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先行して階段を登る妻の手が、くるりと鈍い金色のスティレットを回して逆手に握りなおされる。ぐんっと登る速度があがって屋上が近いことを察した。
弾倉を入れ替えてスライドを引き、そこまでは外壁に沿っていたものが途中から屋内に引き込まれるかたちの最後の踊り場でヨルを追い抜く。登りきった階段の先、キイ、と細くきしむ塔屋の扉が吹きさらしの風に揺れていた。屋上特有の、地上より強い風。薄く積もった粉雪が渦を作って舞っている。
――扉の先、左手にあるのは給水塔とエレベーターの機械室、それから館内からの排気口。右手は季節のよい間、ビアガーデンとして開放されている平坦な、素通しの空間だ。転落を防ぐための柵が二重に巡らせてあるがその先はバーリント市内が一望できる。潜むとすれば必ず左手。いや、陰湿な策をめぐらせる性格からすれば、――。
屋上へ踏み込んできたロイドの背後、非常階段の塔屋から回りこむ人影。荒い呼吸音に振り返るのと銃口が向けられるのとは同時だった。深夜の、真冬の冷たい風が頬を叩く。
はは、は、と痙攣するようにひきつったように笑い、もはや伊達男の面影など微塵もないゆがんだ顔で、ことさら見せつけるようにトリガーへ指をかけた。嗜虐的にこれから撃ち殺さんとする相手をたっぷり眺めまわす者は少なくない。……これまでに何度そういう視線に晒されたものか早いうちに数えるのは止めてしまったが、こいつもそうか、とくろぐろと口をあけている銃口の暗がりを睨みながらロイドは息をつく。
果たして彼はその瞬間、真横から一直線に腕ごと銃をかっさらっていったのが何であったか、把握できただろうか。ぱぁんと真っ暗な虚空へ銃弾を吐き出したオートマチックが屋上のどこかへ吹っ飛んでいき、からからと玩具じみた音を残す。
「――は、」
まっすぐに真横から来た何かに凄まじい速さで右腕をはじかれ、蹈鞴をふんで体勢を立て直した。信じられないものを見る顔で、ものを掴めなくされた右手の平を凝視する。自分ではそこを開閉しているつもりなのだろう、茫然と手首の先を眺める男へ、いとも優雅にベルベットのドレスを翻して歩み寄る<いばら姫>の姿があった。
手の平の中心が金色のスティレットで縫い止められており、粉雪のうすく積もる屋上に血痕が散らばっていく。
「そう言えば自己紹介はまだ、でしたでしょうか。――ああ、仮面のままでは失礼ですね」
ごく自然な所作で粉雪を含む風へうつくしい素顔を晒し、薔薇の花びらを煮詰めたような瞳をじっと向けられて、人生最後の数十秒に男は何を思っただろうか。
妖精が魔法で仕立てた馬車か、あるいは黒塗りの高級車からレッドカーペット上へでも降り立ったように、優雅にゆっくりと歩を進めるブルネットの佳人。先ほどまではソフトドリンクのグラスか、あるいは富豪の男の手を握り返していたはずの手には、巨大な縫い針か、あるいは杭のようにも見えるにぶい金色の武器が握られてある。淑女の手にあってよいものではない。ましてこれから計画をすべてご破算にしてくれた男を銃殺できるという瞬間に、その武器を真横から投擲してきたあげく、こうして手の平の中央を貫通させるとは悪夢も良いところだろう。
「わたくし、<ガーデン>より派遣された<いばら姫>と申します。大変恐縮なのですが」
その場へへたりこみ、為す術もなく冬の雪空を背に立つ暗殺者を男は見上げるしかない。静かに静かに、衣擦れの音もさせずに、けれど終幕へのカウントダウンを告げるヒールの音は響かせて、ヨルはいつものように吐息めいた宣告をその耳へ落とした。
「そこでお待ちいただいている夫の替わりに。息の根止めさせていただいても、よろしいでしょうか」
今際の際にはたして彼が何を思ったか、ロイドの知るところではない。
……ふ、と白く意識が浮上する。
公園通りの自宅の寝室ではない、どこか植物めいたいい香りのする清潔なリネンの海が見えて、ヨルは何度か瞬きを繰り返した。柔らかく、さらりと手触りのいいシーツと、レースのカーテン越しに冬の陽射しがたっぷり降り注いでいる大きな窓。昨晩は雪が降っていたが、開けて新年の今日は快晴のようだった。
まだ頭の中がぼんやりとしている。本当なら二人で花火を楽しんで、それから新年と和平のよろこびに湧いている街を夜通しゆっくりゆっくり歩いて、帰宅するはずだった一年最後の日。なぜかそれが仮面をつけてのパーティーに潜入するという任務に振り回される夜になり、タクシーなんかつかまるわけがないこんな夜にそこから自力で帰宅というのも何だから、という理由でこうしてWISE経由で宛がわれた瀟洒なホテルで目を醒ましている。
アーニャは、娘は、もう起きただろうか。視界に入る範囲の調度に、時計は見あたらない。なんとか光の角度で時刻を判断するしかないが、まだそれほど遅い時間ではないだろう。ユーリは元々規則正しい生活をしているはずなので、昨晩夜更かしでもしていなければ今頃はきちんとアーニャを起こして、夫が作りおきしてくれた料理を暖めてくれているはずだ。
普段あまり使わない部分だったからだろうか、手首の外側から肘にかけてと言うか、ダンスを踊るときに個人的に一番緊張する――両腕をホールドの位置に持っていく時の部分が軽く痛む。放っておいてもすぐに治るものなので気にはならないが、慣れない事をした、と思い出して少し恥ずかしい。
恥ずかしいと言えば衆目の場で、ホールから退出するまでのほんの一分にも満たない時間とは言え、あんな風に夫にエスコートされて手を振って、なんて事までしてしまった。いや、任務上怪しまれないためにはあの場では仕方ない事で、状況を作り上げた張本人である夫からは全てが終わった後本当にすみませんでしたと何度も謝られた。
こういうのが苦手なのがわかっていて、それでも巻き込んでしまったことを申し訳なく思います、とあれだけ大胆に観衆を最後まで欺ききったくせに、夫はそんな些細な事で真摯に許しを請うのだ。
夫が握っていた手を陽の光にかざし、ふふ、とちいさく笑う。確かに驚きはしたし慣れないことをしたし、恥ずかしい思いをしていたのは間違いなく事実だ。けれど、表向きの仕事はさておき、夫と自分はとても世間に顔向けできない仕事をしている。あれはどこをとっても偽りで、あくまで偽装のためであって、まして自分は銀幕の女優でもなんでもないのだけれど、こんな素敵なひとが伴侶なんですよと、誰に胸を張っても許されるのではないかと、どこか誇らしいような高揚するような、そんな不思議な気分だった。口に出して主張できる状況でもなく、見ていた誰かが察するはずもなかったのに、なぜかそんな気分になっていた。
とても人には言えないことをしている、それ自体はもういい。もう自分の中での整理はとっくについている。けれどそんな自分があたりまえの幸せを享受しててもよいのかという罪悪感は、忘れた頃に何度もこうして頭をもたげるのだ。
……ああ、でも、久しぶりに踊ったワルツは、正直に言えば楽しかった。パートナーが夫でさえあればひとつの文句もつけようのない時間だっただろう。逆に言えば、急に大役を振られる側だったというのにあの富豪の男性はこれ以上ないほど立派にヨルをリードしてくれたということだ。
年齢の開きもあるのか、夫以外の男性に身を預ける状況だったというのに、握った手からは敬意と気遣いしか感じられなくてとても安心できた。もし店長さんや部長さんと踊ったらあんな感じでしょうか、結婚式のラストダンスは断られちゃいましたけど、とヨルはいくぶん心楽しい気分で想像をめぐらせる。
いつのまにか思い出し笑いが声になっていたのか、陽にかざしていた手が突然横から取られた。そのままぱさりとシーツの上に伏せた手首の先、一体どこのタイミングから見られていたものか、うつ伏せのままロイドがくつくつと声を殺して笑っている。
おはようございますロイドさん、よいお天気ですね、といつものように言おうとして、夫の腕の先にはいつものように寝間着がわりにしている、――いや、それどころか。
今更ながら現実に立ち返りヨルの顔から血の気が引く。いや、引いた後に物凄い勢いで戻って赤くなる。
「随分ご機嫌ですね」
「……う、あ、」
そうだった。
このくらいのランクのホテルでハンガーが置かれていないわけがないのに、あの着心地よいベルベットのドレスはなぜかあそこの窓際のソファーの上で斜めにくったりしてしまっているし、そもそも名実ともにれっきとした夫婦が泊まるならきちんと申し出ないかぎりベッドは一つなのが当然で、ああもうこれ以上は。
潜入のためお互い外してしまってはいたけれど、本来なら銀環が嵌まっているはずの指に口付けて、頭の上までシーツを被ってしまったヨルよりもずっと機嫌よさそうに夫は言うのだ、おはようございます、と。