【初めての触れるだけのキスをしたけど、唇を離した後どうしていいかわからず赤くなってうつむくロイドとヨル】
今となっては果たしてどちらが先に、だったのだろう。
お互い定位置と言ってもいい一人掛けのソファと三人掛けのソファの間にある距離がいつの日からか埋まった事については覚えている。時折元の距離に戻り、そしてもう一度埋まって離れてを繰り返して、そしていつのまにか隣が定位置になった。数ヶ月掛けて。……と、思う。そう記憶している。
そんな長期間の経緯は覚えているくせに、たった、ほんの数十秒前の接触についてどちらが先だったのか、をきれいさっぱり覚えていないとはどういう事だろう。西国一の諜報員の名が聞いて呆れる。管理官に知られたら降格だろうか。お前健忘症なんじゃないか来週ちょっと精密検査受けてこい主に脳外科の、とでも言われそうな気がする。ものすごく。
楚々としたとてもきれいなひとだ、という印象は最初からずっとあって、それは今でも変わっていない。ベルベットのような深紅の瞳がそう思わせるのだろうか、月下の薔薇(ヴェスヴィアス)を想起させる。それとも夜の気配を思い出すのはつややかなブルネットのせいだろうか、あるいは沁みるように優しく柔らかい声音のせいだろうか。
とても近い所に、はたりと音が聞こえてきそうな瞬きをする瞳が見える。
不意に詰まった距離を仕切り直すだけの間はあった。じんわり赤さを増す目元、震えるように細かくゆらぐ視線、さらりと涼しげな音をたてて揺れる長い髪。いつかのように混乱と羞恥にあかせて殴り飛ばすなり逃げるなりする猶予は充分にあった。
なぜか喉が涸れていて、いいんですか、と確かめた声音はとても掠れている。どうぞ、と返ってきた声もまた聞いたことがないほど掠れていた。揃ってささくれた声をしていた事が妙におかしい。ふふ、と彼女が小さく肩で笑ったことに安堵して、絡ませていた指に力を篭めた。
その白い肌がとても暖かく、そして柔らかいことはもう知っている。けれど彼女が好きなアールグレイの香りをたてる唇の温度と柔らかさは、まだ知らなかった。
触れ合った刹那、驚いたように手が肩が震えたのがわかる。子供が親に、あるいは親が子供に頬や額へ贈るよりも拙いキスなのに、それでも彼女は驚くのだ。
同じだけの熱量など期待してはいない。この偽装結婚まで恋愛から縁遠く生きてきた物慣れない彼女にそれは酷というもので、ただ触れるだけのキスで精一杯のはずだった。今は、まだ。
満ち足りたかどうかと問われれば、正直なところは物足りない。けれど驚かせて怖がらせて、せっかくここまで許された距離をまた元に戻されたくはなかった。握りあった指とも手の平とも違う柔らかさを名残惜しく思いながら身を引くと、おそるおそる開かれた深紅の目と視線が合う。
……何故だろう、そこで全身の血が逆流でも始めたかのような気分になった。ぶわわ、と彼女はなおも顔を赤くして、何か言いかけたまま何度も何度も空気を食み、そして最終的に何も言えないまま押し黙ってしまう。
何か気の利いた言葉でもかければよいものを、思考までもがぐるぐると逆向きに流れはじめて息が詰まった。触れるだけの口付けでいまさら赤くなるような年齢でもなければ、そんな真っ直ぐな生き方もしてきていない。なのにこの時だけは、どうしても、これ以上どうにもならなかった。互いに視線を合わせていられず、こんなにもいたたまれない思いで揃って俯いているなどいまどき十代のティーンだってやらない。かつりかつりと時計の秒針が回る音すらうるさいと思うほどの静寂。
いっそアーニャかボンドが起き出してくればよいものを、と神頼みでもするような気分で考えた。喉の下であばれまわっている心臓をなだめてすかして、何やら妙に動かしにくい左手を伸ばす。ひくりと息を飲む気配が伝わってきて慌てて手を引っ込めた。はじかれるように勢いよく彼女が顔を上げる。
あの、違うんです、と慌てたような声音はいまだ掠れていた。
――ちょっとびっくりしただけですから、その、……嫌とかそういうわけではないので、ええと……。
ずいぶん勢い込んで話し始めたのに、急降下で声がトーンダウンする。まっすぐ上げていたはずの顔も一緒にそのまま手元を見つめる角度に戻ってしまった。
ただ触れるだけのキスで満足できたかどうかと問われれば、やはり答えは今でも同じものになる。
――少しずつ努力しますから、どうか呆れないで、いただければ……。
物慣れない彼女の精一杯がその言葉なら、たとえ遅々として進まない歩みでも、いくらでも待てるような気がした。
<終>