしい。いっそ憎み切れれば楽なのに、そうさせてくれないのだから。
……燈子と違って、私は未だこの子との距離感を見つけられないでいる。
「えぇ。こっちこそ散歩を邪魔しちゃったわね」
「この子も喜んでるのでそれは全然。それじゃあ先輩、また」
「えぇ、また」
そう言って走っていく彼女を見送り、私も踵を返す。
……Echoに行こう。
最初の目的と変わってしまったけれど、都さんに話を聞いてもらおう。
彼女との――この鈍い痛みとの付き合い方を。