もう二週間近く前のことだ。レイスがナタリー・パケットと喧嘩をしたのは。
秋と冬のちょうど間、肌寒い夜だった。冬になればお気に入りのソファで、暖房にあたりながら雑誌をめくる時間が好きだ。ストーブを点けてから、部屋が暖まるまでの油の臭いも嫌いではない。でもその日は残念ながらストーブはまだクローゼットの中。仕方ないのでベッドで毛布にくるまって過ごしていたのだ。最初はヘッドボードを背もたれにして、行儀良く座って膝の上の雑誌をめくっていた。それがだんだんと頭の位置が下がっていった。その日レイスは疲れていた。人気レジェンドであるレイスはタイミングが重なると連日ゲームに参加することになる。昨日はトリオとアリーナ、今日は季節のイベントゲーム3試合、明日はデュオマッチ、といった具合に。身体の疲労は何より良い入眠剤だ。神経が昂って眠れない日も多いレイスにとって、こうして自然にベッドで眠りにつけそうなことはとても珍しいことだった。
「レイス!こんばんは、いい夜ね」
すっかり頭を枕に預け、肩まで毛布を引っ張り上げたちょうどそのときだった。ナタリーが部屋に飛び込んできたのは。確かにレイスはナタリーと恋人関係にあった。いろいろと便利なことも多いので、彼女はレイスの自室の合鍵を持っている。とはいえ、とっくに成人済みの自立した大人ふたりだ。アポイントなしに部屋に訪れることは滅多なことではなかった。それが、よりにもよってこのタイミングで。心なし大きな音で靴が床を叩く音、それから寝室のドアを無遠慮に開く音。レイスの体温でほんのりと温まっていた小さな寝室は、少し外気が入っただけで急に体感温度が下がる。
「ああ、レイス、ここにいたのね!聞いてほしいの」
ベッドの片面にナタリーの膝が沈む。アルコールの臭いが鼻についた。眉間に力が入る。肩を押されて仰向けになったレイスの腰のあたりにナタリーは馬乗りになった。満面の笑みで顔にキスが降ってくる。されるがままにしてやっていると、飽きが来たのか今度は首の後ろに両腕を回してレイスの身体の上にぴったりと重なってきた。重い。
「ナタリー、何か用?」
「ええ、そう、聞いてほしいの!あのね、今日は私、ソマーズ博士とミラージュとトリオでチャンピオンになったでしょう」
「ええ」
その通りだ。最後に対峙した部隊がレイスの部隊だったのだから。悔しいが今日は完敗だった。最終リングで建物に陣取って有利な位置にいたのはレイスたちのはずだった。それがホライゾンとミラージュの陽動を処理している内に、いつの間にか出入口はフェンスで塞がれていて、有利不利が逆転していたのだ。ディメンションリフトでの脱出を試みたが遅すぎた。ポータルの出口に張っていたミラージュの本体にあっさりダウンをとられ、フィニッシャーまで決められた。彼女たちの作戦勝ちだ。ただそれは、ゲームのあとにもたっぷりと伝えたはず。なにせナタリーとミラージュだ。シップから宿舎まで延々といかに自分たちが優秀だったかを聞かされる羽目になり、レイスも称賛の言葉を惜しみなく送ったはずだった。
「今日はワットがMVPだってふたりとも褒めてくれてね、パラダイスラウンジでお酒をご馳走してくれたのよ」
「ええ」
「とっても楽しかったの!私のフェンスが役に立ったって」
ナタリーとレイスの身長は同じくらいだ。いや、ナタリーのほうがやや高いか。ただそれも誤差の範囲。そんな人間が自分の身体の上で楽しそうに身体を揺らしている。彼女の腰骨が下腹部のあたりに当たって痛い。だが、楽しそうな恋人の話の腰を折るのも悪い。まずは話を最後まで聞いてしまおう。ナタリーの腰に腕を回し、さりげなく横揺れを止める。すっかり眠気は霧散していた。
「ええ、それでどうしたの?」
「どうしたのって何が?」
「何か私に用があったから来たんでしょう?」
レイスの問いに、ナタリーは不思議そうな顔をして見せた。そんな顔をされても困る。首を傾げてやると、いよいよナタリーは頭を上げて考え込み始めた。上半身が反り返って、骨盤が腹に当たる。はっきり言って痛い。それに重い。変なところに重みがかかっているせいで、足の先が冷たくなってきた。せっかく毛布の中で温まっていたのに。
「もちろんよ!それは、その……あの、なんだったかしら?レイスに話さないと!って思ったはずなんだけど」
自分でも思っていたよりも大きなため息が漏れた。ただでさえうんざりしていた気持ちに拍車がかかる。正直に言って、今日はもうひとりにしてほしかった。さきほど掴みかけていた眠気をもう一度呼び戻したかった。彼女が明日ちょうど休みなのは知っていたけれど、レイスは明日もゲームがあるのだから。珍しくベッドでゆっくり眠れるかもしれない貴重なチャンスを逃したくはない。
「あの、ナタリー、悪いんだけど」
「レイス、あなたの瞳って本当に美しいのね。吸い込まれてしまいそう」
「ナタリー」
やんわりと肩を押す。何を勘違いしたのかゆっくりと顔が近づいてくる。思わず顔を背けると唇が頬に当たった。今度はもう一度肩を強く押す。離れていく身体からまたアルコールの臭いが香った。
「瞳だけじゃないわ。ああ、レイス、あなたって本当に素敵よ」
部屋着の裾から冷たい手のひらが侵入して、裸の腹を撫でた。勘弁してほしい。少し乱暴に振り払うと手のひらは抵抗なく服から出ていった。今度は右耳を食まれた。鳥肌が立つ。左手で顔を鷲掴みにする。だんだんこちらの遠慮もなくなってくる。
「ナタリー、ごめんなさい、今日はそういう気分じゃないから」
「私だけの幽霊さん、そんな顔をしていてもかわいらしいのね」
両手が頬に添えられて、唇を合わせられる。酒臭い舌が唇を割って入ってきて、それが限界だった。
骨が肉にあたる鈍い音、それから聞いたことのないようなナタリーのうめき声が寝室に響く。自然に身体が動いていた。レイスの膝が彼女の鳩尾のあたりに綺麗に刺さった。レイスはとにかく身体の上から降りてほしいと思っただけなのだ。当初の目的は達成され、ナタリーはレイスの隣に横たわった。さすがにまずい、と思ったレイスは慌ててその横顔を覗き込んだが、ペースは早いが息はしているし、嘔吐の気配もない。
「あ、あの、ナタリー、その……大丈夫?」
「大丈夫ではあるんだけど……、なぜ蹴られたのか、理由を聞いてもいいかしら……?」
息も絶え絶えといった様子に申し訳ない気持ちにはなる。が、元はと言えば彼女が悪かろう、という気持ちも多分にあった。申し訳ないと思いつつ、言わなきゃわからないことにまた溜息をつきそうになったのも事実だ。
「あの……ナタリー」
「ええ」
「今日のところは帰ってもらっても?」
「あなたが、そう言うなら……」
ゆっくりと立ち上がるナタリー。寝室から出ていくとき、彼女は一度だけこちらを振り向いた。入って来たときの陽気な赤い顔とは正反対の、青白い顔。悪いことをしたとは思うが、元をたどればやはり彼女自身が招いたことではないか。一方で、年上の恋人としては引き止めるのが筋なのかもしれない。自分が悪かった、と。そういう気分ではないが今日は一緒に眠らないか、と声をかけるのが正しい対応なのではないか。
「……おやすみなさい、ナタリー」
「ええ、おやすみ、レイス……」
一瞬の迷いはあったが、心なし小さくなってしまった背中をそのまま見送る。玄関口を出る前に咳こんでいる音が聞こえて、申し訳ない気持ちに拍車はかかったがやはり声はかけなかった。そのまま毛布を引き上げ、膝を抱えて小さく横になる。膝に彼女の腹の感触が残っていた。悪いことをしただろうか。いや、したには違いないのだが、謝らなければならないだろうか。謝って彼女は許してくれるのだろうか。いや、そもそもレイスが謝るべきことなのだろうか?寝室は急に寒くなった。鼻のあたりが冷たくて不快だ。見れば寝室と居間の間の扉が薄く開いていた。細く長い息が漏れた。スリッパを引っかけて扉を閉め直す。ベッドに戻ると心なしかさっきまでの温もりも消えてしまったように感じた。
それが二週間前のこと。その日からレイスはナタリーとまともに話す機会を持てていなかった。
レイスは連日のゲーム続き。それから時期が悪いことに、シーズンの終わりが近づいていた。次のシーズンでは新たな惑星が会場として追加されるらしく、ナタリーはそちらの設営に泊まりがけで駆り出されている。ここ数か月、新会場のリングの設計を進めているとは聞いていた。間の悪いことに現地での設営は数日に及ぶ。
「なぁんで毎日毎日寂しくここに来てひとりで飲んでるってワケ?」
「……何か用?パーリック」
パラダイスラウンジの片隅。レイスはひとりロックグラスを傾けていた。ここ数日はいつもそうだ。ゲームの帰りにここに来ては、店が閉じるまでこの一角を占領している。なんだかまっすぐ帰る気にはなれなかった。別に、これまでだって毎日毎日ナタリーが部屋を訪れていた訳ではない。その逆も然りだ。ただ、あの夜を最後に顔を見れていないだけ。それ以上でも、以下でもない。
「何か用ってことはないだろ?今日のチャンピオン様に言うことがあるよな?ブラジー」
「……おめでとう」
「おお!ご馳走様!悪いねえ」
パーリックはそのまま無遠慮にレイスの隣に座った。保護者に文句のひとつでもつけてやろうとカウンターの中の店主を睨みつけたが、まったく意に介する様子はない。ただパーリックの前にも大きなジョッキがひとつ置かれただけだ。何か言いたげだったミラージュは、そのまま別の客に呼ばれて離れていく。レイスは必然的にニタニタと嫌な笑いでこちらを眺めてくるパーリックと向き合う羽目になった。
「んで?聞いたよウィットに。喧嘩したんだって?アンタらも喧嘩なんてするんだね」
「……別に、喧嘩というほどのことはないわ」
「へえ、ブラジーって喧嘩じゃなくても人の腹蹴っ飛ばすんだな。変わったヤツ」
大きめの舌打ちが響き、背中を向けていたミラージュの肩が跳ねた。もう彼は意地でもこちらを向かないだろう。それにしてもパーリックだ。なぜそこまで事細かにナタリーとレイスの間に起きたことを知っているのか。少なくとも、レイスはミラージュにそこまで話していない。となるとナタリーからだろうか。あの二人は変なところで馬が合うのか、ときどき恐ろしいほど私生活が筒抜けになっていることがある。ミラージュに伝わるということは、パーリックにも伝わると同義。それはつまりレジェンド全員に話が通ると言っても過言ではない。レイスはもう一度舌打ちをした。よっぽど何を考えているのかがわかりやすかったのだろう、パーリックが腹を抑えてケラケラと笑う。
「それで?十も年下の女と喧嘩して不安で不安でしょうがないってワケ?かわいいところあるじゃん、ブラジーも」
「……喧嘩ひとつで駄目になるような関係だなんて、思ってないわ」
それだけの時間をふたりで過ごしてきたと、少なくともレイスは胸を張って言えた。レイスが人より気難しいこともナタリーはわかってくれているだろう。ただ、こうして少し長い時間離れて過ごすことになる前に、喧嘩別れのようになってしまったのは初めてだ。端的に言って、気まずかった。どうしていいかわからないのだ。きっといつも通り帰ってくる。そう思っていることは虚勢ではないのに、一方でもし戻って来なかったら、と心のどこかで思う自分もいた。ひとりになるとだんだんと後者の気持ちが大きくなってくる。パラダイスラウンジに来て、特に誰と話す訳ではなくても人の声が聞こえる空間にいることは、レイスにとって良い気晴らしだった。
「アンタのこと、もっとこうスカしたヤツだと思ってたけどさ、あの女とちょっと上手くいかないくらいでそんな顔するんだね」
「ひどい言い草ね」
「アハハ!本当に今日はなーんも怖くない!ウィット、一番高い酒持ってきてくれよ!ブラジーのツケでよろしく!」
肯定も否定もしないレイスの前に、レイスが飲んでいたウイスキーのボトルが置かれる。瓶の中身はたっぷりと残っている。この店で一番高い酒ではないだろうということは明白だったが、それはミラージュの温情だろう。手酌で浴びるようにグラスを煽るパーリックの喉が動くさまをぼんやり眺める。ビールじゃないんだから、とは思ったが、特に指摘はしなかった。酒を入れてますます機嫌が良くなったパーリックの話を聞くのは悪くない時間の過ごし方に思えたから。問題は少しでもレイスのグラスが空に近づくと、並々と零れそうになるほど酒を注がれること。レイスは弱い方ではなかったが、パーリックの飲み方に釣られて結構な量を飲んでしまっていた。
「……ちょっと。あなたがどうしてレイスとふたりで飲んでいるの?」
パーリックが今作っている改造武器のどこがすごいか、という説明が三周目に入ったころ。聞きなれた声に、自然に顔がそちらを向いた。頭を動かすと、いつもより強い慣性を感じる。背の高いカウンターチェアからそのままふらりと落ちそうになったところを抱き止められた。外から帰ってきた匂いだ。少し砂っぽい、埃っぽい中に、いつものシャボンの香りがする。見上げた顔は、レイスが想像していたような仏頂面。彼女にしては珍しく、口角が下がっている。