コッペリアの背中の刺創の手当を終え、彼女の縫合痕が一直線に刻まれた白い背中がゆっくりと持ち上がった。まだ麻酔が完全に抜けきっていないとろりとした視線を執刀医に向けられる。いつもならばこういった怪我の治療であっても執刀するときには必ず手術着を纏う男は、此度だけは外から訪れた時そのままの服で器具を使用済みのトレイにあらかた入れ、その作業が終わったところで初めてコッペリアの方を向いた。
「まだ寝ていろ」
「いや。バイクのメンテナンス、したいの」
「だが刺創は深かった。下手をすれば脊髄に及ぶぞ」
「待ってるじかん、あると思う?」
「……もう三十分待て」
認めたくなかったが、多少の無茶も認めざるを得ない今の状況では妥協で手を打つ他なかった。サラマンダーのことであるから、コッペリアのことも標的のうちに入っている。あまりに休ませ続けてたり自分と行動を共にさせたらどうなるかは目に見えていた。そしてそれは人の死を忌避するルドラにとってはあまりに避けたい状況である。苦虫を噛み潰したような顔のまま近くの踏み台に座ったルドラを見て、やはりコッペリアはまだ表情筋に力が入っていないながらも曇った様子を見せる。
「だいじょうぶ?」
「……少し休む。回復したら、早くメンテナンスなりなんなり行け。私も落ち着き次第すぐに動く」
頭を働かせすぎたし、体も相当に動かした。首からの出血はいい加減包帯全部が真っ赤になるくらいだったし、コッペリアが手術を受けたことで休憩するように、ルドラも治療という行為に便乗して休憩したかった。彼女が向ける心配の色を含んだ視線に、医神はいかにも迷惑ですと言いたげな顔をする。
「そんな顔をするな」
「……本当に、もどってこれる?」
「私は死なない。あんな男に殺されてたまるか」
自信ではない。もはや宣誓じみたものである。これほどのつもりでいないと、サラマンダーを対策することは難しい話であった。ある程度は引いたものの、未だに全身をほのかに支配する打撲の痛みと首の太い血管を少し掠めた傷の痛みが眠ろうにも眠れない最悪の塩梅で疼いていた。スローモーションで立ち上がり、包帯を取りに歩くルドラの歩き姿の心許なさに、いよいよコッペリアは台から降りて一歩近づいた。
「ねぇ」
「なんだ」
「やっぱりもう少し休んだ方が」
「三十分」
視線は時計。経ったぞ、と言わず、出ていけ、とも言わない。ただ、無常に妥協のタイムリミットを告げる。服を入れていた籠を黙って差し出したあたりで、コッペリアはいよいよルドラの|強情ずるさかあるいは女心のわかってなさに呆れて静かに受け入れた。衣擦れの音と、包帯を解く音が重なる。ルドラからこぼれる息のストライドは長く、痛みに耐えていることなど火を見るより明らかであった。しかしルドラがコッペリアの頑固さを把握できているようにコッペリアもまたルドラの頑固さをある程度理解している以上、これより先に言葉を切りこんでやることはやめにした。
「……抜糸、して頂戴ね。先生以外がやると変に痕が残っちゃうの」
「当たり前だ。常連患者の傷の一つも見届けられない医者がいてたまるものか」
彼女の健康的な肉付きの下にある多くの傷跡を思い出したくなくて、部屋を出る彼女のことは見なかった。それは彼女だからとかそういう話ではない。単に、脳のリソースをそこに割きたくなかったのだ。ただ自分の頭に残っているエネルギーを別のところに回したくて、休む。ボストンバッグからペットボトルの水を一口、唇を濡らす程度に飲んで、力んでいた体の重心を壁に委ねることにした。
ルドラは考える。考える。そのつもりがなくとも、彼は思考を続ける。止めることは出来ず、また止めることをどこか恐れている。それは常からの癖であり、故に今回はむしろ脱力している方であるとさえ思うほどだった。
黒いジャケットの中で何かが振動するくぐもった音が聞こえる。それに反応した彼はぱちりと目を開けて、中に入っている社用携帯の形を確かめた。少し警戒しながらも裏返せば、【199】からの中間報告だとわかる。あの全盲の女が放つ異様な雰囲気は見慣れるものではなく、ルドラからすればこういった事務的な連絡と手当の時でなければ自身から接触することはない人物の一人だ。だからまたすぐに端末を落とすつもりでそれを起動させた。音声ファイルが自動で再生される。イヤホンを繋いでまた目を閉じた。
『皆さま、ごきげんよう!【199】でございますわ。大変な混戦状態かとは存じますが……』
ルドラには。この女の言う『愛』がいまいち理解できないままでいた。ルドラには、わからない。愛する心の美しさがわからない。花嫁の装いをしたこの女は、その愛がために4010の中でも悪党番の加害対策に割り当てられるらしいのだが、果たして自分がその『愛』を理解できるかはわからない。だから、ルドラは彼女の報告の大半をせいぜいが耳から得る情報を少しでも制限するためのものとして聞き流していた。の、だが。
『新しいお友達をご紹介いたしますわ』
その一言から嫌な予兆を感じ、その伏せていた瞼を持ち上げる。瞼と睫毛で視界はまだほとんど埋まっていた。そして、彼女が告げた英雄共の登場に、やはりかと小さく舌を打った。
ルドラは拡正義を嫌う。その正義の在り方を嫌う。そも、彼の中で人が死ぬことこそ問題であれどその原因などはほとんど問わぬ、そういった倫理観を持ち合わせていた。だから、ルドラの目に拡正義とは死にゆく人々を見送りながらもふざけた鬼ごっこに費やす連中程度にしか映らなかった。
「……スケープゴート」
それは、正義から見た我々がそうなのか。それとも、我々から見た正義がそうなのか。わからない。考えるべきものではない。199の目的はこれに対して考えることではない。ただ愚直に正義から逃げろということだ。
しかしルドラは考える。それは、最早一つの破壊となったサラマンダーが拡正義などという青臭い連中を前に止まり、逃げるだろうかということである。そしてその問いについてはすぐに否、と答えが出た。
「あと、十分」
わかる。きっと、サラマンダーは中間報告を見て、間もなくそれを無視する。そしてこちらに来る。サラマンダーに追われていた折に目指していた事務所からはもう一つ先の事務所であるここは、片割れの車体がバーストした場所からかなり過ぎる。しかし、これほどまでの時間が経てば追いつくのは目に見えていた。おそらく、一つか二つ、事務所を潰してから。
「……さて」
用意を始める。といっても、それは簡単な話だった。手術室の扉を開きっぱなしになるように調整して。先ほどまでコッペリアが乗っていたベッドを所定の位置――そう、すぐに部屋の外に出せるような位置に動かす。メスも何本か鞄の中に仕舞えばもっといいところであった。
そして、あらかた準備を終えて息をついた頃。やはり予想していた通り『彼』はやってきた。
フリースは暑くて脱いだのだろう。最早シャツに柄があったとはわからないほど赤く染まっていて、眼鏡の代わりに顔の下半分にはガスマスクがあった。
「……サラマンダー」
その片割れは何も言わず、ただ静かに石細工みたいな笑顔でいるだけだった。手には一丁のリボルバーを携えるだけだった。
カット
Latest / 47:11
カットモードOFF
46:19
手取川
とりあえず前半ここまで!
チャットコメント
文字サイズ
向き
チャットコメント通知