屋上で手すりに寄りかかっていると、いきなり後ろへ引っ張られる。とっさに振り払おうとしても微動だにしない。ゴツゴツとした手が若葉翠(わかば みどり)の腕を強く握っていた。
「何してんだ。危ねえだろ」
見たことのない男だ。着崩した制服、威圧するような三白眼、ドスのきいた低い声。粗野な印象を感じさせる風貌をしていた。
「……痛い、放して」
「嫌だ。飛び降りる気かよお前」
足元を見下ろすと、つま先が屋上のヘリからはみ出していることに気づいて目がくらむ。地面まではゆうに10メート以上あるだろう。壁面をなぞって吹き上げる風に頬を撫でられたときに決心のくじける音がした。
男の手を借りて内側へ戻ったら、足に力が入らずへたり込んでしまった。
「で、どうしてあんなとこにいたんだよ。一歩間違えたら落ちてたぞ」
座り込む翠を見下ろして男が言った。
「なんでもない」
「なんでもないわけないだろ。もしかしていじめられてんのか?」
不躾な質問に翠は男を睨みつけた。
「……違うっ」
男は粗野な見た目と反して心配しているような声色だった。見知らぬ人間に憐れまれるのは最悪だ。仮にいじめられているだなんて口に出したら、翠が惨めな存在だと認めてしまっているようなもの。そんなの絶対に人には言いたくない。
一刻も早くこの場から去りたかった。立ち上がろうとするが、足の震えがまだ治らずふらついてしまう。翠の身体を支えたのはまたしても男だった。
「おい、大丈夫かよ」
返事はせず、翠はその手を振り払って急いで屋上から逃げた。
今から教室に戻るわけにもいかず、翠は保健室で授業が終わるのを待つことにした。あの男が言ったように翠はいじめにあっていた。最初はよく会話するクラスメイトが翠と距離を取るようになった。次に陰口が言われるようになって、そして今日の状況に至ったのだ。
クラスの輪から外されるようになった原因はわかっている。それは翠が純粋な人間ではないから。つまりクラスメイトたちにとって翠は黒い羊なのだ。
放課後のチャイムが鳴りしばらくしてから2年3組の教室へ向かう。幸い教室には誰もいない。スクールバッグを回収しに自席に向かうと机は土で汚れて何かの葉が数枚あった。葉を手に乗せると泣きたくなった。
「……ごめん」
ぽつりと許しを請うように自然と言葉がこぼれた。
朝、翠が教室に訪れると机の上には草花が無惨にばらまかれていた。それは翠が裏庭で大切に育てていたものだった。その光景に耐えきれず衝動的に屋上へ向かってしまったのだ。
教室から出るときにゴミ箱に目が行くと、捨てられた草花があった。翠は迷わずゴミ箱に手を入れて拾い上げる。乱暴に摘まれているせいで茎が折れたり、花びらが落ちたりひどい状態だ。だがそのまま放置するという選択肢はない。せめて裏庭に戻してあげたい。
裏庭にある花壇の一角は土があらっぽく掘り起こされている状態だった。沈む気持ちを抑えまだ大丈夫そうな植物を植え直す。ダメかもしれないけどやらないよりはマシだ。
ぼんやりと花壇を眺めていると昼にはさほど目立たないニチニチソウに目を奪われた。灰青の涼しげな色が夕闇のせまるにつれはっきりしてくる。時間や天気、角度や向きによって花は表情を変える。きっといつまで見ていても飽きることはないだろう。
昔から人間より植物のほうが翠に近いものがあるような気がして親しみを感じていた。それは高校生になった今も変わらない。
次の日、教室に入ると嫌な視線を感じた。馬鹿にするような人を見下すたぐいのもの。
「お、雑草女が来た」
それから陰口。いや本人に聞こえるように言っているから陰口とは言わないかもしれない。自席に着くと昨日と違い、机に土汚れがあるだけだった。安堵の息が漏れる。いつも通りの日常だった。
仲間はずれにされて、陰口を叩かれるだけなら我慢すればいいだけだから別に良かった。慣れてしまえば何も思うことはない。でも育てている植物たちに害が及ぶことはもっとずっと辛いことだ。
授業中が一番好きだ。ちょっかいを出される心配もないし、翠にとって一息つける時間だった。休み時間になると翠は素早く教室を出た。クラスメイトたちから逃げるためではない。目的地は裏庭。翠のクラスがある校舎からは少し離れているため休み時間に訪れる生徒は翠を除いて皆無だ。少なくとも人と会ったことはなかった。
休み時間にわざわざ外に出る理由は翠の体質にある。それは翠がヤドリギだからだ。
ヤドリギ、というのは正式名称ではないが一般的にそう呼ばれている。ヤドリギは成人女性のみに寄生し、腹の中で母体の養分を奪って成長する。通常妊娠したときと全く同じ変化を母体にもたらすため出産するまで気づくことができない。胎児の細胞に葉緑体が存在するかどうかでヤドリギと人間の区別がつく。
翠は光合成を行いながら、腕を太陽にかかげた。見た目では人間と全く変わりがない。翠でさえそう思うのだから、他人が外見のみでヤドリギだと気がつくことは不可能だ。
しかし、翠の体の中身は決して人間のそれではない。光合成を行わないと生きることができない事実が翠に重くのしかかる。
「いっそ植物だったら良かったのに」
そうしたら人間か植物かなんて二律背反に悩まされることはなかったはずだ。日を浴びていると、なんで私なんだろうという疑問が降ってくる。いくら考えても答えはないのに何度も何度も翠は考えてしまう。
昼休みになり翠は屋上へ向かった。授業の合間の休み時間と違い、中庭も裏庭も人がいる。一人になれて、かつ日の当たる場所を探していたところ屋上を発見したのだ。屋上への扉は南京錠がされていて一見開かないよう見えるが形だけ。
外は雲ひとつない快晴だった。やっと呼吸ができた気分だ。適当な場所に腰を下ろして手作りのお弁当を広げた時。どこからか聞き覚えのある声がした。
「昨日ぶりだな」
男が給水塔から降りて翠に声をかける。昨日会った名前も知らない男だった。
「今って昼休みか?」
「……」
「いつも一人で食ってんの?」
「あのさ、関わるなオーラ出してるのわかんない? 知らない人と喋る気ないから放っといて欲しいんだけど」
男のしつこさについ反応してしまった。男の瞳におもしろがるような色が浮かぶ。
「そういやお互い名前すら知らねえもんな。俺は3組の太刀川陽介(たちかわようすけ)。学年は同じだよな?」
太刀川がちらりと翠の上履きを見る。二人は同じ緑色のラインが入った上履きを履いていた。
「そうだけど……」
翠の言葉が詰まる。言いたいことがいくつもあって舌がうまく回らなかった。知らないやつと喋る気がないから自己紹介するってそうじゃないでしょ、とか。同じクラスじゃん、とか。それなのになぜ見たことがないんだとか、ツッコミどころがありすぎる。
「お前の名前は?」
「……若葉翠(わかばみどり)」
「よし! じゃあ今からもう知り合いだな。よろしく翠」
うっ、陽キャ特有のパーソナルスペースガン無視距離感。ずけずけと踏み込んでくるやつは苦手だ。しかもいきなり名前呼びというのもどうかと思う。
一度会話を始めてしまった以上、無視するのは居心地が悪く渋々ではあるが翠も応じた。ただ以外だったのは初めて会ったときのことを一切聞こうとしなかったことだ。翠としても掘り返したくない記憶だからありがたいが、そんな空気を読めるのが以外だった。
「私も同じクラスなんだけど……」
「あー2年になってすぐ停学くらったから」
「学校に来てるのに?」
「それはサボってるだけ」
なんてやつだ。停学明けにいきなりサボるなんてやっぱ見た目通りの不良なんだと感心してしまう。そんな相手がどうして翠にここまで関わってくるのかわからない。
昼休み終了の予鈴が鳴り、翠が立ち上がると太刀川も後に続いて立ち上がる。
「なんで着いてくるの?」
「なんでって授業受けるために決まってんだろ」
あまりにも常識的な回答に驚いて言葉が返せなかった。今の今までサボりまくってたくせに一体どんな風の吹き回しなのか。
翠と太刀川の屋上でしか会話しない奇妙な関係性が一週間ほど続いていた時のこと。神妙な面持ちで切り出したのは太刀川だった。
「お前さあ」
「うん」
「やっぱいじめられてんだろ」
数日前から太刀川が何か言いたげな雰囲気を出しているのを、翠は気づかないふりをし続けてきた。だがそれも限界だったのだろう。こんな面倒な問題にわざわざ首を突っ込むなんて相当のもの好きに違いない。翠は呆れて笑ってしまった。
「……そうかもね」
不思議とすんなりと肯定することができた。その答えに太刀川は意外そうな顔はしていない。むしろそうだろうなとでも言い出しそうな確信を持った顔をしている。翠と初めて会った日から一週間、太刀川はサボりもせず真面目に授業を受け続けていた。つまり翠の普段の生活を知られてしまっていた。
「ねえ、なんで私が孤立してるか知ってる?」
翠は地面にぺったりと座った体勢のまま、太刀川に向かってちょいちょいと手招きした。
「ちょっとかがんで。うん、あとほんの少し。おっけー」
太刀川の頭に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せる。
「お、おい! なんだよいきなり!」
「ちょっとあまり暴れないで」
抵抗しようとする太刀川を大人しくさせて、耳を胸元にくっつけた。
「あ? 鼓動が……」
「そ、動いてないでしょ。私ねヤドリギなの」
ヤドリギは成長するにつれて人間と身体の構造がかけ離れてゆく。思春期に入ると次第に臓器は機能を停止していき、体内で発達した植物と置き換わる。翠の心臓は高校に入ったときにはすでに止まっていた。
「馬鹿か! いちいちそんなことすんじゃねえ。てか同じクラスなんだからお前がヤドリギだって話が勝手に入ってくるんだよ」
太刀川は翠を振りほどいて言った。
「やっぱり知ってたんだ」
「まあ、最近知ったんだけどな。あと、証明するためだからって毎回やってんのか?」
「するわけないでしょ」
「それより、気持ち悪いと思わないの?」
「あ? 思ったことねえよ」
「……そっか」
「心のなかでとどめておこうと思ってたんだけど、やっぱり相談してもいいかな」
「なんだよ改まって」
「昨日ね、忠告されたの。あんま太刀川くんと仲良くするな離れろって」
本当はもっと乱暴でひどい言葉もあったけど、言いたいことをまとめるとこんなとこ。
「意味わかんないって顔してるね。気づいてないかもだけど太刀川って女子の間じゃ人気あるみたいだよ。だから気に食わなかったんだろうね」
女子の間、といっても翠は太刀川に人気があることは初耳だった。言われてみれば顔は整っているし、悪っぽいところが魅力的に見えるのかもしれない。
だから翠は距離をおこうと決めていた。今日だって相談する気なんてこれっぽっちもなかったはずだった。
「悪い。俺のせいか」
「んーん、気にしないで。別に太刀川が悪いわけじゃないでしょ」
「誰だ?」
「言わない」
「そんなヤツのことかばう必要ねえだろ」
「だって名前言ったら太刀川突っ込んでいきそうなんだもん」
翠の言葉は痛いところをついたらしく、太刀川の眉間にシワが寄った。
「わかった、無理には聞かねえよ。とはいえ今の境遇のままでいいわけないだろ。俺がなんとかしてやる」
「い、いやいいよ。私は大丈夫だから」
「昼休み終わる直前まで教室に戻ってくんなよ」
翠は太刀川の去っていた屋上の扉を呆然と眺めていた。戸惑いの気持ちもあったが、迷いなく行動してくれることがどこかもどかしく嬉しかったから。だから、引き止めもせず見送ってしまった。
からっとした空気に心地よい風、降り注ぐ太陽光はとてもおいしい。初夏は過ごしやすくて好きだ。ゆったり流れる雲に見とれていると予鈴が鳴った。足がちょっと重い。なんとかしてやるのなんとかの中身が気になるというか怖い。
本鈴が鳴る直前に教室に滑り込む。太刀川と目が合うが、きまり悪そうな表情をしていた。教師の授業開始の合図を聞きながら太刀川の目論見が失敗したことを悟った。
「……どうしたの」
休み時間に入った途端、太刀川が机の横にやってくる。その割にうつむいて喋りださない。
「……すまん、上手くいかなかった」
「いいよ。ありがと」
いかつい見た目でしょんぼりしているのが大型犬みたいで、なんだかおかしくなってしまった。ヤンキーみたいななりをしているくせに正義感が強く、でも無鉄砲で考えなし。翠にとってそのまっすぐさが好ましかった。
翠の状況が改善されないまま終わるのならまだよかった。しかし、太刀川の行動は翠を取り巻く環境をより悪化させる一手となってしまう。
帰りのホームルームが終わり翠が下駄箱を開けると手紙が入っていた。周囲に人がいないことを確認して読んでみると、伝えたいことがあるから旧校舎の空き教室に来てほしいというものだった。差出人の名前は書いていない。宛先も差出人も不明なので本当に翠に宛てたものかわからない。もし置く場所を間違っていたら翠が伝えなければ気づくことができないだろう。警戒しながらも翠は指定場所へ向かった。
翠のいる新校舎から旧校舎までは距離がある。1年生の教室を通り過ぎ、職員室前を越えて、体育館と反対に伸びる渡り廊下の先が旧校舎となっている。一部は部室として使用されているが二階はほとんど使われていない空き教室ばかり。
目的の場所まで歩いていき、バレないように教室を覗くと中には誰もいなかった。疑問に思いながら入るとほこりっぽい匂いがした。窓から指す光のなかに多量のほこりが浮かんで見える。部屋の中心には机が一台置かれている。
「やっぱりいたずら?」
近場の教室も一応確認するがやはり誰もいない。いくつか教室を見て回り指定された教室に違和感を覚える。机が置いてある部屋は最初に入った教室だけだったのだ。再度机を確認すると引き出しにプリントが入っていることに気づいた。無記入の小テスト用紙、元の場所に戻そうとしたとき裏側に書かれた文章が目に入る。手に力がこもりプリントを握りつぶす。
「これって……!」
翠は反転して教室から飛び出し走り出す。
手紙は翠をハメるための囮だった。差出人の狙いは翠を呼び出すことではない。裏庭に翠を来させないようにするのが真の目的。プリントにははっきりと何をすると書いてあるわけではないが、少なくとも翠に危機感を予感させる内容だった。
遠い。場所が悪すぎた、旧校舎と裏庭は正反対の位置にある。一分一秒が惜しい今、果てしなく遠い。ふと、太刀川に連絡を取れば助けてくれるかもしれない、と頭をよぎる。胸ポケのスマホを取り出してから連絡先すら交換していないことを思い出した。まだ連絡先すら交換していない事実に少し落ち込む。いやなんで落ち込む必要があるんだ、知り合ったばかりだから知らなくて当然、違うそうじゃない。酸素を消費しすぎて頭がうまく回らない、とにかく急がないと。
余計なことは考えず無心で駆けて裏庭にたどり着くと、そこには想像もしない光景があった。
「なんで太刀川が」
「おう、遅かったな」
翠が息を整えながら尋ねると、平然とした様子で太刀川が言った。そこでようやく女子三人の存在に気づく。一人は翠に頻繁に嫌がらせをしてくる女、あとの二人は取り巻き。女たちは花壇を背後に翠と太刀川の方を向いている。
呼吸が整うに連れ思考がクリアになってくる。段々と状況が掴めた来た。手紙で呼び出した件はこの女たちだろう。位置関係を見るに悪さをしようとした女たちを太刀川が咎めてくれていたのかもしれない。花壇はどれも無事で、安堵のため息が漏れる。
「よかった」
「よくねえだろ。どうすんだよこいつら」
リーダー格の女は苛立たしさを隠そうともせず翠を睨みつけている。取り巻きはおろおろと戸惑った様子。もしかして翠が到着するまで逃さないようにしていたのか。黙っている翠に太刀川が言った。
「ムカつかねえのかよお前、こいつらは大切にしているものを壊そうとしたんだぞ」
そう言われると腹の中がグツグツと煮えるような熱さが湧いてくる。ムカつかないかだと、ムカつかないわけがない。腹立たしいし